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第20章 皇叔逃走編

第123話 当陽県での悲劇

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住民十万を引き連れて襄陽を発った劉備一行。
ようやく当陽県とうようけんまで辿り着くことができた。
目的地、江陵県への道のりとしては、七割方、踏破したことになり、もうひと踏ん張りといったところである。

その大きな一団は、今、小川のせせらぎで小休憩をとり、水分補給を行っていた。
すると、休んでいる劉備の耳に住民たちの騒ぎ声が聞こえる。

何事かと気にかけるが、劉備の目に飛び込んできたのは、巨大な自然現象、濛々もうもうたる土煙を上空まで吹き上げるつむじ風だった。
太陽まで隠す勢いに、不安の声を上げる者もいる。

それを見た孫乾が、
「陽は活力の象徴。それ遮る北方の風とは、あまりよくない事が起こる前触れかもしれません」と凶事を心配した。
確かに劉備も嫌な予感がする。張飛を呼ぶと後方で備えるように指示を出した。

「ここにいる騎兵で先に江陵県に向かってはどうでしょうか?この状況で曹操軍に捕まれば、我らになす術はありません」
孫乾は、続けて進言するが、劉備は取り合わなかった。

「いや、そもそも大事を成し遂げるために、必要なのは『人』だ。今、その人が俺に身を寄せてくれている。それを見捨てることはできねぇよ」
自分でそうは言ったものの、この漠然とした憂愁ゆうしゅうだけは、消え去らない。
劉備は、胸騒ぎを落ち着けるように、大きく息を吸い込むのだった。


やはり嫌な予感というものは、得てして当たるもの。
真夜中、劉備たちはついに曹操軍に捉えられる。

警戒はしていたのだが、暗闇の乗じた敵軍の強襲にしてやられた格好だ。
民たちの飛び交う悲鳴で、劉備が目覚めるとそこには阿鼻叫喚あびきょうかん、地獄絵図さながらの世界が広がっていた。

追手である曹純、文聘はどこに劉備がいるかわからない。
十万にも数える民の群れ中から、見つけ出すのは困難を極めた。

そこで曹操軍は、わざと民を狙って刃を振るう。
そうすれば、虐殺の様子に耐えられなくなった劉備が姿を現すはずだからだ。
非情だが、劉備の性格を熟知する曹操ならではの作戦である。

「俺は、ここだ。こっちを追って来い」
簡雍がぎりぎりまで劉備を抑えていたが、やはり無理。
ここまでは、曹操の作戦通りの展開となる。

劉備は大声を上げて、所在を明らかにしてから、馬を飛ばして民たちから離れて行った。
「あそこだ。追うぞ」
曹純と文聘は劉備の後を追いかける。

今、劉備の周りで頼れる将は、陳到のみだった。
もともと張飛は殿を任せていたので、最後方に位置しており、趙雲は麋夫人と阿斗の護衛のため、劉備のそばにはいない。
陳到は命を賭ける思いで、劉備のために道を切り開いていった。

すると、目の前には地形を熟知している文聘が、劉備の行き先を予測したのか先回りをして現れる。
陳到が単騎で挑むのだが、文聘も荊州にその人ありと言われた人物、決着は長引きそうだった。

ここで、時間をかければ別の隊がやってくるかもしれない。
劉備は、一か八か文聘の義心を煽ることにした。

「文聘将軍、俺は、あんたは蔡瑁なんかよりもずっと上の人物だと思っていたが、どうやら思い違いをしていたようだ」
荊州の士の中にあって、文聘は愚直なまでにまっ直ぐな男だったはずだ。

「何を申されるかわかりませんが、ここで観念していただきますぞ」
「何を申される?荊州の民をその手にかけておきながら、劉表殿の墓前に立つことが、今のお前にできるのか!」

劉備の言葉は、痛烈なまでに文聘の心をえぐる。
確かに作戦とはいえ、無抵抗の荊州人を手にかけてしまった。
あえて考えないようにしていたのだが、こうはっきりと指摘されては、自分を誤魔化すことは、もう無理である。

「・・・分かりました。ここは劉表さまに免じて、退き下がります」
「ありがたい」

劉備一行は、文聘軍の横を急いで駆け抜けて行った。
あの様子では、もう文聘が追ってくることはないだろう。
少々、走った後、他の仲間と合流するために劉備は、一休みするのだった。

不思議なもので、仲間には劉備の居場所が分かるのだろうか、しばらくすると一人、二人と配下の者たちが集まってくる。
今、劉備の周りにいるのは、陳到、簡雍、孫乾に劉封だった。

そこに満身血まみれの糜芳が、息も絶え絶えで現れる。
「糜芳、無事だったか」
「はい、私は無事ですが、無念、趙雲殿が裏切りました」

糜芳の言葉に衝撃が走った。他の者からも、そう言えば単騎で曹操軍の方へ向かっていくのを見たという証言が出てくる。
重たい空気が流れる中、二つの笑い声が交差した。

それは劉備と簡雍である。
「大丈夫だ。子龍に限ってありえない」
「ええ。生きている姿を見かけたというのなら、逆に希望が持てますね」

付き合いの長い二人には、揺るぎない自信があった。
他の家臣たちを軽んじるつもりはないが、劉備、関羽、張飛、簡雍、趙雲は血より濃い絆で結ばれているという自負がある。
天が二つに割れることがあっても、この五人が決別することはありえないのだった。

劉備は、みんなの不安を払しょくするため、もう一度だけ、繰り返す。
「子龍は絶対に裏切らない。俺を信じろ」
その力強い言葉に、一堂は頷くのだった。


その噂の趙雲は、この人にしては珍しく若干、冷静さを失っていた。
それは護衛を任されていた麋夫人と阿斗君を不覚にも見失ってしまったせいである。
単騎で曹操軍の中を駆け巡るも、捕虜として捕まった様子はなかった。

では、どちらにいかれたのか?
しばらく彷徨っていると、馬に縛りつけられ引きずられている麋竺を見つける。
味方の窮地に一目散に駆けつけると、涯角槍の一突きで敵を討ち倒して救出に成功した。

すると、趙雲が知りたかった情報を得ることができる。
「我が妹、・・・いや奥方さま自ら、若君を抱かれて民たちと一緒に南に逃げるのを見かけました。私も後を追おうしたのですが、この始末で、その先、どうなったのか・・・」
麋竺は涙を流しながら、妹の安否を気づかっていた。しかし、その話だけで十分と趙雲は慰める。

「私は奥方さまを追いますが、麋竺殿は一人で大丈夫ですか?」
「ご心配なさるな。劉備さまの臣は、皆しぶといのですよ」
「分かりました。ご武運を」

趙雲は麋竺と別れて、南の方角へと馬を飛ばした。
確かその方向にはさびれた農村があったはずである。
麋夫人ほど機知に富んだ方であれば、一旦、そこに身を隠しているのではないかと考えた。

趙雲が農村に着いて、辺りを見回すと、崩れかけた廃屋などが無数にあり、人が隠れられそうな場所がいくつもある。
大声を上げて、探すことができれば楽なのだが、そうすると曹操軍に見つかる可能性があった。
真面目な趙雲は、一軒一軒、しらみつぶしに探してく。

三軒目を探索し終えた後、風に乗って微かに赤子の鳴き声が聞こえた。
趙雲は、全神経を集中し、その鳴き声の出どころを探る。

「あの角か!」
自分の耳を信用し、趙雲は勢いよく走り出した。
十字路を左に曲がったところで、足を止める。

「奥方さま、ご無事でしたか」
「これは、趙雲将軍。私も阿斗も無事です」

枯れ井戸に背中を預けて腰を下ろす麋夫人は、大事に息子を抱えていた。
汚れた顔で笑顔を見せるが、何とも痛々しい。

「申し訳ございません。奥方さまと若君の警護を任されておきながら、この不始末」
「あのような状況では致し方ありませんわ。痛っ」

麋夫人は、どこか痛めているのだろうか、苦痛に顔をゆがめた。
今まで、我が子を守らなければならないという想いから、痛みを忘れるほど集中していたのだろう。趙雲の姿に安堵し痛覚が戻ってきたようだ。

「立てますか?」
麋夫人は趙雲に阿斗を預けると、自力で立ち上がって見せる。
痛めているのは左足で、立つことは何とか出来ても、歩行は無理そうだった。

「今、馬をお持ちします。少々、お待ちください」
「その必要はありません。馬は一頭でございましよう?」

趙雲が頷くと麋夫人は、勇将に抱きかかえられる阿斗に優しく話しかける。
「貴方は、私の希望。どんなことがあっても生き残ってね」
息子を愛しむ母親の顔から一転、厳しい表情を趙雲に向けた。

「一頭の馬に二人も乗っては行き足が落ちます。いかに将軍の力を持ってしても、曹操軍の中を駆け抜けるのは難しいでしょう」
「私の愛馬、白竜駒はくりゅうくであれ二人を乗せても問題ありません。」
趙雲は力強く返答するが、麋夫人は首を振る。

「いいえ、それほどの駿馬であれば尚更、将軍と阿斗だけが騎乗した方が助かる確率は上がるはずです」
「・・・」

全員で助かる方法を趙雲は模索するが、何も浮かばなかった。
焦る気持ちだけが膨らんでいく。

「奥方さま、それではこちらにお隠れになっていて下さい。若君を無事に届けた後、すぐに戻って参ります」
「それには及びません。貴方のような勇将に何度も命を賭けさせては、あの人に叱られてしまいます」
「それが臣下たる者の務めです」

趙雲の言葉に麋夫人は、目を閉じた。
口元はかすかに震えているよう見受けられたが、再びまぶたが開かれると、強い意志が宿る瞳に趙雲は射抜かれる。

「臣下の務めとおっしゃるならば、劉備玄徳の嫡男を守ることを第一と考えて下さい。私は足手まといとなることをよしといたしません。・・・最後に、あの人に私は幸せでしたとお伝えください」
そう言うと、趙雲が止める間もなく麋夫人は枯れ井戸に飛び込んで行った。

趙雲が慌てて井戸を覗き込むが、深くて底が見えない。
この高さから落ちて、人が助かる可能性はないように思われた。
井戸に片手をつき、自分の不甲斐なさを責める趙雲だったが、もう片方の手には宝物を預かっている。

趙雲は涙を拭うと、自分の着衣の一部を切り裂いて阿斗君を包み込んだ。
その切れ端を固く結んで輪を作り、自身の首にかけると片手で阿斗君を支える。
この状態ならば、赤子を抱きながらでも馬に乗れそうだ。

「若君、しばし辛抱を願います。この子龍が必ず我が君のところまでお連れいたします」
趙雲は、この託された未来を必ず守り抜くことを誓い、農村を後にするのだった。
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