45 / 88
第六章 「恋におちて」
2
しおりを挟む
湯船に肩まで浸かりながら、原田はぼんやりと天井のライトを見つめていた。
まだ鼻の中にスープカレーの香辛料が残っているような気がしたが、愛里の言うように確かに疲れ気味だった胃腸の調子がいくらか上向いたように思う。
けれど気分が重いことに変わりはない。
「……何でなんだよ」
目を閉じて、彼女からの恋愛教室第四巻の内容を思い起こす。そこには主人公の女性と彼女に恋愛を教えていた准教授が結ばれないばかりか、病に罹った准教授の男性は彼女の前から姿を消してしまい、最悪の別れを主人公の女性に経験させることで恋愛教室を終わらせていた。
実は沖愛里への恋愛指示書にも、まだ彼女に渡していない後半の分に同じような内容が書かれている。
――恋愛はいつか終わる。
多くの場合、それはどちらか一方からの手酷い別離なのだ、と。
仮に現実がそうだったとしても、恋愛小説の中にまでそんな論理を持ち込んでしまっても良いのだろうか。読み終えて誰一人として幸せにならない。ただただ悲しくなるだけじゃないか。
それともそんな風に思う原田の感覚こそが、作家としては半人前だということなのだろうか。
何度か問い合わせのメールを送ってみたが、今のところ彼女からの返事はなかった。
いつもなら作品に対しての質問は一時間程度の内に返信があったが、今回は最初から答えるつもりなどないのかも知れないと思える内容だった。何故なら最後にわざわざこう書き加えられていたからだ。
『この作品で結城貴司は最後になります』
原田は彼女と結城貴司を始めることになってから、いつかはこういう日が来ることもあるとは考えていた。だがそれにしても早すぎる。それこそ恋愛小説の枠に収まりきらない傑作でも書き上げられたなら、もう小説というものに未練などなくなり、世間からフェードアウトしていくというのも納得がいく。
けれど大ヒットしているとはいえ、まだ短編集を一冊、長編一作、恋愛教室という初のシリーズ作品が一つという状況なのだ。担当編集の村瀬ナツコでなくとも、もっともっと結城貴司の作品が世に出るべきだ、と思う人間は多いだろう。
何より原田自身、まだ何一つ納得できていないし、とても第四巻の内容を最後まで書き上げる自信がなかった。
「ねえセンセ」
磨りガラス越しに愛里の姿が見える。
「すぐ上がるから、入りたいなら後にしてくれ」
「別に一緒に入りたいとかじゃなくて……なんかネットに結城貴司が出てるんだけど」
仮にも書店で特集が組まれるほど名が売れている。だからネット上に結城貴司の一人や二人出ていたところで、それが何だというのだろう。
だが愛里がとにかく早く見てくれというので、仕方なく湯船から出る。
「何なんだよ一体」
慌てて上がったものだからシャツが肌に張り付いていたが、原田は頭にタオルを載せながら愛里に言われるがまま、パソコンのモニタに目を向けた。
そこは所謂「まとめサイト」で、週刊誌ネタになりそうな九割方嘘塗れのゴシップ記事のタイトルが派手で扇情的な色彩で表示されていた。彼女が指差したのはその中の一つだ。最近やっと覚えたというマウス操作で、緊張気味にクリックする。
「……これ」
「ね。どう見てもセンセだよね?」
――結城貴司に恋人発覚。
――あの覆面作家はJDの彼女持ちだった!?
