44 / 88
第六章 「恋におちて」
1
しおりを挟む
あまり寒くない冬も、残すところ一ヶ月ばかりとなっていた。
つい先日二月になったと思ったところなのに、もう一週間が過ぎている。
原田貴明はパソコンのモニタに小さく表示された日付に気づいてから、軽く溜息をついた。
キッチンを見ればプリンを作ると言い出した沖愛里が、茶こしで注意深くカップに卵液を注いでいる。普段使っている小さい方のコーヒーカップたちがその犠牲になっていたが、彼らだけでは数が足りず、いつの間にか湯呑みや茶碗まで並べ始めていた。
「ねえセンセ」
彼女はその視線に気づいたのだろうか。作業を続けながら声を掛けてきた。
「何だね、愛里君」
「お姉ちゃんにはもう告白しないの?」
その質問に思わず作業途中のファイルを削除しそうになる。
「な、何を言い出すんだよ」
「だってお姉ちゃんのことずっと好きなんでしょ? だったらいつかは告白しないと。センセから貰った恋愛教室のステップの最後の方にもちゃんとあったよ。告白をするって」
妙に記憶力の良いところがある。
それでも流石に自分の姉のことを好きだと原田が口にしてからは、以前のように隙きあらば恋愛関係に発展させようという素振りは見せなくなった。
「告白はもうしたよ。それも随分と前に」
結果は? とは訊いてこない。
「その一回だけでしょ?」
「大昔の恋愛ドラマのように何度も告白すればいつか根負けして付き合ってくれる、というタイプの女性だったなら、僕は彼女を好きになっていないよ」
今でも鮮明な映像として、彼女に振られた時のことを思い出せた。
三月の高校卒業の日、白いセーラー服がよく似合う彼女はその長い髪を一つに括り、手には卒業証書の入った筒を持って、原田を一瞥した。小さく首を振る。その動作だけでも答えには充分過ぎるのに、彼女はそれに加えて今後の自分の人生には原田貴明という人間の介入する余地がない、とまですらすらとまるで予め用意しておいた文章のように言ってのけた。
「どうせお姉ちゃんにボロボロになるまで色々と言われたんでしょうけど、そういうお姉ちゃんのことを好きになったんじゃないの?」
「好きになった相手の言葉だからこそ、余計に精神的にきついんじゃないかな」
わかる。
と小さく呟いてから「できた」と笑顔を浮かべて彼女はこちらを見る。
「ところでセンセ。今夜は何か食べたいものあります?」
またか。と原田は思って頭を振る。
この質問が一番悩ましい。食に対しての特別な欲求のない原田にとっては、味に文句のつけようのない愛里の手料理なら何だろうと構わなかったし、何なら毎日同じメニューでも飽きることはないだろうとさえ思えた。
それなのに彼女は毎日毎日決まって彼に「何が食べたい?」と尋ねる。
最初の内は気を遣ってあれこれと答えるようにしていたが、そのうちに面倒になり、今では「適当でいいよ」とつい言ってしまう。
「適当が一番困るんだよ。それに相手のこと何も考えてない感じが、すごく嫌」
「別に考えてない訳じゃない。本当に愛里君の手料理は美味しいから、何を出されても良いと思っているんだ。それじゃあ駄目なのか?」
「恋愛のセンセなんだから、今の解答じゃ良いとこ十点だね」
そう言いながらも愛里はてきぱきとオーブンレンジにプリンをセットすると、原田が使ったことのない機能を操作して焼き上がりの時間を設定してしまう。
「十点満点にならない?」
エプロンを脱ぎながら戻ってきた彼女にそう言うが、
「駄ぁ目」
と舌を出され、結局いくつか晩御飯のメニューを答えさせた挙句に、
「じゃあ今日はスープカレーにするね」
原田の口から一言も出ていないものに勝手に決めて、買い物に出かけて行ってしまった。
「これだから」
――女は。
そう口から取り出しかけて、原田は自重する。
