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第六章 「恋におちて」
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「お昼を食べながらでも良いかな?」
内科の診察室に乗り込んでいったところ、白衣姿の高正医師は愛里の顔を見るなりそう言った。姉の紹介だと口にする前に全部理解していたかのような返答に、ひょっとすると同じ種類の人間なのかと邪推したが、どうやら事前に姉の優里から連絡を貰っていたらしい。
愛里は大人しく電話番号を教えると、一階に入っているチェリーズコーヒーで時間を潰すことにした。
高正誠司は耳に掛かる髪に僅かに白いものが混ざっていたが、スーツかジャケットのようなしっかりした仕立てのものを着ていれば愛里の同世代の女性からも人気が出そうな、雰囲気の良いおじさまだった。
姉が人物を「素敵」と評することは稀で、どんな男性なのだろうと少しだけ期待したのだけれど、愛里にとっては原田の方がずっと魅力的に思えた。大人の余裕、というのだろうか。そんな雰囲気を纏っている男性には、少し苦手意識がある。
頼んだミルクチャイは仄かにスパイスの香りがして、冷たくなっていた体を温めてくれた。
そのシナモンの匂いの所為だろうか。
姉が“あの人”と呼ぶ、かつての愛里たちの母親が作ってくれたアップルパイのことを、不意に思い出した。料理が好きな人で、小さな愛里たちに食べさせるおやつも大半が彼女の手作りだった。姉はよく食べ残していたが、愛里はその残りまで平らげてしまうほど、大好きだった。思えば今の料理好きも、そんな母親の味が染み付いているからなのかも知れない。
と、電話が鳴る。
「あ、はい。愛里です」
高正からで、今向かっているというから一階のカフェにいることを伝えると、五分くらいで彼は姿を現した。白衣を脱いで、ブラウンの薄いチェック柄になったらジャケットに着替えている。
「外に出よう。君は何か食べたかな?」
「アタシはまだですけど」
「なら一緒に食べよう。良い店がある」
近づいた時に煙草の匂いがしなかったことに安堵して、愛里は彼に続いて病院を出た。
路地を歩きながら愛里は手短に用件を話したが、笑うばかりで取り合ってくれない。
「そこだよ」
外に黒板の立て看板を出している、小さな店だった。洋食屋、だろうか。ランチにトマトスープが付いてくると書かれていたけれど、いつもの愛里の昼食の価格からすると高い部類に入った。
店内は一時過ぎにも関わらずまだ満席で、それでも三分ほどで二人分の空席が出来て、カウンターに横並びで腰を下ろした。
「飲み物だけ……」
そう言いかけたが、高正が「驕る」というので付き合って同じランチメニューを注文することにした。
「で。私のことはお姉さんから何と聞いているのかな?」
「素敵な人……」
その言葉に、また大きな笑い声を出した。
「そうか。素敵か。やはり彼女はいざ自分の問題となると語彙力が失われてしまうようだね」
「素敵って悪い言葉なんですか?」
「そうじゃないよ。ただね、沖優里が使う言葉としては陳腐だ、という評価をせざるを得ない。彼女はね、本来もっと素晴らしい言葉を使って物事を表現する。だから常に彼女と話す時は緊張するし、こちらも一言一言を大事にする。それに、気難しい。機嫌を損ねてしまえばそれ以上話さない、なんてことも多々あったから」
随分と姉に詳しいようだった。愛里は目の前に差し出されたランチプレートを受け取りながら、この男性のどこが気に入ったのか考えようとしたが、横顔を見れば見るほど、ある人物によく似ていた。それは愛里たちの父親だ。父の笑顔は見たことがなかったが、それでも笑うと高正のような表情をするのかも知れない、と思える程にはそっくりだ。
「会うほどの人間じゃない、と優里君は君のことを評していたが、私に会わせたくなかっただけかも知れないね」
「そんなこと言ってたんですか?」
「ああ」
半球形に盛られたご飯はターメリックで色付けされていたが、バターの風味が香るチキンライスになっている。
「それで愛里君はさ、原田君のことが好きなんだよね?」
「はい。好きです」
何故だろう。口にした途端に、胸の奥の方がきゅっと締め付けられた。今まで原田の前で好きと言っても、こんな風に感じたことはなかったのに。
「で、彼の女性アレルギィを治したいと?」
「そうなんです。今のアタシがセンセにしてあげられること、センセの一番役に立つことって何だろうって考えたらそれかなって思って」
高正はデミグラスソースに沈んだハンバーグを切り分けながら、愛里を横目で見やると、
「それが君の愛し方なんだね」
そう言ってから口に切れ端を運んだ。
「おそらく優里君も言ってたと思うが、彼は決して病気じゃない」
「え、けど」
「確かに女性に触れられることで冷や汗や蕁麻疹が出たり痙攣したり、失神してしまうこともある。だがね、精神的なものが原因であって薬物などの化学療法で治療できるようなものじゃないんだ。それに、思うんだけど、原田君。君と同棲を始めてから、少し症状が緩和してないかな?」
以前の状態をよく知らないから比べようがなかったが、最近は愛里の方が注意をして触れないようにしているので、息苦しくなるようなことは減っていた。
「何なら今日帰ってから彼に抱きついてみると良い。きっと以前みたいに倒れてしまうようなことにはならないはずだよ」
「本当、ですか?」
さあ。どうだろう。
そう笑って返されたが、考えてもみないことだったので、愛里は自分の中に抑え込んでいた欲求がふっと顔を見せるのを感じていた。
「それでだ。もし仮に抱きついても大丈夫だったら、君はどうするつもりなんだ? キスでもするのかな?」
原田の女性アレルギィが治っていたら。
――分からない。
