特別な彼女

凪司工房

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 空気がどんよりとして何だか臭う、と感じ、山川浩市やまかわこういちは部室の窓を開けに立つ。テーブルの上には誰が持ち込んだのか分からない分厚い本が積み上がっているが、どれも大学の授業のレポートに必要とされる代物ではなく、|所謂“ミステリ”と呼ばれるジャンルに属する小説たちだ。
 そう。ここはK大学のミステリ研究室の部室で、つい三十分前まで定例会が開かれていたが、今はもう浩市の他には穴の空いたソファにもたれて半分眠っている中野遊作なかのゆうさくの姿しかない。
 建付けの悪い窓を何とか開けると五月の夜風が入り込む。夜の八時半だ。もうキャンパスを歩く人影もない。
 部員は男ばかりで、どうにもむさ苦しい。ただそれはそれで特有の気楽さもあり、浩市は悪くないと感じていた。

「なあ山川。さっきの話、どう思う?」

 いつの間に起きたのか、振り返ると中野がポテチの残りを貪りながら何とも気まずい表情で浩市を見ていた。その右手首にはカラフルなミサンガが付けられている。彼女が出来るように願ったそうだが未だ切れていない。
 さっきの話――とはフランケンについてだ。

 フランケンシュタイン。その名称自体は今更説明するまでもないだろう。誰もが耳にしたことがある、あのフランケンシュタインだ。よくフィクションでも登場するし、アニメや漫画で目にした人も多いだろう。
 しかしフランケンシュタインの物語についてきちんと理解している人間というのは意外と少ない。それは先程の会合で部長の岩城いわきが概要を説明した際にも、何人か驚きを見せていたことからも分かる。
 そもそもフランケンシュタインとは怪物の名称ではなく、あの怪物を生み出した博士の方の名前なのだ。ヴィクター・フランケンシュタイン。彼は原作小説の中で自然科学を学ぶ一介の大学生でしかなく、決してマッドドクターでもなければ、狂気のマッドサイエンティストでもない。
 この手の間違った印象が独り歩きをし、市民権を得ている状態というのは、浩市からするとどうにも気持ち悪かった。だから部長が言うことも分からないでもない。

 部にはその“フランケン”のあだ名で呼ばれている、控えめに言って容姿のよくない同級生の男子がいた。屋敷裕太やしきゆうたという立派な名前があるのだが、今や誰も彼をその名で呼ぶ者はいない。いかつい顔と大きくてがっちりとした筋肉質な体、やや猫背で歩く姿は遠目にも多くの人が「フランケンシュタイン」だと思ってしまうような雰囲気があった。
 ただ何度も言うように“フランケンシュタイン”とは怪物ではなく博士の方の名だ。だから部長の岩城はどうしてもその齟齬そごを我慢することができず、せめて部員の我々だけでも彼をフランケンと呼ぶことはやめようと提案したのだ。
 当のフランケンシュタインこと屋敷裕太は急用で会合に参加していなかったが、部長が一度言い出すと聞かないことを誰もが理解していたので、満場一致でフランケンとは呼ばないことが議決された。

「フランケンさ」

 だがその決定は早速守られていない。

「そんなにフランケンって呼ばれるの嫌だと思うか?」
「まあ良い意味では呼ばれてないからなあ。ただ裕太は人が好いからあまり気にしていないとは思うけど」
「だよなあ。やっぱ部長が拘りすぎだよな」

 そこにドアが開く音が聞こえた。誰か忘れ物でもしたのだろうか。そう思って入口の方を覗くとひと目でそれと分かる容姿の彼が、何とも落ち着かない様子で入ってきたところだった。

「どうした、フランケン。用事あったんだろう?」
「う、うん」

 彼は鼻息が荒く、どうにもただ事ではない。

「何があった?」

 浩市はそれに対する裕太の「うん」に、あまり良い感触がなかった。もしかすると今朝大学の北側の茂みで見つかったという首のない遺体が何か関係しているのだろうか。

「あの、落ち着いて、聞いて」
「ああ、こっちはずっと落ち着いたままだ」

 中野は笑って浩市を見たが、意外と真面目な表情をしていたので慌てて姿勢を正した。

「で?」
「うん。あのね、彼女ができた」

 彼女――という言葉が、ただの女性の代名詞でないことは浩市も中野も充分に理解していた。理解はしていたが、フランケンと彼女という単語がどうにも結びつかない。
 二人を見て、彼は再度「彼女」と口にする。

「またまた。そんなドッキリいらないぜ」

 そう中野は笑ったが「これ」と差し出された彼のスマートフォンを見て、コンセントで痺れたかのようにその手が大きく震え、スマホを床に落としてしまう。

「おい」

 浩市はそれを拾い上げ、モニタが割れていないか確認しようとしたが、そこに映っていた謎の美人を目にして、やはり中野と同じように震えてしまった。

「嘘、だろ」

 二人は何度もそう呟き、照れ笑いをするフランケンに確認するように「冗談?」と問いかけた。
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