いつの間にかすっかり原田の生活に溶け込んでしまっている沖愛里という女性に対して、自分が如何に気を許してしまっているか、それがよく分かる。女性に対してそんなよくある軽口を叩くことは、原田の場合ほとんどなかった。それなのに、以前編集の村瀬ナツコにも言われたが、彼女とはあまり考えることなく会話のキャッチボールをしてしまっている。
これで恋愛感情の一つでもあれば、もっと男女として彼女に接してあげられるのだろうか。
パソコンのモニタに視線を戻すと、いつの間にかメールが届いていた。
マウスを操作してそれを開く。
相手は例の彼女だ。
こちらから出したメールへの返信を示す「Re:」という件名になっていることが多いのだけれど、今回は何故か「原田貴明へ」とわざわざ名指ししてあった。
冒頭には挨拶も何もなく、ただ、
『これで最後になります』
という文章の続きに、恋愛教室四部作の最後のプロットとそれについての詳細な指示が書かれていた。
原田は息をするのすら忘れてその文面を読み耽ると、頭の中で整理してから、再び頭から読み直す。
「嘘だ……」
どうしてもそう口に出したくなる。
「何でこんなラストなんだ」
これまで彼女に対して文句を言うどころか、展開に対して驚きこそすれ否定的に思ったことはなかった。けれど今回ばかりは意義を言いたくなる。
何故ならそれは一人の読者としてずっと追いかけてきた恋愛教室だから、というだけでなく、それを書く作者として、どうしても超えてはならない領域に足を踏み入れていると思えたからだ。
「無理だ……。これは、僕には書けない」
つい先日二月になったと思ったところなのに、もう一週間が過ぎている。
原田貴明はパソコンのモニタに小さく表示された日付に気づいてから、軽く溜息をついた。
キッチンを見ればプリンを作ると言い出した沖愛里が、茶こしで注意深くカップに卵液を注いでいる。普段使っている小さい方のコーヒーカップたちがその犠牲になっていたが、彼らだけでは数が足りず、いつの間にか湯呑みや茶碗まで並べ始めていた。
「ねえセンセ」
彼女はその視線に気づいたのだろうか。作業を続けながら声を掛けてきた。
「何だね、愛里君」
「お姉ちゃんにはもう告白しないの?」
その質問に思わず作業途中のファイルを削除しそうになる。
「な、何を言い出すんだよ」
「だってお姉ちゃんのことずっと好きなんでしょ? だったらいつかは告白しないと。センセから貰った恋愛教室のステップの最後の方にもちゃんとあったよ。告白をするって」
妙に記憶力の良いところがある。
それでも流石に自分の姉のことを好きだと原田が口にしてからは、以前のように隙きあらば恋愛関係に発展させようという素振りは見せなくなった。
「告白はもうしたよ。それも随分と前に」
結果は? とは訊いてこない。
「その一回だけでしょ?」
「大昔の恋愛ドラマのように何度も告白すればいつか根負けして付き合ってくれる、というタイプの女性だったなら、僕は彼女を好きになっていないよ」
今でも鮮明な映像として、彼女に振られた時のことを思い出せた。
三月の高校卒業の日、白いセーラー服がよく似合う彼女はその長い髪を一つに括り、手には卒業証書の入った筒を持って、原田を一瞥した。小さく首を振る。その動作だけでも答えには充分過ぎるのに、彼女はそれに加えて今後の自分の人生には原田貴明という人間の介入する余地がない、とまですらすらとまるで予め用意しておいた文章のように言ってのけた。
「どうせお姉ちゃんにボロボロになるまで色々と言われたんでしょうけど、そういうお姉ちゃんのことを好きになったんじゃないの?」
「好きになった相手の言葉だからこそ、余計に精神的にきついんじゃないかな」
わかる。
と小さく呟いてから「できた」と笑顔を浮かべて彼女はこちらを見る。
「ところでセンセ。今夜は何か食べたいものあります?」
またか。と原田は思って頭を振る。