考えようとするほどに頭が痛くなり、愛里はサーモンフライの残りを無理やり口に押し込んだ。
内科の診察室に乗り込んでいったところ、白衣姿の高正医師は愛里の顔を見るなりそう言った。姉の紹介だと口にする前に全部理解していたかのような返答に、ひょっとすると同じ種類の人間なのかと邪推したが、どうやら事前に姉の優里から連絡を貰っていたらしい。
愛里は大人しく電話番号を教えると、一階に入っているチェリーズコーヒーで時間を潰すことにした。
高正誠司は耳に掛かる髪に僅かに白いものが混ざっていたが、スーツかジャケットのようなしっかりした仕立てのものを着ていれば愛里の同世代の女性からも人気が出そうな、雰囲気の良いおじさまだった。
姉が人物を「素敵」と評することは稀で、どんな男性なのだろうと少しだけ期待したのだけれど、愛里にとっては原田の方がずっと魅力的に思えた。大人の余裕、というのだろうか。そんな雰囲気を纏っている男性には、少し苦手意識がある。
頼んだミルクチャイは仄かにスパイスの香りがして、冷たくなっていた体を温めてくれた。
そのシナモンの匂いの所為だろうか。
姉が“あの人”と呼ぶ、かつての愛里たちの母親が作ってくれたアップルパイのことを、不意に思い出した。料理が好きな人で、小さな愛里たちに食べさせるおやつも大半が彼女の手作りだった。姉はよく食べ残していたが、愛里はその残りまで平らげてしまうほど、大好きだった。思えば今の料理好きも、そんな母親の味が染み付いているからなのかも知れない。
と、電話が鳴る。
「あ、はい。愛里です」
高正からで、今向かっているというから一階のカフェにいることを伝えると、五分くらいで彼は姿を現した。白衣を脱いで、ブラウンの薄いチェック柄になったらジャケットに着替えている。
「外に出よう。君は何か食べたかな?」
「アタシはまだですけど」
「なら一緒に食べよう。良い店がある」
近づいた時に煙草の匂いがしなかったことに安堵して、愛里は彼に続いて病院を出た。
路地を歩きながら愛里は手短に用件を話したが、笑うばかりで取り合ってくれない。
「そこだよ」
外に黒板の立て看板を出している、小さな店だった。洋食屋、だろうか。ランチにトマトスープが付いてくると書かれていたけれど、いつもの愛里の昼食の価格からすると高い部類に入った。
店内は一時過ぎにも関わらずまだ満席で、それでも三分ほどで二人分の空席が出来て、カウンターに横並びで腰を下ろした。
「飲み物だけ……」
そう言いかけたが、高正が「驕る」というので付き合って同じランチメニューを注文することにした。
「で。私のことはお姉さんから何と聞いているのかな?」
「素敵な人……」
その言葉に、また大きな笑い声を出した。
「そうか。素敵か。やはり彼女はいざ自分の問題となると語彙力が失われてしまうようだね」
「素敵って悪い言葉なんですか?」
「そうじゃないよ。ただね、沖優里が使う言葉としては陳腐だ、という評価をせざるを得ない。彼女はね、本来もっと素晴らしい言葉を使って物事を表現する。だから常に彼女と話す時は緊張するし、こちらも一言一言を大事にする。それに、気難しい。機嫌を損ねてしまえばそれ以上話さない、なんてことも多々あったから」
随分と姉に詳しいようだった。愛里は目の前に差し出されたランチプレートを受け取りながら、この男性のどこが気に入ったのか考えようとしたが、横顔を見れば見るほど、ある人物によく似ていた。それは愛里たちの父親だ。父の笑顔は見たことがなかったが、それでも笑うと高正のような表情をするのかも知れない、と思える程にはそっくりだ。
「会うほどの人間じゃない、と優里君は君のことを評していたが、私に会わせたくなかっただけかも知れないね」
「そんなこと言ってたんですか?」
「ああ」
半球形に盛られたご飯はターメリックで色付けされていたが、バターの風味が香るチキンライスになっている。
「それで愛里君はさ、原田君のことが好きなんだよね?」
「はい。好きです」
何故だろう。口にした途端に、胸の奥の方がきゅっと締め付けられた。今まで原田の前で好きと言っても、こんな風に感じたことはなかったのに。
「で、彼の女性アレルギィを治したいと?」
「そうなんです。今のアタシがセンセにしてあげられること、センセの一番役に立つことって何だろうって考えたらそれかなって思って」
高正はデミグラスソースに沈んだハンバーグを切り分けながら、愛里を横目で見やると、
「それが君の愛し方なんだね」
そう言ってから口に切れ端を運んだ。
「おそらく優里君も言ってたと思うが、彼は決して病気じゃない」
「え、けど」
「確かに女性に触れられることで冷や汗や蕁麻疹が出たり痙攣したり、失神してしまうこともある。だがね、精神的なものが原因であって薬物などの化学療法で治療できるようなものじゃないんだ。それに、思うんだけど、原田君。君と同棲を始めてから、少し症状が緩和してないかな?」
以前の状態をよく知らないから比べようがなかったが、最近は愛里の方が注意をして触れないようにしているので、息苦しくなるようなことは減っていた。
「何なら今日帰ってから彼に抱きついてみると良い。きっと以前みたいに倒れてしまうようなことにはならないはずだよ」
「本当、ですか?」
さあ。どうだろう。
そう笑って返されたが、考えてもみないことだったので、愛里は自分の中に抑え込んでいた欲求がふっと顔を見せるのを感じていた。
「それでだ。もし仮に抱きついても大丈夫だったら、君はどうするつもりなんだ? キスでもするのかな?」
原田の女性アレルギィが治っていたら。
――分からない。
考えようとするほどに頭が痛くなり、愛里はサーモンフライの残りを無理やり口に押し込んだ。
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