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第十章 「恋」
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病院の夜間入り口を抜けると、ひっそりとした空気が通路を支配していた。
原田貴明はプリントアウトの入った鞄を小脇に抱えて、集中治療室を目指す。
家を出る時に愛里にLINEを送っておいたのだけれど、タクシーを降りてから確認したが既読すら付いていなかった。おそらく優里の傍にいるのだろう。
原田は原稿を書き終えるといつも最後に「了」の文字を手書きで入れる。それは沖優里にすら話していない、自分だけの儀式だった。印刷し終えた大量のA4用紙に並ぶ文字を一つ一つ拾っていき、最後まで読み終えてこれでイケる。そう感じた時にだけあまり上手くないが味があると言われる自分の手書きで、物語に終止符を打つ。
本来であればそれを一番最初に担当の村瀬ナツコに見せるが、彼女は今、原田の家で原田が持っているのと同じ原稿を見ながら大量の赤ペンを入れていることだろう。
今回は一切見直しをしていない。
だからまだ「了」の字も書かれていない。
てにをはすら正しく使われていないかも知れない。
それでもやっと見つけた物語を正しい終わりを、一番に沖優里に伝える必要があった。
彼女にはもう一人の結城貴司としてそれを聞く義務がある。
いや、理由はそれだけじゃない。
エレベータの前で立ち止まり、逸る気持ちでボタンを押す。
どうしてもっと早く気づけなかったのだろう。
一番大切なことはいつだってすぐ傍に転がっているのに、いつも遠くの綺麗な景色ばかり探して、足元の小石に躓いてしまう。
エレベータに乗り込み、三階に向かう。
目を閉じればあの日の制服姿の沖優里を、思い出すことができた。
彼女に巡り合うまで原田は女性というのは恐ろしく生々しいものだとしか見られなかった。
男性の筋肉質だったり、毛深かったり、油の臭いだったりがしてくるようなそれとは異なり、原田にとって女性とは着飾った顔と作られた香りとどこまでも埋まってしまう柔らかい肉の塊でしかなかった。
だが沖優里だけは原田が見てきたどの女性とも違っていて、それはジャングルの奥地を歩いていたら突然全面ガラス張りのビルに遭遇したような、文化圏そのものの差異が具現化したような人間だった。
だから正確には原田の彼女に対する気持ちの名前は「憧れ」なのかも知れない。
一匹の猿が自分に愛を教えようとしてくれた人間に恋をするかのような、叶わない、届かない、次元の異なるすれ違い。それは平行線ですら描けず、ただただ存在しない神を見るように彼女を見上げているしかないのだ。
控室のドアをノックして中を見てみたが、誰もいなかった。
集中治療室の前室に入り、そこで身支度を整える。
原稿の持ち込みについて尋ねればおそらく駄目だと言われるだろうと覚悟して、ジャケットの内側に潜ませた。その上から滅菌エプロンを身に着け、彼女の病室に向かう。
足元のスイッチを押して、ドアをスライドさせる。
すぐ左手側に複数の看護師が常駐しているが、何やら忙しなく動いていた。
だから原田は会釈もせず、三メートルほど先の優里の部屋のドアに真っ直ぐ向かった。
ドアを開ける。
「お姉ちゃん!」
愛里の叫び声だった。
見れば彼女の寝かされたベッドの周囲に愛里、高正、葉子と揃っていて、別の医師が優里の体の上に覆いかぶさっている。
何が、起こっているのだろう。
「嫌! お姉ちゃん!」
愛里の声は掠《かす》れて涙混じりになり、ベッドに向かおうとするのを葉子が押さえつけた。
「あ、あの……」
高正がゆっくりと原田を見る。
初めて見る、魂が抜けたような表情だった。
原田は改めて沖優里に視線を向ける。
担当の吉崎医師が行っているのは、電気ショックによる蘇生措置だ。
どん、と言う音と共に彼女の体が跳ね上がる。
モニタに表示された波形は大きく乱れるが、それはやがて平坦になり、彼女が生きていないことを教えてくれる。
何が起こったのか、考えようとしたけれど、上手く頭が働かない。
「もう一度」
吉崎医師は再度蘇生措置を行う。
