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毎年夏休みになると長い長い高速道路の旅をして碁盤の目になった市内の道をぎゅうぎゅうの車列の中で進んで、堀川通に出ると、そこをずっと北上して川沿いに建つクリーム色をしたコンクリート造の二階建てに向かう。
祖父母の家は物心ついた頃から期間限定のわたしの別荘だった。
「あらぁ美月ちゃん、いらっしゃい」
半音高くなった声でいつも祖母は出迎えてくれるけれど、淡い藤の色をした着物姿を見ると京都に来たのだなという感慨が生まれる。両親はお土産のお菓子を詰めた紙袋を渡しながら、元気そうだとか、一人になって大丈夫かとか、いつも電話で話していることの延長のような会話をしながら玄関を上がり、勝手知ったる我が家のような顔でリビングへと向かっていった。
わたしはといえば、スリッパに履き替えるとすぐ左手の階段をとんとんと上り、二階に出る。振り返って右手の奥の部屋のドアを開けて中に入ると、大きなサッシの窓の鍵を捻り、音をさせて滑らせた。ベランダだ。祖母の家の中でのわたしの定位置だった。男の子たちがよく秘密基地というのを作るけれど、わたしからしてみればここは同級生の誰にも話していない秘密基地のような、特別席だ。
もちろんベランダはわたしの自宅にもある。けれどもっと狭くていつも洗濯物がぶら下がっている。それに隣はパーテーションが立っていて、すぐ下は駐車場だ。そういうのを“趣がない”と呼ぶのだと去年亡くなった祖父から教わった。
対して祖母の家のベランダは道路を挟んですぐ賀茂川が広がっていて、春ともなれば道縁に植えられた桜が、秋には奥に見える山の紅葉がよく川面に映える。市内ほど車は多くなく、こっちは観光客も群れていない。右手に小さく上賀茂橋が、もっと手前には御薗橋が架かっていて、五山の送り火の日ともなると人が溢れるけれど、そういう特別でもないと趣を台無しにするほどの人間は集まらないからそれも良い。
わたしは鞄を部屋に置き、中からスケッチブックと画材を取り出す。画材といってもこの頃はまだ色鉛筆だった。最初は十二色のものが年を追う毎に数が増え、小学校六年生の今年は遂に四十八色になった。
部屋の隅に置いたままの折りたたみ式の椅子とテーブルをベランダに出してそれに掛け、わたしはまず鉛筆でスケッチを始める。大きな紙の上を右から左に一気に鉛筆を滑らせる。川のラインを一番最初に決めておきたいのだ。けれど何本書いてみてもなかなか納得する形にはならない。それは補助線というものになると後で知ったのだけれど、この時のわたしにとってはとにかく最初に書くものとして、それこそここでスケッチを始める儀式のようなものとして、行っていた。
わたしがここからの眺めを描き始めたのは小学三年生の夏からだ。最初は別に描いたりするつもりはなく、ただそこから見る眺めが好きで椅子に座ってぼうっと見ていた。すると金色の、何だか奇妙な楽器を手にした帽子から白髪をはみ出させた男性が川縁を歩いていく姿を見つけ、一体何をするのだろうかと観察していると、彼は折り畳んだ小さな椅子を広げてそれに座り、その楽器を吹き始めたのだ。後でその曲がった管楽器はサックスと呼ぶのだと教わった。
河原でサックスを吹く。その練習をする、という風景が、まだ当時のわたしには珍しくて、その感情を何とか記録しておこうと考えたのがスケッチを始めた。最初は当然スケッチブックなんてなかったから、新聞の間に挟まっている広告だ。それもほとんど裏地が白いものがなくて、結局祖母からファックス用の印刷用紙を数枚貰って、それに描いた。つまり、絵というよりは単なる記録の一環としてわたしのベランダでのスケッチは始まった。今ならスマートフォンで写真を数枚撮影して終わりかも知れないが、当時のわたしはまだ自分用のスマホを持っていなかったし、そもそも写真に残すという考えがなかった。それは小さい頃からマジックやペンを手に、そこら中にぐりぐりと意味の分からないものを描いていたという癖もあるだろう。たぶん、目にしたものを自分の手で絵としてアウトプットすることが好きだったのだ。
といっても漫画家のように上手く描ける訳ではない。どちらかといえば下手な部類で、そのわたし同様、男性の演奏もお世辞にも上手とは言えないものだった。音は出る。けれど何とも頼りなく、その上年齢的なものもあるのだろうが、五分も吹けば疲れて休んでしまう。普段何をしている男性なのかは知らないけれど、まだ日の高い、それも平日の午後にここまで出かけてきてはサックスの練習をするというのは、会社勤めをしているようには思えない。もう定年で辞めて、老後の楽しみとしてサックスを吹いているのだろうか。
