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そのままみんなで行ってしまうのかと思ったけれど、一人、サックスの男性だけが残り、わたしと二人切りになった。
「君は佐々波さんのところの子やろ?」
「祖母をご存知なんですか?」
「秋乃さんより、平五郎さんの方とな」
祖父の知人だとは想像もしていなかったわたしは、戸惑いを隠せないまま、それでも彼に手招きされ、隣に腰を下ろした。
「秋乃さんも残念やったねえ」
「ちゃんとお見送りしてきましたよ」
「ま、わしもそう長くはない。そのうち後に続く。あんたは音楽は好きか? それとも絵の方が好きかな」
「見てたんですね」
「毎年のことやったからねえ。セミがよう鳴くと、あんたがベランダに姿を見せた」
「わたしはセミの声はもう練習終わりの合図かと思ってました」
「練習? ああこれか。アルトサックス。かっこええやろ。だがなかなか上手くは吹けん」
「吹いてましたよ?」
「年寄りが物好きで始めたものだから、まだまだ形になっとらんよ。それでもなあ続けてると、何かしら形になってくるもんだから不思議やなあ」
遠く、祖母の家の方へと視線を向ける。
「石川や せみの小川の 清ければ 月も流れを 尋ねてぞすむ」
「あ、それ」
「平五郎さんの好きな句でな。あのベランダで将棋を差しながら真っ白な月が空に浮かんでいると唐突にそう口に出す。わしは教養がないものだから、それは一体どんな意味かと尋ねると、賀茂川に浮かぶ月を見て感動した昔の人が詠んだ歌だと言った。川は色々なところにある。けれどこの賀茂川はな、見ているとこう、心の奥がやんわりと綺麗にされていくようで、そういう涼やかな流れは今も昔も、人の心に響くんやろうなあと、わしなんかは思ったよ」
「セミの小川のことを、わたしは最初、蝉の声がうるさいからだと思っていたんです。けど、セミというのは瀬を見ると書いて瀬見で、瀬見の小川というのは賀茂川の別の呼び名のことだと、国語の先生から教わりました」
「ああ。それそれ。わしも最初は『確かに蝉の声がうるさい川やなあ』と笑ったら平五郎さんに言われたものだよ」
それからあの家は誰の持ち物になるかは分からないけど、たぶん売ることになりそうだとか、そういう話をしてから、わたしたちは別れた。
家に戻ると、わたしはまだ話しが続いているらしいリビングには顔を出さず、ひっそりと二階に上がった。明かりを点けていない部屋にはベランダ側から夕日が差し込んで、赤く照らしている。その光の先に、スケッチブックが落ちていることに気づいた。わたしが忘れていったものだろうか。そう思って開いてみると、描きかけの川の水彩画がそこにあった。祖母だろうか。
わたしはベランダに机と椅子を出し、そのスケッチブックを手に、ここでの最後になるかも知れないとぼんやりと思いながらその徐々に暗がりになっていく河川敷に目を向けた。
賀茂川の川面には早くに上がり始めた月がおぼろげに浮かび、それがゆらゆらとぼやけるのが何とも綺麗で、祖母の川の上に鉛筆でそっと月を描いていると、わたしの、それまで一滴も出なかった涙がするすると頬を伝って何度も何度も落ちていった。(了)
「君は佐々波さんのところの子やろ?」
「祖母をご存知なんですか?」
「秋乃さんより、平五郎さんの方とな」
祖父の知人だとは想像もしていなかったわたしは、戸惑いを隠せないまま、それでも彼に手招きされ、隣に腰を下ろした。
「秋乃さんも残念やったねえ」
「ちゃんとお見送りしてきましたよ」
「ま、わしもそう長くはない。そのうち後に続く。あんたは音楽は好きか? それとも絵の方が好きかな」
「見てたんですね」
「毎年のことやったからねえ。セミがよう鳴くと、あんたがベランダに姿を見せた」
「わたしはセミの声はもう練習終わりの合図かと思ってました」
「練習? ああこれか。アルトサックス。かっこええやろ。だがなかなか上手くは吹けん」
「吹いてましたよ?」
「年寄りが物好きで始めたものだから、まだまだ形になっとらんよ。それでもなあ続けてると、何かしら形になってくるもんだから不思議やなあ」
遠く、祖母の家の方へと視線を向ける。
「石川や せみの小川の 清ければ 月も流れを 尋ねてぞすむ」
「あ、それ」
「平五郎さんの好きな句でな。あのベランダで将棋を差しながら真っ白な月が空に浮かんでいると唐突にそう口に出す。わしは教養がないものだから、それは一体どんな意味かと尋ねると、賀茂川に浮かぶ月を見て感動した昔の人が詠んだ歌だと言った。川は色々なところにある。けれどこの賀茂川はな、見ているとこう、心の奥がやんわりと綺麗にされていくようで、そういう涼やかな流れは今も昔も、人の心に響くんやろうなあと、わしなんかは思ったよ」
「セミの小川のことを、わたしは最初、蝉の声がうるさいからだと思っていたんです。けど、セミというのは瀬を見ると書いて瀬見で、瀬見の小川というのは賀茂川の別の呼び名のことだと、国語の先生から教わりました」
「ああ。それそれ。わしも最初は『確かに蝉の声がうるさい川やなあ』と笑ったら平五郎さんに言われたものだよ」
それからあの家は誰の持ち物になるかは分からないけど、たぶん売ることになりそうだとか、そういう話をしてから、わたしたちは別れた。
家に戻ると、わたしはまだ話しが続いているらしいリビングには顔を出さず、ひっそりと二階に上がった。明かりを点けていない部屋にはベランダ側から夕日が差し込んで、赤く照らしている。その光の先に、スケッチブックが落ちていることに気づいた。わたしが忘れていったものだろうか。そう思って開いてみると、描きかけの川の水彩画がそこにあった。祖母だろうか。
わたしはベランダに机と椅子を出し、そのスケッチブックを手に、ここでの最後になるかも知れないとぼんやりと思いながらその徐々に暗がりになっていく河川敷に目を向けた。
賀茂川の川面には早くに上がり始めた月がおぼろげに浮かび、それがゆらゆらとぼやけるのが何とも綺麗で、祖母の川の上に鉛筆でそっと月を描いていると、わたしの、それまで一滴も出なかった涙がするすると頬を伝って何度も何度も落ちていった。(了)
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