この質問が一番悩ましい。食に対しての特別な欲求のない原田にとっては、味に文句のつけようのない愛里の手料理なら何だろうと構わなかったし、何なら毎日同じメニューでも飽きることはないだろうとさえ思えた。
それなのに彼女は毎日毎日決まって彼に「何が食べたい?」と尋ねる。
最初の内は気を遣ってあれこれと答えるようにしていたが、そのうちに面倒になり、今では「適当でいいよ」とつい言ってしまう。
「適当が一番困るんだよ。それに相手のこと何も考えてない感じが、すごく嫌」
「別に考えてない訳じゃない。本当に愛里君の手料理は美味しいから、何を出されても良いと思っているんだ。それじゃあ駄目なのか?」
「恋愛のセンセなんだから、今の解答じゃ良いとこ十点だね」
そう言いながらも愛里はてきぱきとオーブンレンジにプリンをセットすると、原田が使ったことのない機能を操作して焼き上がりの時間を設定してしまう。
「十点満点にならない?」
エプロンを脱ぎながら戻ってきた彼女にそう言うが、
「駄ぁ目」
と舌を出され、結局いくつか晩御飯のメニューを答えさせた挙句に、
「じゃあ今日はスープカレーにするね」
原田の口から一言も出ていないものに勝手に決めて、買い物に出かけて行ってしまった。
「これだから」
――女は。
そう口から取り出しかけて、原田は自重する。
いつの間にかすっかり原田の生活に溶け込んでしまっている沖愛里という女性に対して、自分が如何に気を許してしまっているか、それがよく分かる。女性に対してそんなよくある軽口を叩くことは、原田の場合ほとんどなかった。それなのに、以前編集の村瀬ナツコにも言われたが、彼女とはあまり考えることなく会話のキャッチボールをしてしまっている。
これで恋愛感情の一つでもあれば、もっと男女として彼女に接してあげられるのだろうか。
パソコンのモニタに視線を戻すと、いつの間にかメールが届いていた。
マウスを操作してそれを開く。
相手は例の彼女だ。
こちらから出したメールへの返信を示す「Re:」という件名になっていることが多いのだけれど、今回は何故か「原田貴明へ」とわざわざ名指ししてあった。
冒頭には挨拶も何もなく、ただ、
『これで最後になります』
という文章の続きに、恋愛教室四部作の最後のプロットとそれについての詳細な指示が書かれていた。
原田は息をするのすら忘れてその文面を読み耽ると、頭の中で整理してから、再び頭から読み直す。
「嘘だ……」
どうしてもそう口に出したくなる。
「何でこんなラストなんだ」
これまで彼女に対して文句を言うどころか、展開に対して驚きこそすれ否定的に思ったことはなかった。けれど今回ばかりは意義を言いたくなる。
何故ならそれは一人の読者としてずっと追いかけてきた恋愛教室だから、というだけでなく、それを書く作者として、どうしても超えてはならない領域に足を踏み入れていると思えたからだ。
「無理だ……。これは、僕には書けない」
0
あなたにおすすめの小説
後宮なりきり夫婦録
石田空
キャラ文芸
「月鈴、ちょっと嫁に来るか?」
「はあ……?」
雲仙国では、皇帝が三代続いて謎の昏睡状態に陥る事態が続いていた。
あまりにも不可解なために、新しい皇帝を立てる訳にもいかない国は、急遽皇帝の「影武者」として跡継ぎ騒動を防ぐために寺院に入れられていた皇子の空燕を呼び戻すことに決める。
空燕の国の声に応える条件は、同じく寺院で方士修行をしていた方士の月鈴を妃として後宮に入れること。
かくしてふたりは片や皇帝の影武者として、片や皇帝の偽りの愛妃として、後宮と言う名の魔窟に潜入捜査をすることとなった。
影武者夫婦は、後宮内で起こる事件の謎を解けるのか。そしてふたりの想いの行方はいったい。
サイトより転載になります。
🥕おしどり夫婦として12年間の結婚生活を過ごしてきたが一波乱あり、妻は夫を誰かに譲りたくなるのだった。