その光景を見つめながら、原田の頭の中には自分が描いた恋愛教室の、最後の場面が蘇っていた。
原田貴明はプリントアウトの入った鞄を小脇に抱えて、集中治療室を目指す。
家を出る時に愛里にLINEを送っておいたのだけれど、タクシーを降りてから確認したが既読すら付いていなかった。おそらく優里の傍にいるのだろう。
原田は原稿を書き終えるといつも最後に「了」の文字を手書きで入れる。それは沖優里にすら話していない、自分だけの儀式だった。印刷し終えた大量のA4用紙に並ぶ文字を一つ一つ拾っていき、最後まで読み終えてこれでイケる。そう感じた時にだけあまり上手くないが味があると言われる自分の手書きで、物語に終止符を打つ。
本来であればそれを一番最初に担当の村瀬ナツコに見せるが、彼女は今、原田の家で原田が持っているのと同じ原稿を見ながら大量の赤ペンを入れていることだろう。
今回は一切見直しをしていない。
だからまだ「了」の字も書かれていない。
てにをはすら正しく使われていないかも知れない。
それでもやっと見つけた物語を正しい終わりを、一番に沖優里に伝える必要があった。
彼女にはもう一人の結城貴司としてそれを聞く義務がある。
いや、理由はそれだけじゃない。
エレベータの前で立ち止まり、逸る気持ちでボタンを押す。
どうしてもっと早く気づけなかったのだろう。
一番大切なことはいつだってすぐ傍に転がっているのに、いつも遠くの綺麗な景色ばかり探して、足元の小石に躓いてしまう。
エレベータに乗り込み、三階に向かう。
目を閉じればあの日の制服姿の沖優里を、思い出すことができた。
彼女に巡り合うまで原田は女性というのは恐ろしく生々しいものだとしか見られなかった。
男性の筋肉質だったり、毛深かったり、油の臭いだったりがしてくるようなそれとは異なり、原田にとって女性とは着飾った顔と作られた香りとどこまでも埋まってしまう柔らかい肉の塊でしかなかった。
だが沖優里だけは原田が見てきたどの女性とも違っていて、それはジャングルの奥地を歩いていたら突然全面ガラス張りのビルに遭遇したような、文化圏そのものの差異が具現化したような人間だった。
だから正確には原田の彼女に対する気持ちの名前は「憧れ」なのかも知れない。
一匹の猿が自分に愛を教えようとしてくれた人間に恋をするかのような、叶わない、届かない、次元の異なるすれ違い。それは平行線ですら描けず、ただただ存在しない神を見るように彼女を見上げているしかないのだ。
控室のドアをノックして中を見てみたが、誰もいなかった。
集中治療室の前室に入り、そこで身支度を整える。
原稿の持ち込みについて尋ねればおそらく駄目だと言われるだろうと覚悟して、ジャケットの内側に潜ませた。その上から滅菌エプロンを身に着け、彼女の病室に向かう。
足元のスイッチを押して、ドアをスライドさせる。
すぐ左手側に複数の看護師が常駐しているが、何やら忙しなく動いていた。
だから原田は会釈もせず、三メートルほど先の優里の部屋のドアに真っ直ぐ向かった。
ドアを開ける。
「お姉ちゃん!」
愛里の叫び声だった。
見れば彼女の寝かされたベッドの周囲に愛里、高正、葉子と揃っていて、別の医師が優里の体の上に覆いかぶさっている。
何が、起こっているのだろう。
「嫌! お姉ちゃん!」
愛里の声は掠《かす》れて涙混じりになり、ベッドに向かおうとするのを葉子が押さえつけた。
「あ、あの……」
高正がゆっくりと原田を見る。
初めて見る、魂が抜けたような表情だった。
原田は改めて沖優里に視線を向ける。
担当の吉崎医師が行っているのは、電気ショックによる蘇生措置だ。
どん、と言う音と共に彼女の体が跳ね上がる。
モニタに表示された波形は大きく乱れるが、それはやがて平坦になり、彼女が生きていないことを教えてくれる。
何が起こったのか、考えようとしたけれど、上手く頭が働かない。
「もう一度」
吉崎医師は再度蘇生措置を行う。
その光景を見つめながら、原田の頭の中には自分が描いた恋愛教室の、最後の場面が蘇っていた。
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