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第八章 「小さな恋の唄」
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村瀬ナツコに送ってもらった自分のノートパソコンは何とか午前中に届いたものの、恋愛教室最終巻の執筆に向かおうとすると、目の前がふっと暗くなってしまう。
溜息をついてから原田貴明は席を立つと、百科事典のようなしっかりとした箱に入れられた特装版の恋愛教室第一巻を取り出して開いている桜庭美樹に声を掛けた。
「何度も読んだんじゃなかったの?」
「これ、限定品ですか?」
「いや。そもそも非売品で百万部記念に編集部が特別に作ってくれたものだよ」
そう言った瞬間、ページを捲ろうとした手が止まった。
「あの、すみません」
慌てて箱に仕舞う。
「別に構わないよ。岩槻編集長の私物だし。何冊作ったかは覚えていないけれど、百も刷ってなかったと思う」
「けど……商品価値、落ちちゃいました」
本棚にそれを戻しながら、桜庭美樹は何度も溜息をつく。
原田自身はそれほど本の形や装丁に拘りがなかったし、サイン本というものが特別な価値を持つとも思っていない。けれど彼女のような作家のファンからすれば、それらは付加価値として貨幣換算できない貴重なものになるのだろう。
「それにしても、こんなことに巻き込んでしまって本当にすまないと思っている。だからお詫びにその本をプレゼントしても良いくらいだよ」
「え? 本当ですか? 嘘や冗談というのは無しですからね」
急に表情が変わる。
最初は愛里に比べて大人しく落ち着いた印象を持っていたのに、この数日でそれはがらりと変わってしまった。確かに沖愛里の友人だと思えるほど、よく似たマイペースぶりを発揮している。
「それで先生」
「ん?」
「今日のお昼、どうしましょう」
愛里ならいくつか候補を挙げるところだが、こと食事に関しては原田と同じく桜庭美樹もそこまで拘りがない。そういった人物が二人集まってしまうと、食事のメニュー決めは難航するのも必然だった。
そこに、原田の携帯電話が鳴る。
「あ……村瀬さん。はい、もしもし」
「先生……はぁはぁ……今、そちらにいらっしゃいますか?」
「ええ、いますよ。これから昼を食べに出かけようか、というところでしたが」
電話から聴こえてきた村瀬ナツコの声は、息が荒かった。
「あの、村瀬さん? 大丈夫ですか?」
「先生、すみません……出かけないで下さい。お願いします……よ!」
「村瀬さん!?」
プツリと切れてしまった。
「村瀬さん、何でしたか?」
「それが家から出るなって」
桜庭美樹にそう言ってみたものの、彼女も小首を傾げている。
出かけられないとなると出前を取るくらいしか選択肢がなくなるけれど、正直原田はそれほどしっかり食べたいという気分ではない。できればサンドイッチ程度で済ませたいところだ。
それでも何か食べるべきだろうと、麺類でも注文しようとしていたところに、インターフォンが鳴らされた。
「わたしが見てきますね」
「ああ、頼むよ」
リビングを出て通路を小走りに行く小気味良い足音が遠のくと、珍しく桜庭美樹が大声を上げた。どうやら訪ねてきたのは先程電話を掛けていた村瀬ナツコ本人らしい。
「来るならそう言ってくれれば良かったのに」
「ごめんごめん。急いでたもんだから……あ、先生。おはようございます」
彼女と笑いながら現れたのは、癖の強い髪の毛を乱暴に後ろに纏めた村瀬ナツコだった。目元の化粧が濃いのは忙しくて出来た隈を隠したいからだろう。
「それで、どうなんです?」
「その件なんですよ、わざわざ私が来たのは」
溜息をついてから原田貴明は席を立つと、百科事典のようなしっかりとした箱に入れられた特装版の恋愛教室第一巻を取り出して開いている桜庭美樹に声を掛けた。
「何度も読んだんじゃなかったの?」
「これ、限定品ですか?」
「いや。そもそも非売品で百万部記念に編集部が特別に作ってくれたものだよ」
そう言った瞬間、ページを捲ろうとした手が止まった。
「あの、すみません」
慌てて箱に仕舞う。
「別に構わないよ。岩槻編集長の私物だし。何冊作ったかは覚えていないけれど、百も刷ってなかったと思う」
「けど……商品価値、落ちちゃいました」
本棚にそれを戻しながら、桜庭美樹は何度も溜息をつく。
原田自身はそれほど本の形や装丁に拘りがなかったし、サイン本というものが特別な価値を持つとも思っていない。けれど彼女のような作家のファンからすれば、それらは付加価値として貨幣換算できない貴重なものになるのだろう。
「それにしても、こんなことに巻き込んでしまって本当にすまないと思っている。だからお詫びにその本をプレゼントしても良いくらいだよ」
「え? 本当ですか? 嘘や冗談というのは無しですからね」
急に表情が変わる。
最初は愛里に比べて大人しく落ち着いた印象を持っていたのに、この数日でそれはがらりと変わってしまった。確かに沖愛里の友人だと思えるほど、よく似たマイペースぶりを発揮している。
「それで先生」
「ん?」
「今日のお昼、どうしましょう」
愛里ならいくつか候補を挙げるところだが、こと食事に関しては原田と同じく桜庭美樹もそこまで拘りがない。そういった人物が二人集まってしまうと、食事のメニュー決めは難航するのも必然だった。
そこに、原田の携帯電話が鳴る。
「あ……村瀬さん。はい、もしもし」
「先生……はぁはぁ……今、そちらにいらっしゃいますか?」
「ええ、いますよ。これから昼を食べに出かけようか、というところでしたが」
電話から聴こえてきた村瀬ナツコの声は、息が荒かった。
「あの、村瀬さん? 大丈夫ですか?」
「先生、すみません……出かけないで下さい。お願いします……よ!」
「村瀬さん!?」
プツリと切れてしまった。
「村瀬さん、何でしたか?」
「それが家から出るなって」
桜庭美樹にそう言ってみたものの、彼女も小首を傾げている。
出かけられないとなると出前を取るくらいしか選択肢がなくなるけれど、正直原田はそれほどしっかり食べたいという気分ではない。できればサンドイッチ程度で済ませたいところだ。
それでも何か食べるべきだろうと、麺類でも注文しようとしていたところに、インターフォンが鳴らされた。
「わたしが見てきますね」
「ああ、頼むよ」
リビングを出て通路を小走りに行く小気味良い足音が遠のくと、珍しく桜庭美樹が大声を上げた。どうやら訪ねてきたのは先程電話を掛けていた村瀬ナツコ本人らしい。
「来るならそう言ってくれれば良かったのに」
「ごめんごめん。急いでたもんだから……あ、先生。おはようございます」
彼女と笑いながら現れたのは、癖の強い髪の毛を乱暴に後ろに纏めた村瀬ナツコだった。目元の化粧が濃いのは忙しくて出来た隈を隠したいからだろう。
「それで、どうなんです?」
「その件なんですよ、わざわざ私が来たのは」
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