ともかく、小学三年生の夏から、わたしの賀茂川とサックスおじさんのスケッチは始まった。
祖父母の家は物心ついた頃から期間限定のわたしの別荘だった。
「あらぁ美月ちゃん、いらっしゃい」
半音高くなった声でいつも祖母は出迎えてくれるけれど、淡い藤の色をした着物姿を見ると京都に来たのだなという感慨が生まれる。両親はお土産のお菓子を詰めた紙袋を渡しながら、元気そうだとか、一人になって大丈夫かとか、いつも電話で話していることの延長のような会話をしながら玄関を上がり、勝手知ったる我が家のような顔でリビングへと向かっていった。
わたしはといえば、スリッパに履き替えるとすぐ左手の階段をとんとんと上り、二階に出る。振り返って右手の奥の部屋のドアを開けて中に入ると、大きなサッシの窓の鍵を捻り、音をさせて滑らせた。ベランダだ。祖母の家の中でのわたしの定位置だった。男の子たちがよく秘密基地というのを作るけれど、わたしからしてみればここは同級生の誰にも話していない秘密基地のような、特別席だ。
もちろんベランダはわたしの自宅にもある。けれどもっと狭くていつも洗濯物がぶら下がっている。それに隣はパーテーションが立っていて、すぐ下は駐車場だ。そういうのを“趣がない”と呼ぶのだと去年亡くなった祖父から教わった。
対して祖母の家のベランダは道路を挟んですぐ賀茂川が広がっていて、春ともなれば道縁に植えられた桜が、秋には奥に見える山の紅葉がよく川面に映える。市内ほど車は多くなく、こっちは観光客も群れていない。右手に小さく上賀茂橋が、もっと手前には御薗橋が架かっていて、五山の送り火の日ともなると人が溢れるけれど、そういう特別でもないと趣を台無しにするほどの人間は集まらないからそれも良い。
わたしは鞄を部屋に置き、中からスケッチブックと画材を取り出す。画材といってもこの頃はまだ色鉛筆だった。最初は十二色のものが年を追う毎に数が増え、小学校六年生の今年は遂に四十八色になった。
部屋の隅に置いたままの折りたたみ式の椅子とテーブルをベランダに出してそれに掛け、わたしはまず鉛筆でスケッチを始める。大きな紙の上を右から左に一気に鉛筆を滑らせる。川のラインを一番最初に決めておきたいのだ。けれど何本書いてみてもなかなか納得する形にはならない。それは補助線というものになると後で知ったのだけれど、この時のわたしにとってはとにかく最初に書くものとして、それこそここでスケッチを始める儀式のようなものとして、行っていた。
わたしがここからの眺めを描き始めたのは小学三年生の夏からだ。最初は別に描いたりするつもりはなく、ただそこから見る眺めが好きで椅子に座ってぼうっと見ていた。すると金色の、何だか奇妙な楽器を手にした帽子から白髪をはみ出させた男性が川縁を歩いていく姿を見つけ、一体何をするのだろうかと観察していると、彼は折り畳んだ小さな椅子を広げてそれに座り、その楽器を吹き始めたのだ。後でその曲がった管楽器はサックスと呼ぶのだと教わった。
河原でサックスを吹く。その練習をする、という風景が、まだ当時のわたしには珍しくて、その感情を何とか記録しておこうと考えたのがスケッチを始めた。最初は当然スケッチブックなんてなかったから、新聞の間に挟まっている広告だ。それもほとんど裏地が白いものがなくて、結局祖母からファックス用の印刷用紙を数枚貰って、それに描いた。つまり、絵というよりは単なる記録の一環としてわたしのベランダでのスケッチは始まった。今ならスマートフォンで写真を数枚撮影して終わりかも知れないが、当時のわたしはまだ自分用のスマホを持っていなかったし、そもそも写真に残すという考えがなかった。それは小さい頃からマジックやペンを手に、そこら中にぐりぐりと意味の分からないものを描いていたという癖もあるだろう。たぶん、目にしたものを自分の手で絵としてアウトプットすることが好きだったのだ。
といっても漫画家のように上手く描ける訳ではない。どちらかといえば下手な部類で、そのわたし同様、男性の演奏もお世辞にも上手とは言えないものだった。音は出る。けれど何とも頼りなく、その上年齢的なものもあるのだろうが、五分も吹けば疲れて休んでしまう。普段何をしている男性なのかは知らないけれど、まだ日の高い、それも平日の午後にここまで出かけてきてはサックスの練習をするというのは、会社勤めをしているようには思えない。もう定年で辞めて、老後の楽しみとしてサックスを吹いているのだろうか。
ともかく、小学三年生の夏から、わたしの賀茂川とサックスおじさんのスケッチは始まった。
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