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冷蔵庫を開けるとドリンク用のスペースに水のペットボトルが隙間なく入っていた。その一本を手に取り、砂を呑み込んだ後のような喉を掃除する。胃袋まで唾液混じりの液体が押し流されて、微睡みから抜けた気分がいくらかすっきりした。
「ねえ、花」
大嫌いな自分の名前を呼ばれ、俺は布団に包まったままの何も身に付けていない女の頭を掴む。金髪を気取って染めたショートヘアはうまく髪が引っ張れなかったが、
「名前で呼ぶなっつっただろ」
少女漫画みたいな派手なマスカラの目は謝罪の色に染まったから、それで満足だった。
「ごめん、蜂須賀君」
「悪かったよ」
そう言ってから、彼女の薄い体に腕を回す。脂肪が少なくて皮膚がかさついているのに、胸だけはシリコンでも入れたみたいに膨《ふく》らんでいた。その二つの小さな突起を軽く吸う。ちょっとだけ濡れて、しっとりとした。
「する?」
「水川がしたいんだろ。昨夜やりすぎたからいい」
そっか。
ぼてっとした唇が声なく形作る。食べたくなるくらいに、そこだけを愛していた。水川憂芽という女の、たった一部分だけが好物だった。でもそれを正直に伝えても彼女は「うれしい」と悦ぶ。それからつんと目を閉じてその唇を差し出す。
キスを、待っている。
けれどそれを俺が与えることはない。キスは、嫌いだ。
「一度聞きたかったんだけど、どうしてリップ塗るの?」
素肌にボタンシャツを合わせたままリップクリームでかさついた口を誤魔化している俺に、水川が背中からまとわりついてくる。
「気持ち悪いから」
その剥き出しの乳房を引き剥がして立ち上がる。
「服着ろ。飯食い行く」
俺はボタンを留めながらクロゼットの方に歩いて、彼女の足音が遠ざかるのを待った。
「シャワー、借りても?」
振り返る。右の人差し指と親指でボタンを掴み、左の指で広げた穴に突っ込んでいく。彼女はその仕草をじっと見つめながら、俺が頷くのを待っている。いつもそうだ。返事をするまでずっとこっちの目を覗き込み、待てと命じられた犬のように飼い主の合図を待っている。
不安。怯え。恐怖。それとも隷属だろうか。
永遠に続くかと思われた沈黙を素っ気なく破って「ああ」と頷くと、彼女は瞳を潤ませて「うん」と答えてバスルームに向かう。
そう。ただ、関わりが欲しいだけだ。
与えられるのを、いつでも待っている。水川憂芽はそんな女だ。そしてそんな女のことを俺は一ミリも愛していない。
すぐにシャワーの水音が聴こえ始め、それに愛らしい舌足らずな鼻歌が混ざった。
シャツを着終えると乱れた布団を畳んで端に寄せる。アレのときに水川が必死に掴むものだからシーツは彼女の手形が残るんじゃないかと思うくらいの皺を作っていた。
ゴミ箱に入っているティッシュには昨夜の残滓がこびりついている。それでももっと沢山出したんじゃないかと思って覗き込んだが。既に渇いてしまったのか。それともその程度でしかなかったのか。小さな円筒形をいっぱいにする程ではなかった。
上着を手に取ろうとしたところで電話が鳴る。画面を見ると大学のサークルの先輩だった。
「喜多見さん、ども。来週の清掃ボランティアのことですか?」
「いや。ほらお前テストの過去問欲しいって言ってたろ。手に入ったから、渡すわ」
電話から響く声に不機嫌さはなかった。怒らせると恐い人だからと先輩たちから注意されていたが、何故か一度もそういった経験がなかった。気に入られてるんだよ。そう言われたけれど、水川みたいな女以外に俺を気に入る人間なんてそういない。
「ああ、助かります。えっと、大学で?」
「当たり前だろ……てかお前、また休んでんのかよ。いい加減にしとかないと単位落とすぞ」
「一年の時に先生に土下座して単位貰った先輩の言葉は現実味あり過ぎです」
返事もなく通話が切れる。液晶に表示された時刻を確認すると既に十二時を少し過ぎていた。
「ねえ、花」
大嫌いな自分の名前を呼ばれ、俺は布団に包まったままの何も身に付けていない女の頭を掴む。金髪を気取って染めたショートヘアはうまく髪が引っ張れなかったが、
「名前で呼ぶなっつっただろ」
少女漫画みたいな派手なマスカラの目は謝罪の色に染まったから、それで満足だった。
「ごめん、蜂須賀君」
「悪かったよ」
そう言ってから、彼女の薄い体に腕を回す。脂肪が少なくて皮膚がかさついているのに、胸だけはシリコンでも入れたみたいに膨《ふく》らんでいた。その二つの小さな突起を軽く吸う。ちょっとだけ濡れて、しっとりとした。
「する?」
「水川がしたいんだろ。昨夜やりすぎたからいい」
そっか。
ぼてっとした唇が声なく形作る。食べたくなるくらいに、そこだけを愛していた。水川憂芽という女の、たった一部分だけが好物だった。でもそれを正直に伝えても彼女は「うれしい」と悦ぶ。それからつんと目を閉じてその唇を差し出す。
キスを、待っている。
けれどそれを俺が与えることはない。キスは、嫌いだ。
「一度聞きたかったんだけど、どうしてリップ塗るの?」
素肌にボタンシャツを合わせたままリップクリームでかさついた口を誤魔化している俺に、水川が背中からまとわりついてくる。
「気持ち悪いから」
その剥き出しの乳房を引き剥がして立ち上がる。
「服着ろ。飯食い行く」
俺はボタンを留めながらクロゼットの方に歩いて、彼女の足音が遠ざかるのを待った。
「シャワー、借りても?」
振り返る。右の人差し指と親指でボタンを掴み、左の指で広げた穴に突っ込んでいく。彼女はその仕草をじっと見つめながら、俺が頷くのを待っている。いつもそうだ。返事をするまでずっとこっちの目を覗き込み、待てと命じられた犬のように飼い主の合図を待っている。
不安。怯え。恐怖。それとも隷属だろうか。
永遠に続くかと思われた沈黙を素っ気なく破って「ああ」と頷くと、彼女は瞳を潤ませて「うん」と答えてバスルームに向かう。
そう。ただ、関わりが欲しいだけだ。
与えられるのを、いつでも待っている。水川憂芽はそんな女だ。そしてそんな女のことを俺は一ミリも愛していない。
すぐにシャワーの水音が聴こえ始め、それに愛らしい舌足らずな鼻歌が混ざった。
シャツを着終えると乱れた布団を畳んで端に寄せる。アレのときに水川が必死に掴むものだからシーツは彼女の手形が残るんじゃないかと思うくらいの皺を作っていた。
ゴミ箱に入っているティッシュには昨夜の残滓がこびりついている。それでももっと沢山出したんじゃないかと思って覗き込んだが。既に渇いてしまったのか。それともその程度でしかなかったのか。小さな円筒形をいっぱいにする程ではなかった。
上着を手に取ろうとしたところで電話が鳴る。画面を見ると大学のサークルの先輩だった。
「喜多見さん、ども。来週の清掃ボランティアのことですか?」
「いや。ほらお前テストの過去問欲しいって言ってたろ。手に入ったから、渡すわ」
電話から響く声に不機嫌さはなかった。怒らせると恐い人だからと先輩たちから注意されていたが、何故か一度もそういった経験がなかった。気に入られてるんだよ。そう言われたけれど、水川みたいな女以外に俺を気に入る人間なんてそういない。
「ああ、助かります。えっと、大学で?」
「当たり前だろ……てかお前、また休んでんのかよ。いい加減にしとかないと単位落とすぞ」
「一年の時に先生に土下座して単位貰った先輩の言葉は現実味あり過ぎです」
返事もなく通話が切れる。液晶に表示された時刻を確認すると既に十二時を少し過ぎていた。
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