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第六章 「恋におちて」

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 紫色が混ざったような気持ちの悪い夕焼けの空を見上げながら、原田貴明はらだたかあきは村瀬ナツコに指定された店に急いだ。
 マンションの近くではない方が良いと言うので、仕方なく混み合う電車を乗り継いで新宿までやってきたが、どこを見ても人ばかりで、この世界にはこんなに人間が暮らしているのだなと圧倒されてしまう。

 ――だから土曜の夜に出かけるのは嫌だったんだ。

 駅前で待ち合わせた村瀬ナツコの顔を見るなりそう言ってやろうかと思ったが、隣に編集長の岩槻いわつきの厳つい顔が並んでいるのに気づいて、

「どうも」

 という無難な挨拶に切り替えた。

「今後はとにかく外出時には男女三人以上で出かけて下さい。つまり先生とわたしが二人きりで打ち合わせをするのも禁止だそうです」

 不満がありそうな口ぶりで村瀬が言うと、早く酒が飲みたいと言い出した岩槻に背中を突かれ、彼女は歩き出した。原田もそれに続く。

 個室を予約してあると言われたが、店そのものも入り組んだ路地の中に立っている雑居ビルの一階と二階に入っていた。
 その二階が個室になっていて、ゆったりとしたワインレッドのベロア生地が貼られたシートには、真っ先に岩槻が腰を下ろした。その対面に原田は座らされ、末席には村瀬が就いて店員との折衝せっしょうを任された。

「でだ、結城先生。聞いたところ、どうも本当に先生とJDの写真だそうじゃない。付き合ってんの?」

 対面の岩槻は原田に食前酒すら口に含ませることを許さず、そのグラスに伸ばした手を静止させ、直球の質問をぶつける。

「そんな訳ないじゃないですか。だから困っているんですよ」
「そう? 別に隠さなくてもいいよ。ここ。ちゃんとしてるとこだし」

 盗聴器などはない、ということだろう。
 けれど仮に何を話しても安全だったとしても、既に桜庭美樹さくらばみきには迷惑を掛けているのだ。ここははっきりとさせておいた方が良い、と思った。

「桜庭さんとはあの日がほぼ初対面です。彼女は沖愛里おきあいりさんの友人で、僕が書いていた短編小説の取材で付き合ってもらっただけなんです」
「ああ。読んだよアレ」

 運ばれてきた細長い白のプレートを村瀬ナツコが受け取ってそれぞれの前に置くが、そこから手づかみで小さなホイル焼きをつかみ取ると、口に入れながら岩槻が言った。

「アレさ、その、結城先生としては納得いってるの? 悪くないとは思うけど、なんて言うか、持ち込みの文学青年が書いたみたいな青臭い作品て、うちの若い子が言ってた」
「編集長。先生も色々と新しい作品にチャレンジなさってて、その一つの方向性としてああいったものを出されただけで。ねえ、先生?」

 原田の表情がゆがんだのを見て村瀬が慌てて口を挟んだが、首を横に振ってから「違いますよ」と続ける。

「あれが今の僕の精一杯です。僕だけで書いた作品に対しては村瀬さんもいつもそう言いますよ。悪くないけど物足りない。つまり僕は作家として、限界なんです」
「そんなこと言ってないでさ、恋愛教室みたいな女性どころか男性からも大絶賛の恋愛シリーズ頼みますよ。誰だって向き不向きがあって、結城先生には恋愛を絡めた人間ドラマの深い作品が一番良いんだから」

 岩槻はそのまま苦笑を浮かべ、ロールキャベツを一口で食べる。
 けれど村瀬ナツコは今の原田の言動に疑問を持ったらしい。何度か目をぱちくりとさせると、

「先生。今。何て言われました?」

 そう尋ねた。

「だから。僕は結城貴司ゆうきたかしの、半分です。結城貴司は、実はもう一人の人間との合作なんです」


    ※


 ちょうど原田の告白に編集者たちが驚いている頃、愛里はマンションの前まで戻ってきたところで自分のスマートフォンが鳴ったのを聞いた。
 LINEだ。
 もう必要なくなって削除をしようと思っていたアカウントからの、ゾンビのような連絡だった。

> 週刊誌に結城貴司の写真を売った。取り下げたいなら、俺の家に来い。
涌井祐介わくいゆうすけ

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