そんなタイトルに続いて貼られていた画質の悪い写真は、原田の隣に桜庭美樹が立ち、行列に並ぶ姿を後ろから捉えたものだ。どう考えても先日水族館に行った時に撮られたものだったが、そもそも何故原田のことを結城貴司だと確信できたのだろうか。
「適当な写真で釣った、という訳じゃなさそうだな」
コメントには結城貴司が男性だったことに対して二、三ある以外は、全てが羨望と誹謗中傷と偽物だろうという野次馬たちの書き込みばかりだった。
「何なんだよ、これは」
当人でなくても怒りたくなる。
原田は髪も乾かさずに椅子に座ると、他にもあるのかどうか検索してみる。
基本的にエゴサーチと呼ばれるものはしないことにしていたし、編集の村瀬ナツコからも精神衛生上良くないので決してしないで下さいと釘を刺されている。だが今は調べない訳にはいかない。
ざっと百万件という数字が表示されたが、そこから「デート」や「噂」「週刊誌」といった単語で絞り込んでいくと、匿名掲示板などにも同じ写真が投稿されているのが分かった。中には見なければ良かったと思わず後悔してしまうような、結城貴司の小説に対しての毒のある感想文が長々と書かれているページもあり、ずっと見ていられなくなって思わずブラウザを閉じてしまった。
「センセ大丈夫?」
「あまり……こういうのは良くないな」
膝の上に肘を突いて屈み込んだ原田の肩に、愛里の手が置かれる。
「あ、ごめん」
彼女は気づいてすぐにそれを離したが、特に原田は変調を感じず、
「ああ」
そう呻くように返事をしただけで、そのまま俯いて黙り込んだ。
結局その日は村瀬ナツコにメールとLINEで連絡しておいて、とても原稿仕事などには手を付けられないまま、十時過ぎにはベッドで横になった。沖愛里は気を遣ってか同じ部屋ではなく、別の部屋で就寝したようだが、そんなことも気にならないほど精神的にやられていたようだった。
まだ鼻の中にスープカレーの香辛料が残っているような気がしたが、愛里の言うように確かに疲れ気味だった胃腸の調子がいくらか上向いたように思う。
けれど気分が重いことに変わりはない。
「……何でなんだよ」
目を閉じて、彼女からの恋愛教室第四巻の内容を思い起こす。そこには主人公の女性と彼女に恋愛を教えていた准教授が結ばれないばかりか、病に罹った准教授の男性は彼女の前から姿を消してしまい、最悪の別れを主人公の女性に経験させることで恋愛教室を終わらせていた。
実は沖愛里への恋愛指示書にも、まだ彼女に渡していない後半の分に同じような内容が書かれている。
――恋愛はいつか終わる。
多くの場合、それはどちらか一方からの手酷い別離なのだ、と。
仮に現実がそうだったとしても、恋愛小説の中にまでそんな論理を持ち込んでしまっても良いのだろうか。読み終えて誰一人として幸せにならない。ただただ悲しくなるだけじゃないか。
それともそんな風に思う原田の感覚こそが、作家としては半人前だということなのだろうか。
何度か問い合わせのメールを送ってみたが、今のところ彼女からの返事はなかった。
いつもなら作品に対しての質問は一時間程度の内に返信があったが、今回は最初から答えるつもりなどないのかも知れないと思える内容だった。何故なら最後にわざわざこう書き加えられていたからだ。
『この作品で結城貴司は最後になります』
原田は彼女と結城貴司を始めることになってから、いつかはこういう日が来ることもあるとは考えていた。だがそれにしても早すぎる。それこそ恋愛小説の枠に収まりきらない傑作でも書き上げられたなら、もう小説というものに未練などなくなり、世間からフェードアウトしていくというのも納得がいく。
けれど大ヒットしているとはいえ、まだ短編集を一冊、長編一作、恋愛教室という初のシリーズ作品が一つという状況なのだ。担当編集の村瀬ナツコでなくとも、もっともっと結城貴司の作品が世に出るべきだ、と思う人間は多いだろう。
何より原田自身、まだ何一つ納得できていないし、とても第四巻の内容を最後まで書き上げる自信がなかった。
「ねえセンセ」
磨りガラス越しに愛里の姿が見える。
「すぐ上がるから、入りたいなら後にしてくれ」
「別に一緒に入りたいとかじゃなくて……なんかネットに結城貴司が出てるんだけど」
仮にも書店で特集が組まれるほど名が売れている。だからネット上に結城貴司の一人や二人出ていたところで、それが何だというのだろう。
だが愛里がとにかく早く見てくれというので、仕方なく湯船から出る。
「何なんだよ一体」
慌てて上がったものだからシャツが肌に張り付いていたが、原田は頭にタオルを載せながら愛里に言われるがまま、パソコンのモニタに目を向けた。
そこは所謂「まとめサイト」で、週刊誌ネタになりそうな九割方嘘塗れのゴシップ記事のタイトルが派手で扇情的な色彩で表示されていた。彼女が指差したのはその中の一つだ。最近やっと覚えたというマウス操作で、緊張気味にクリックする。
「……これ」
「ね。どう見てもセンセだよね?」
――結城貴司に恋人発覚。
――あの覆面作家はJDの彼女持ちだった!?
そんなタイトルに続いて貼られていた画質の悪い写真は、原田の隣に桜庭美樹が立ち、行列に並ぶ姿を後ろから捉えたものだ。どう考えても先日水族館に行った時に撮られたものだったが、そもそも何故原田のことを結城貴司だと確信できたのだろうか。
「適当な写真で釣った、という訳じゃなさそうだな」
コメントには結城貴司が男性だったことに対して二、三ある以外は、全てが羨望と誹謗中傷と偽物だろうという野次馬たちの書き込みばかりだった。
「何なんだよ、これは」
当人でなくても怒りたくなる。
原田は髪も乾かさずに椅子に座ると、他にもあるのかどうか検索してみる。
基本的にエゴサーチと呼ばれるものはしないことにしていたし、編集の村瀬ナツコからも精神衛生上良くないので決してしないで下さいと釘を刺されている。だが今は調べない訳にはいかない。
ざっと百万件という数字が表示されたが、そこから「デート」や「噂」「週刊誌」といった単語で絞り込んでいくと、匿名掲示板などにも同じ写真が投稿されているのが分かった。中には見なければ良かったと思わず後悔してしまうような、結城貴司の小説に対しての毒のある感想文が長々と書かれているページもあり、ずっと見ていられなくなって思わずブラウザを閉じてしまった。
「センセ大丈夫?」
「あまり……こういうのは良くないな」
膝の上に肘を突いて屈み込んだ原田の肩に、愛里の手が置かれる。
「あ、ごめん」
彼女は気づいてすぐにそれを離したが、特に原田は変調を感じず、
「ああ」
そう呻くように返事をしただけで、そのまま俯いて黙り込んだ。
結局その日は村瀬ナツコにメールとLINEで連絡しておいて、とても原稿仕事などには手を付けられないまま、十時過ぎにはベッドで横になった。沖愛里は気を遣ってか同じ部屋ではなく、別の部屋で就寝したようだが、そんなことも気にならないほど精神的にやられていたようだった。
0
あなたにおすすめの小説
後宮なりきり夫婦録
石田空
キャラ文芸
「月鈴、ちょっと嫁に来るか?」
「はあ……?」
雲仙国では、皇帝が三代続いて謎の昏睡状態に陥る事態が続いていた。
あまりにも不可解なために、新しい皇帝を立てる訳にもいかない国は、急遽皇帝の「影武者」として跡継ぎ騒動を防ぐために寺院に入れられていた皇子の空燕を呼び戻すことに決める。
空燕の国の声に応える条件は、同じく寺院で方士修行をしていた方士の月鈴を妃として後宮に入れること。
かくしてふたりは片や皇帝の影武者として、片や皇帝の偽りの愛妃として、後宮と言う名の魔窟に潜入捜査をすることとなった。
影武者夫婦は、後宮内で起こる事件の謎を解けるのか。そしてふたりの想いの行方はいったい。
サイトより転載になります。
🥕おしどり夫婦として12年間の結婚生活を過ごしてきたが一波乱あり、妻は夫を誰かに譲りたくなるのだった。
設楽理沙
ライト文芸
2026.1.4 73話見直した際、瑛士の台詞《本音/懺悔》を加筆しました。😇
☘ 累計ポイント/ 200万pt 超えました。ありがとうございます。
―― 備忘録 ――
第8回ライト文芸大賞では大賞2位ではじまり2位で終了。 最高 57,392 pt
〃 24h/pt-1位ではじまり2位で終了。 最高 89,034 pt
◇ ◇ ◇ ◇
紳士的でいつだって私や私の両親にやさしくしてくれる
