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第20章 皇叔逃走編

第119話 新野、空城の計

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樊城にいた劉備は、自分の耳を疑った。
襄陽城からの使者、宋忠そうちゅうの言葉をそのまま受け取ると、曹操軍が攻めてきており、間もなく宛城に到達するとのこと。
更には、劉表が既に亡くなっており、その跡を継いだのが劉琮ということだった。

ここまで、情報が遮断されるとは、劉備も呆れかえるしかない。
そして、極めつけは、その劉琮が一戦も交えることなく、曹操に降伏の使者を出したというのだから、理解の範疇を大きく越える。

「一言も相談なしってことは、俺とは袂を分かつということでいいんだな?」
「そこまでは、私の権限ではお答えできません」

それは聞くまでもないことだった。日頃の蔡瑁や蒯越の態度を考えれば、劉備のことは早々に切り捨てていることだろう。
捕らえて、曹操に差出さないところが、劉備を擁護していた劉表への、せめてもの義理立てなのかもしれない。

「ここで、あんたを斬ってもいいんだが、俺も劉表殿には世話になった。その臣を感情に任せて、殺めたとなれば顔向けができない。とっとと帰りな」
劉備の迫力に押されて、宋忠は逃げるように帰って行った。

宋忠を見送った劉備だが、そうゆっくりとはしていられない。
ここは樊城で、劉備の居城ではないのだ。
この城で自由にできる兵数は、新野から連れてきている千人程度しかいない。

「益徳さんに使者を出しました。後で合流できると思います」
宋忠と対談途中、簡雍が退席していたが、その間に新野に使いを出していたのだろう。
さすが簡雍、仕事が早い。

この樊城には劉備の他、諸葛亮、関羽、簡雍しかおらず主だった劉備の配下は新野にいた。
曹操の大軍がやってくるというのであれば、襄陽からの援護がない新野で対抗するのは難しい。
態勢を立て直すためにも、一度、南下する必要があるのだ。

「我が君、我らは退却するとして、新野をそのまま明渡すわけにまいりません。住民を襄陽に避難させることになりますが、よろしいでしょうか?」
「ああ、任せる」
「良かった。既に手をうった後でしたので」

それで、先ほど簡雍と、何やら打ち合わせをしていたのかと合点がいった。
益徳に出した早馬には、その指示の内容も含まれているのだろう。

これで、今、打てる手は全て討った。後は新野から避難してくる住民を待って、南に逃げるだけ。
劉備は樊城に残る自分の兵をまとめて、急ぎ南下の準備をするのだった。


「急げ。逃げ遅れれば、皆、曹操に殺されるぞ」
新野城で、張飛、趙雲、陳到の三将が大声を上げて、住民を避難させる。
諸葛亮の策では、まず、この新野城を空城にしないことには始まらないのだ。

この住民移動に際して、諸葛亮が作った戸籍票が非常に役立つ。
元々、納税や兵役のために作ったのだが、逃げ遅れがいないことの確認にも利用できるのだった。

「なぁ、虎髯の兄ちゃん。俺たちは、一体、どこに連れていかれるんだ?」
「ん?向こうの門の外で、指示するから、早く行け」

年のころは三十前後、どこか飄然とした男が張飛に話しかける。
時間が惜しい張飛は、その男を雑に扱った。

張飛としては、いちいち住民の相手などしていられないのだ。
対応としては当然と言えば当然なのだが、この男、指示には従わず、ジッと張飛を見つめて動かない。

「分かった。あんただろ、あの垣根を壊したのは」
「垣根?何のことだ?」
「孔明ちゃんの家の垣根だよ」

待て、待て、待て。
張飛は、色々整理しなければ、頭が追い付かない。
確かに諸葛亮の草庵の垣根を壊して、覗き穴を広げたのは張飛だが、何故、この男は、そのことを知っている。
いや、それよりも軍師のことを『孔明ちゃん』と呼ぶ、この男は、一体何者だ?

「どうした、益徳殿」
張飛が固まっているところに趙雲もやって来た。住民の避難は、ほぼ完了したようだった。

「いや、この男、どうやら、軍師の知り合いのようなんだ。」
張飛に紹介され、趙雲が男をまじまじと見る。そこで、一人の知者の名が浮かんだ。

「もしや、貴方は鳳雛殿ですか?」
「お、あんた、こっちの虎髯の兄ちゃんと違って、顔も良ければ頭もいいんだな」
趙雲のことを褒めるのがいいが、余計な一言が紛れている。暴れそうになる張飛を趙雲は何とか抑えるのだった。

龐統といえば、諸葛亮と肩を並べるほどの賢者と聞いている。
その龐統が新野で、一体、何をしているのだろうか?

「孔明ちゃんに会おうと思って草庵を訪れたが不在、それで新野に来たのだが、ここでもすれ違いとは、俺は嫌われているのかねぇ?」
「さぁ、それは私では、何とも分かりかねます」

生真面目に答える趙雲だが、こちらの都合を優先させなければならない。
張飛と同じく趙雲も龐統に避難するように促した。

「諸葛軍師の指示です。どうか城を出て下さい」
「孔明ちゃんの指示ねぇ。一体、どんな作戦なんだい?」

そんなことを気にもとめない龐統は、諸葛亮が授けたという策の確認を行った。
諸葛亮の知人となれば、無下に扱うこともできない。
仕方なく張飛がぶっきらぼうに書簡を渡すと、目を通していた龐統の顔が渋く変わった。

「うん。さすがの孔明ちゃんも時間がなかったのと、書簡一つじゃ細かい指示はできないと諦めたか」
「どういうことでしょうか?」

その言葉に趙雲が食いつくと、龐統は、
「主だった将を集められるかい?」と聞くのだった。


ほどなくして、新野城外に張飛、趙雲、陳到、劉封、関平、糜芳、周倉などの武官が集められる。
そして、龐統は、それぞれの将に詳細な指示を与えるのだった。
諸葛亮の策から大きな変更はないが、陳到にだけ新たな役割が与えられる。

その様子を見ていた文官の孫乾が、勝手に作戦変更をしていいものか、不安を覚えた。
それは実際に実行する将たちを代表しての言葉でもある。

「大丈夫だ。責任は俺がとる」
その不安を張飛が解消した。
劉備の義弟であり、この中では趙雲と並んで、格上の張飛が認めるというのならば、作戦実行する者たちの不安など、どこ吹く風へと変わる。

「さすがは中華最強の漢。張飛将軍、あなたの器はとてつもなく大きい」
龐統は、手放しに張飛を褒める。同じく、趙雲も賛辞を送った。

「俺は諸葛軍師に会うまでは、どこか知者というのを軽く見ていた。しかし、博望坡で間違いに気づかされ、一度目は必ず信用することにしたんだ。まぁ、二度目は、結果次第だがな。」
「一度目だけは必ずね。・・・うん、軍師と将軍は、それくらいの緊張感があった方が丁度いい」

諸将は、納得し龐統が指示する持ち場につく。
諸葛亮の書簡では、記載がない細かい時刻に合わせた待機位置までも言いつけた。

そして、孫乾、麋竺と麋夫人の警護のため趙雲が新野の住民を連れて出発する。
ここで趙雲を欠くのは戦力的に厳しい。

しかし、警護対象は麋夫人だけではなく生まれて間もない劉備の嫡男、阿斗君あとぎみもいたため、万が一でも曹操の手に渡るわけにいかない事情があったのだ。
諸葛亮の書簡にも、そのように指示があったので、張飛も納得して趙雲を送り出す。

「子龍、頼んだぞ」
「命に替えても奥方と若君をお守りします。益徳殿もご武運を」
「ああ、分かった」

出発前、二人の間には、こんなやり取りがあった。
型通りの挨拶だが、認め合う勇将同士、通じるものがしっかりとある。
そこにお互いの任務達成を疑う余地はなかった。

趙雲たちが出発してから二日後の黄昏時、曹仁と曹洪の軍が新野城に到着する。
見るからにもぬけの殻に見える状況に二人は、劉備の逃げ足の早さをあざけ笑った。

「まぁ、邪魔者がいないというのであれば、ここで一休みするか」
「それも良かろう」

曹仁と曹洪は、長い行軍を強いて来た兵馬を休ませることにする。
劉備が新野の住民まで連れ出しているのであれば、その足取りは重いはず。
翌朝からでも、十分に追いつけると算段したのだ。

それから、時が過ぎた宵の口、曹仁と曹洪が酒を酌み交わしているところに、兵たちの火事だと騒ぐ声が耳に入る。
二人が確認すると、確かに城内、至る所から火が上がり始めていた。

「罠か」
曹仁が叫ぶと、曹洪も続いて城からの退避を指示する。
しかし、北門、南門、東門は封鎖され火の海へと変わると、残されたのは西門のみだった。
導かれた曹仁、曹洪軍は西門で待ち構えていた劉封、関平軍に手ひどい攻撃を受ける。

何とか逃げる両軍の前に、今度は張飛が登場した。
混乱した状況で、まともにこの猛将に対抗できるわけもなく、張飛に追い立てられると水深浅い川が目の前に現れる。
この川を横切って、窮地を脱しよう試みた。先頭の曹仁と曹洪が渡り切った矢先、何かが爆発したような音とともに激流が曹操軍を襲う。

川の上流で止めていた水を陳到が、張飛の合図とともに、その堰を切ったのだ。
曹操軍はこの水流に飲み込まれ、ほぼ壊滅状態へとなる。
諸葛亮の策、この空城の計では、主に足止めを目的としていたが、そこに龐統が手を加えたことにより、曹操軍の先鋒部隊を討ち破ることができたのだった。

張飛は龐統の差配に感服し、礼を述べようとしたのだが、その本人の姿は、どこにもいない。
何とも最後まで捉えどころのない男だったが、張飛たちとしてはすぐに劉備を追いかけなければならなかった。
軍をまとめると、新野城から出立していく。

「劉皇叔ねぇ。なかなか優秀な連中を揃えているな」
木陰から張飛たちを見送る龐統は、寸分たがわず指示通り動いた諸将と、今も隊列乱れずに行軍する劉備軍に高評価を下した。

「これに孔明ちゃんと俺まで加わったとしたら、何とも贅沢なことだわな。・・・まぁ、何時のことになるか分かりゃしないがね」
龐統は高笑いをすると、林の中に紛れていくのだった。
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