設楽理沙
ライト文芸
2026.1.4 73話見直した際、瑛士の台詞《本音/懺悔》を加筆しました。😇
☘ 累計ポイント/ 200万pt 超えました。ありがとうございます。
―― 備忘録 ――
第8回ライト文芸大賞では大賞2位ではじまり2位で終了。 最高 57,392 pt
〃 24h/pt-1位ではじまり2位で終了。 最高 89,034 pt
◇ ◇ ◇ ◇
紳士的でいつだって私や私の両親にやさしくしてくれる
素敵な旦那さま・・だと思ってきたのに。
隠された夫の一面を知った日から、眞奈の苦悩が
始まる。
苦しくて、悲しくてもののすごく惨めで・・
消えてしまいたいと思う眞奈は小さな子供のように
大きな声で泣いた。
泣きながらも、よろけながらも、気がつけば
大地をしっかりと踏みしめていた。
そう、立ち止まってなんていられない。
☆-★-☆-★+☆-★-☆-★+☆-★-☆-★
2025.4.19☑~
還暦の性 若い彼との恋愛模様
MisakiNonagase
恋愛
還暦を迎えた和子。保持する資格の更新講習で二十代後半の青年、健太に出会った。何気なくてLINE交換してメッセージをやりとりするうちに、胸が高鳴りはじめ、長年忘れていた恋心に花が咲く。
そんな還暦女性と二十代の青年の恋模様。
その後、結婚、そして永遠の別れまでを描いたストーリーです。
全7話
優しい雨が降る夜は
葉月 まい
恋愛
浮世離れした地味子 × 外資系ITコンサルのエリートイケメン
無自覚にモテる地味子に
余裕もなく翻弄されるイケメン
二人の恋は一筋縄ではいかなくて……
雨降る夜に心に届いた
優しい恋の物語
⟡☾·̩͙⋆☔┈┈┈ 登場人物 ┈┈┈ ☔⋆·̩͙☽⟡
風間 美月(24歳)……コミュニティセンター勤務・地味でお堅い性格
雨宮 優吾(28歳)……外資系ITコンサルティング会社勤務のエリートイケメン
裏切りの代償
中岡 始
キャラ文芸
かつて夫と共に立ち上げたベンチャー企業「ネクサスラボ」。奏は結婚を機に経営の第一線を退き、専業主婦として家庭を支えてきた。しかし、平穏だった生活は夫・尚紀の裏切りによって一変する。彼の部下であり不倫相手の優美が、会社を混乱に陥れつつあったのだ。
尚紀の冷たい態度と優美の挑発に苦しむ中、奏は再び経営者としての力を取り戻す決意をする。裏切りの証拠を集め、かつての仲間や信頼できる協力者たちと連携しながら、会社を立て直すための計画を進める奏。だが、それは尚紀と優美の野望を徹底的に打ち砕く覚悟でもあった。
取締役会での対決、揺れる社内外の信頼、そして壊れた夫婦の絆の果てに待つのは――。
自分の誇りと未来を取り戻すため、すべてを賭けて挑む奏の闘い。復讐の果てに見える新たな希望と、繊細な人間ドラマが交錯する物語がここに。
紙の上の空
中谷ととこ
ライト文芸
小学六年生の夏、父が突然、兄を連れてきた。
容姿に恵まれて才色兼備、誰もが憧れてしまう女性でありながら、裏表のない竹を割ったような性格の八重嶋碧(31)は、幼い頃からどこにいても注目され、男女問わず人気がある。
欲しいものは何でも手に入りそうな彼女だが、本当に欲しいものは自分のものにはならない。欲しいすら言えない。長い長い片想いは成就する見込みはなく半分腐りかけているのだが、なかなか捨てることができずにいた。
血の繋がりはない、兄の八重嶋公亮(33)は、未婚だがとっくに独立し家を出ている。
公亮の親友で、碧とは幼い頃からの顔見知りでもある、斎木丈太郎(33)は、碧の会社の近くのフレンチ店で料理人をしている。お互いに好き勝手言える気心の知れた仲だが、こちらはこちらで本心は隠したまま碧の動向を見守っていた。
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる