君と私の恋愛教室〜女性アレルギィの恋愛小説家と恋を知らない女性たち〜

凪司工房

文字の大きさ
70 / 88
第九章 「恋人よ」

しおりを挟む
 ――眩しい。

 ということに気づいて、沖愛里おきあいりは何度か目をまたたかせる。

「ちょっと動かさない。目に入っちゃうよ」
「あ、すみません……」

 ネイビーブルーの長い爪が何度も愛里の視界を横切っていく。それはつかんだ小さな刷毛はけで、彼女の顔面に色粉を載せていく店のチーママの手だ。ラメ入りのチークで、表情が明るく見えるからと赤江晴美あかえはるみが言いながら最後の仕上げに口紅を塗る。

「ほら、また泣いてる」

 そう言って晴美はティッシュで目元をぬぐってくれた。
 よく分からない。
 どうして自分はこんな場所にいるのだろう。
 頭が上手く働かないのだ。
 ただ少し前、それがほんの数分のことなのか、何時間も前のことなのか分からないけれど、涌井祐介わくいゆうすけに元気の素として細長い錠剤をもらって飲んだ。
 最近色々と考え過ぎていたからか、それを飲むと心がぽかぽかとして余計なことを考えなくて良くなる。それに涌井とのセックスもたのしくなる。以前は仕事をしている時はちっとも楽しそうじゃなく、アパートに帰ってきてはあれこれと愛里に愚痴を言ってはなぐさめられていた彼が、今の仕事に就いてからは水を得たカエルのように何とも楽しげに働いている。
 だから愛里も、頑張らなければならない。
 何を? 頑張るの?

「愛里ちゃん? ほんと、最近よくぼうっとしちゃって。お客さん、新規だけどご指名だそうよ」
「あ、はい。晴美さん、いつもすみません」

 狭い控室だった。
 それでも鏡が貼ってあり、使い回しの化粧品がテーブルの上に積み上げられている。壁際にはひらひらとキラキラのドレスがずらりとハンガーに吊るされ、愛里自身が着ているものも肩と胸元、背中まで大きく開いたドレスだ。コンセプトは海月くらげだとオーナーの白瀬は言っていた。夜の街に漂う海月を見て、疲れた男たちが癒やされるのだと。
 そんな海月の一匹に、愛里はなれているだろうか。
 ストッキングの足に、真っ赤なヒールを合わせる。
 立ち上がると一瞬ふらついたけれど、その手を晴美が掴んで倒れずに済んだ。

「じゃあ、行きましょうか」
「はい。お願いします」


 二人がやっとすれ違える程度の通路を抜けてホールに出ると、薄暗い中をぼんやりとしたライトの水玉がくるりくるりと回りながら照らしていた。並んでいるソファやパーテーション代わりの観葉植物にも少しずつラメ素材の飾りが取り付けられ、それらが反射して夢の国にでもいるような気分になる。
 愛里は晴美について奥の方の四人席に向かった。
 店内は薄暗いながらも結構な人数でそれぞれの席が埋まっていて、時折同僚のキャバクラ嬢の甲高い笑い声が響いていた。

「こちらが当店ナンバースリーの愛里ちゃんです」
「愛里です。まだ入って日が浅いんで至らないところもあると思いますが、愛嬌あいきょうでがんばります。宜しくお願いします」

 逆光になって相手の顔がよく見えないけれど、構わずに笑顔を作って深々とお辞儀じぎをする。何度もやっていると考えなくても勝手に口や体が動いてくれる。
 涌井の勤めていたカフェでも客から評判の良かった愛里だが、ここでも店員、客問わずに可愛がられていた。

「じゃあ愛里ちゃんはそっちね」
「はい」

 返事は一度だけ、元気よく。
 ここ『エス』は新宿にあるキャバクラの中でも高級店の部類に入るらしい。銀座や六本木にある旗艦店きかんてんに比べれば接客に対してまだ口うるさくは言われないものの、それでも行儀の悪い女性はすぐに首になっている。

「お邪魔します」

 愛里は言われた通り、ジャケット姿の男性の隣に座る。スリットから腿が露出ろしゅつしたが、そうなるように計算されたドレスだからと我慢をする。

「あの」

 アルコールを作ろうと思って何を飲むか尋ねようとしたところで、改めて愛里は自分の相手を見た。
 歳の頃は愛里より五、六歳は上だろう。三十手前くらい、だろうか。優しげな目元だけれど、あまり女性慣れしてなさそうな落ち着きのない目線、それに口元が緊張気味に結ばれていて、手は膝の上でぎゅっと握られている。
 それが、少し震えていた。

「お客さん?」

 愛里は今一度、その男性の顔をまじまじと見やる。
 薬の所為せいだろうか、少し右のこめかみが痛むが、それを追いやって何とか思い出そうとする。
 よく知っている。
 そう。
 愛里はそのほおに、そっと指を伸ばして、触れた。

「なんで!」

 思わず大声を出してしまい、

「愛里ちゃん」

 晴美からたしなめられる。
 けれど、そんなこと最早どうでも良い。

「何でなのよ! 何で……なんでここにセンセが来るのよ!」

 愛里はその二つの目の奥から湧き出してくる涙を止める術が分からず、あふれるままに涙を流しながら、

「センセ!」

 その首筋に思い切り抱きつく。
 外では何故かパトカーのサイレンがやたらと大きく鳴り響いていた。

しおりを挟む
感想 0

あなたにおすすめの小説

夫婦交換

山田森湖
恋愛
好奇心から始まった一週間の“夫婦交換”。そこで出会った新鮮なときめき

後宮なりきり夫婦録

石田空
キャラ文芸
「月鈴、ちょっと嫁に来るか?」 「はあ……?」 雲仙国では、皇帝が三代続いて謎の昏睡状態に陥る事態が続いていた。 あまりにも不可解なために、新しい皇帝を立てる訳にもいかない国は、急遽皇帝の「影武者」として跡継ぎ騒動を防ぐために寺院に入れられていた皇子の空燕を呼び戻すことに決める。 空燕の国の声に応える条件は、同じく寺院で方士修行をしていた方士の月鈴を妃として後宮に入れること。 かくしてふたりは片や皇帝の影武者として、片や皇帝の偽りの愛妃として、後宮と言う名の魔窟に潜入捜査をすることとなった。 影武者夫婦は、後宮内で起こる事件の謎を解けるのか。そしてふたりの想いの行方はいったい。 サイトより転載になります。

🥕おしどり夫婦として12年間の結婚生活を過ごしてきたが一波乱あり、妻は夫を誰かに譲りたくなるのだった。

設楽理沙
ライト文芸
2026.1.4 73話見直した際、瑛士の台詞《本音/懺悔》を加筆しました。😇 ☘ 累計ポイント/ 200万pt 超えました。ありがとうございます。 ―― 備忘録 ――    第8回ライト文芸大賞では大賞2位ではじまり2位で終了。  最高 57,392 pt      〃     24h/pt-1位ではじまり2位で終了。  最高 89,034 pt                    ◇ ◇ ◇ ◇ 紳士的でいつだって私や私の両親にやさしくしてくれる 素敵な旦那さま・・だと思ってきたのに。 隠された夫の一面を知った日から、眞奈の苦悩が 始まる。 苦しくて、悲しくてもののすごく惨めで・・ 消えてしまいたいと思う眞奈は小さな子供のように 大きな声で泣いた。 泣きながらも、よろけながらも、気がつけば 大地をしっかりと踏みしめていた。 そう、立ち止まってなんていられない。 ☆-★-☆-★+☆-★-☆-★+☆-★-☆-★ 2025.4.19☑~

(完)百合短編集 

南條 綾
恋愛
ジャンルは沢山の百合小説の短編集を沢山入れました。

還暦の性 若い彼との恋愛模様

MisakiNonagase
恋愛
還暦を迎えた和子。保持する資格の更新講習で二十代後半の青年、健太に出会った。何気なくてLINE交換してメッセージをやりとりするうちに、胸が高鳴りはじめ、長年忘れていた恋心に花が咲く。 そんな還暦女性と二十代の青年の恋模様。 その後、結婚、そして永遠の別れまでを描いたストーリーです。 全7話

優しい雨が降る夜は

葉月 まい
恋愛
浮世離れした地味子 × 外資系ITコンサルのエリートイケメン 無自覚にモテる地味子に 余裕もなく翻弄されるイケメン 二人の恋は一筋縄ではいかなくて…… 雨降る夜に心に届いた 優しい恋の物語 ⟡☾·̩͙⋆☔┈┈┈ 登場人物 ┈┈┈ ☔⋆·̩͙☽⟡ 風間 美月(24歳)……コミュニティセンター勤務・地味でお堅い性格 雨宮 優吾(28歳)……外資系ITコンサルティング会社勤務のエリートイケメン

裏切りの代償

中岡 始
キャラ文芸
かつて夫と共に立ち上げたベンチャー企業「ネクサスラボ」。奏は結婚を機に経営の第一線を退き、専業主婦として家庭を支えてきた。しかし、平穏だった生活は夫・尚紀の裏切りによって一変する。彼の部下であり不倫相手の優美が、会社を混乱に陥れつつあったのだ。 尚紀の冷たい態度と優美の挑発に苦しむ中、奏は再び経営者としての力を取り戻す決意をする。裏切りの証拠を集め、かつての仲間や信頼できる協力者たちと連携しながら、会社を立て直すための計画を進める奏。だが、それは尚紀と優美の野望を徹底的に打ち砕く覚悟でもあった。 取締役会での対決、揺れる社内外の信頼、そして壊れた夫婦の絆の果てに待つのは――。 自分の誇りと未来を取り戻すため、すべてを賭けて挑む奏の闘い。復讐の果てに見える新たな希望と、繊細な人間ドラマが交錯する物語がここに。

紙の上の空

中谷ととこ
ライト文芸
小学六年生の夏、父が突然、兄を連れてきた。 容姿に恵まれて才色兼備、誰もが憧れてしまう女性でありながら、裏表のない竹を割ったような性格の八重嶋碧(31)は、幼い頃からどこにいても注目され、男女問わず人気がある。 欲しいものは何でも手に入りそうな彼女だが、本当に欲しいものは自分のものにはならない。欲しいすら言えない。長い長い片想いは成就する見込みはなく半分腐りかけているのだが、なかなか捨てることができずにいた。 血の繋がりはない、兄の八重嶋公亮(33)は、未婚だがとっくに独立し家を出ている。 公亮の親友で、碧とは幼い頃からの顔見知りでもある、斎木丈太郎(33)は、碧の会社の近くのフレンチ店で料理人をしている。お互いに好き勝手言える気心の知れた仲だが、こちらはこちらで本心は隠したまま碧の動向を見守っていた。

処理中です...