素敵な旦那さま・・だと思ってきたのに。
隠された夫の一面を知った日から、眞奈の苦悩が
始まる。
苦しくて、悲しくてもののすごく惨めで・・
消えてしまいたいと思う眞奈は小さな子供のように
大きな声で泣いた。
泣きながらも、よろけながらも、気がつけば
大地をしっかりと踏みしめていた。
そう、立ち止まってなんていられない。
☆-★-☆-★+☆-★-☆-★+☆-★-☆-★
2025.4.19☑~
還暦の性 若い彼との恋愛模様
MisakiNonagase
恋愛
還暦を迎えた和子。保持する資格の更新講習で二十代後半の青年、健太に出会った。何気なくてLINE交換してメッセージをやりとりするうちに、胸が高鳴りはじめ、長年忘れていた恋心に花が咲く。
そんな還暦女性と二十代の青年の恋模様。
その後、結婚、そして永遠の別れまでを描いたストーリーです。
全7話
優しい雨が降る夜は
葉月 まい
恋愛
浮世離れした地味子 × 外資系ITコンサルのエリートイケメン
無自覚にモテる地味子に
余裕もなく翻弄されるイケメン
二人の恋は一筋縄ではいかなくて……
雨降る夜に心に届いた
優しい恋の物語
⟡☾·̩͙⋆☔┈┈┈ 登場人物 ┈┈┈ ☔⋆·̩͙☽⟡
風間 美月(24歳)……コミュニティセンター勤務・地味でお堅い性格
雨宮 優吾(28歳)……外資系ITコンサルティング会社勤務のエリートイケメン
裏切りの代償
中岡 始
キャラ文芸
かつて夫と共に立ち上げたベンチャー企業「ネクサスラボ」。奏は結婚を機に経営の第一線を退き、専業主婦として家庭を支えてきた。しかし、平穏だった生活は夫・尚紀の裏切りによって一変する。彼の部下であり不倫相手の優美が、会社を混乱に陥れつつあったのだ。
尚紀の冷たい態度と優美の挑発に苦しむ中、奏は再び経営者としての力を取り戻す決意をする。裏切りの証拠を集め、かつての仲間や信頼できる協力者たちと連携しながら、会社を立て直すための計画を進める奏。だが、それは尚紀と優美の野望を徹底的に打ち砕く覚悟でもあった。
取締役会での対決、揺れる社内外の信頼、そして壊れた夫婦の絆の果てに待つのは――。
自分の誇りと未来を取り戻すため、すべてを賭けて挑む奏の闘い。復讐の果てに見える新たな希望と、繊細な人間ドラマが交錯する物語がここに。
紙の上の空
中谷ととこ
ライト文芸
小学六年生の夏、父が突然、兄を連れてきた。
容姿に恵まれて才色兼備、誰もが憧れてしまう女性でありながら、裏表のない竹を割ったような性格の八重嶋碧(31)は、幼い頃からどこにいても注目され、男女問わず人気がある。
欲しいものは何でも手に入りそうな彼女だが、本当に欲しいものは自分のものにはならない。欲しいすら言えない。長い長い片想いは成就する見込みはなく半分腐りかけているのだが、なかなか捨てることができずにいた。
血の繋がりはない、兄の八重嶋公亮(33)は、未婚だがとっくに独立し家を出ている。
公亮の親友で、碧とは幼い頃からの顔見知りでもある、斎木丈太郎(33)は、碧の会社の近くのフレンチ店で料理人をしている。お互いに好き勝手言える気心の知れた仲だが、こちらはこちらで本心は隠したまま碧の動向を見守っていた。
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる