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第2章 東慶寺入山 御用宿 編
第10話 天秀の誕生
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夜八ツ※1、うなだれて歩く男の前を千鳥足の男が横切った。
酒に呑まれて、気分は上々といったところか。
「ちっ」
男が、『人の気も知らないで、ご機嫌になりやがって』と、勝手な恨み言を心の中で呟いていると、突然、千鳥足の男が倒れたのに驚く。
近づいてみると、大きないびきをかいて寝ているのだ。
「この野郎、驚かせやがって」
幸せそうな寝顔に悪態をつくと、膨らんだ懐が目に入る。
男は周囲を見回して、誰も近くにいないことを確認すると、素早く寝ている男の胸元に手を伸ばした。
そのまま、闇夜へと消えていくのである。
酔っ払いのいびきだけが、呑気に続いているのだった。
西暦1615年、奈阿姫は東慶寺に入山した。
大阪城脱出の時から、運命をともにしている甲斐姫も一緒である。
時の住持は、第十九世の瓊山法清。
彼女は、奈阿姫の入寺を、もろ手を挙げて歓待した。
それもそのはず。奈阿姫は、廃れつつあった東慶寺の縁切り寺法を徳川のお墨付きとして認めさせ、絶対的な地位を確立するのに、貢献したのである。
しかも自身は、正二位右大臣・豊臣秀頼公の息女にして、征夷大将軍・徳川秀忠の娘、千姫の養女という肩書を持っており、それだけでも東慶寺の格は上がるというもの。
それこそ、後醍醐天皇の皇女が入寺した時に匹敵する出来事のように思われた。
瓊山尼は、金の卵と思しき、その少女と対面し挨拶を交わす。
「私がこの寺の住持である瓊山です。これより、我が弟子となるからには、当座、奈阿と呼び捨てに致しますが、かまいませんね」
「かまいません。よろしくご指導をお願い申し上げます」
奈阿姫は、瓊山尼に深々と頭を下げた。入寺して間もないと言うことで、奈阿姫には、まだ、法名はない。
正式な入寺を済ますまで、奈阿で通すことになった。
「そのことで瓊山尼よ。一つ、提案があるのじゃが」
「甲斐殿、何でしょうか?」
瓊山尼の妹、月桂院は秀吉の側室である。同じ側室だった甲斐姫は、その伝手で瓊山尼とも顔なじみであった。
そもそも瓊山尼は、月桂院と組んで、実家である小弓公方・足利家を再興するなど、実に豪胆な女性。
そのためか、甲斐姫とは非常に気が合い、管鮑の交わりを結ぶほどだった。
「この奈阿は、公に育てることが出来なかったこともあり、俗世のことに疎い」
「それが、いかがしましたか?」
「うむ。このまま俗世と切り離した生活を送っては、偏った大人になる懸念があるのじゃ」
それでなくても、まだ、七歳である。知るべきことは山ほどあるはずだ。
「つまりは、まだ、落飾なさらないということでしょうか?」
「いや、落飾は構わぬが、いわゆる在家というのは、どうじゃ」
在家とは仏門に帰依しながら、俗世で生活を営む者を指す。しかし、俗世で暮らすと言っても、奈阿姫に帰る家はない。
それに、そう簡単に東慶寺から離れることも許されない身だ。
「それについては、御用宿で妾とともに暮らす。当然、戒律は守らせるがのう」
「御公儀から、お咎めが来るのではないでしょうか?」
作法上、在家となることには問題はない。
ただ、瓊山尼は、奈阿姫が東慶寺に入寺することになった経緯を気にしていた。
「なぁに、あ奴らは奈阿が戒律を守って子をなさなければいいだけよ。というか、まだ、そのような年齢でもないがのう」
甲斐姫の言い分は理解できる。幕府の思惑にも沿うのであれば、瓊山尼からも特に言うべきことはなかった。
「それにのう。この子はきっと、お主の後を継ぐような立派な尼僧になる。その教育のためと思えば、東慶寺にも損はあるまいよ」
「甲斐殿は、そこまでと見込まれているのですか」
瓊山尼は、改めて奈阿姫を見直す。確かに年齢の割に落ち着きがあり、利発そうな顔立ちはしてはいるが・・・
「奈阿もそれでよいか?」
「はい。私は甲斐姫さまを信用しております。そう申されるのであれば、それが一番なのでしょう」
この話し合いで、奈阿姫は落飾をするものの出家自体は見送られることになった。
そして、翌日、いよいよ落飾することになる。
その前に仏弟子となった証に、師となる瓊山尼より法名を授かった。
新しい名前は、『天秀』である。
この名前、甲斐姫から奈阿には天運があると聞いたことを参考に、その素性も考慮し、『秀』の一字を付与したのだ。
天秀。これが奈阿姫の新しい名前となるが、本人はいたく気に入る。
はじめ、その名を聞かされた時、亡き父、秀頼との繋がりを思い起こし、薄っすらと涙を浮かべて感謝したのだ。
暫くは東慶寺の御用宿で暮らすということなので、落飾も完全に頭を剃るのではなく、後ろ髪などを揃えて切る。いわゆる、おかっぱのような髪型となった。
「おお、似合っているぞえ」
甲斐姫に褒められて、奈阿姫改め天秀は照れた表情を浮かべる。
これから暮らす御用宿とは、縁切りのために東慶寺を訪れた女性が入寺前に留まる仮の宿のことだ。
この御用宿で女性の気持ちを一旦、落ち着かせて、事情などを確認する。
そして、場合によっては、出家せずとも御用宿にいる間に話し合いにより、夫婦間の問題を解決することもあった。
そこで夫から離縁状を受け取れば、縁切り成立となり、晴れて夫婦は赤の他人へと変わるのである。
東慶寺には、三軒の御用宿があり、天秀と甲斐姫が、これから厄介になるのは、その一つの柏屋だった。
その他に寺役人が詰める寺役所も東慶寺の近くに存在する。
主な仕事は、たまに訪れる乱暴な夫への対応や、寺領を持つ寺ならではの事務仕事などだった。
瓊山尼の話では、近々、若い寺役人が赴任しくるということで、天秀は注意を促されるが、今さら、徳川に逆らうつもりもない。
必要以上に警戒する必要はないように思えた。
甲斐姫とともに柏屋へ着くと、女主人のお多江という女性が天秀を出迎えてくれる。
見るからに気立てが良く、切符がよさそうな人物であった。
「天秀ちゃんかい。よく来たね、疲れただろう」
天秀は、僅かな手荷物を女中の人に預けると、宿の中へと足を踏み入れる。
その時・・・
「駆け込みだ!」
大きな声が聞こえたので外に出ると、女性が一人、髪を振り乱して走っているのが見えた。
これが、噂の駆け込みの現場だとその迫力に、度肝を抜かれる。
右も左も分からない状況だったが、これが初めて見る駆け込みの風景。
天秀は、走る女性が無事に東慶寺の門をくぐり抜けることを祈るのだった。
※1:夜八ツ⇒深夜1時~3時ころ
酒に呑まれて、気分は上々といったところか。
「ちっ」
男が、『人の気も知らないで、ご機嫌になりやがって』と、勝手な恨み言を心の中で呟いていると、突然、千鳥足の男が倒れたのに驚く。
近づいてみると、大きないびきをかいて寝ているのだ。
「この野郎、驚かせやがって」
幸せそうな寝顔に悪態をつくと、膨らんだ懐が目に入る。
男は周囲を見回して、誰も近くにいないことを確認すると、素早く寝ている男の胸元に手を伸ばした。
そのまま、闇夜へと消えていくのである。
酔っ払いのいびきだけが、呑気に続いているのだった。
西暦1615年、奈阿姫は東慶寺に入山した。
大阪城脱出の時から、運命をともにしている甲斐姫も一緒である。
時の住持は、第十九世の瓊山法清。
彼女は、奈阿姫の入寺を、もろ手を挙げて歓待した。
それもそのはず。奈阿姫は、廃れつつあった東慶寺の縁切り寺法を徳川のお墨付きとして認めさせ、絶対的な地位を確立するのに、貢献したのである。
しかも自身は、正二位右大臣・豊臣秀頼公の息女にして、征夷大将軍・徳川秀忠の娘、千姫の養女という肩書を持っており、それだけでも東慶寺の格は上がるというもの。
それこそ、後醍醐天皇の皇女が入寺した時に匹敵する出来事のように思われた。
瓊山尼は、金の卵と思しき、その少女と対面し挨拶を交わす。
「私がこの寺の住持である瓊山です。これより、我が弟子となるからには、当座、奈阿と呼び捨てに致しますが、かまいませんね」
「かまいません。よろしくご指導をお願い申し上げます」
奈阿姫は、瓊山尼に深々と頭を下げた。入寺して間もないと言うことで、奈阿姫には、まだ、法名はない。
正式な入寺を済ますまで、奈阿で通すことになった。
「そのことで瓊山尼よ。一つ、提案があるのじゃが」
「甲斐殿、何でしょうか?」
瓊山尼の妹、月桂院は秀吉の側室である。同じ側室だった甲斐姫は、その伝手で瓊山尼とも顔なじみであった。
そもそも瓊山尼は、月桂院と組んで、実家である小弓公方・足利家を再興するなど、実に豪胆な女性。
そのためか、甲斐姫とは非常に気が合い、管鮑の交わりを結ぶほどだった。
「この奈阿は、公に育てることが出来なかったこともあり、俗世のことに疎い」
「それが、いかがしましたか?」
「うむ。このまま俗世と切り離した生活を送っては、偏った大人になる懸念があるのじゃ」
それでなくても、まだ、七歳である。知るべきことは山ほどあるはずだ。
「つまりは、まだ、落飾なさらないということでしょうか?」
「いや、落飾は構わぬが、いわゆる在家というのは、どうじゃ」
在家とは仏門に帰依しながら、俗世で生活を営む者を指す。しかし、俗世で暮らすと言っても、奈阿姫に帰る家はない。
それに、そう簡単に東慶寺から離れることも許されない身だ。
「それについては、御用宿で妾とともに暮らす。当然、戒律は守らせるがのう」
「御公儀から、お咎めが来るのではないでしょうか?」
作法上、在家となることには問題はない。
ただ、瓊山尼は、奈阿姫が東慶寺に入寺することになった経緯を気にしていた。
「なぁに、あ奴らは奈阿が戒律を守って子をなさなければいいだけよ。というか、まだ、そのような年齢でもないがのう」
甲斐姫の言い分は理解できる。幕府の思惑にも沿うのであれば、瓊山尼からも特に言うべきことはなかった。
「それにのう。この子はきっと、お主の後を継ぐような立派な尼僧になる。その教育のためと思えば、東慶寺にも損はあるまいよ」
「甲斐殿は、そこまでと見込まれているのですか」
瓊山尼は、改めて奈阿姫を見直す。確かに年齢の割に落ち着きがあり、利発そうな顔立ちはしてはいるが・・・
「奈阿もそれでよいか?」
「はい。私は甲斐姫さまを信用しております。そう申されるのであれば、それが一番なのでしょう」
この話し合いで、奈阿姫は落飾をするものの出家自体は見送られることになった。
そして、翌日、いよいよ落飾することになる。
その前に仏弟子となった証に、師となる瓊山尼より法名を授かった。
新しい名前は、『天秀』である。
この名前、甲斐姫から奈阿には天運があると聞いたことを参考に、その素性も考慮し、『秀』の一字を付与したのだ。
天秀。これが奈阿姫の新しい名前となるが、本人はいたく気に入る。
はじめ、その名を聞かされた時、亡き父、秀頼との繋がりを思い起こし、薄っすらと涙を浮かべて感謝したのだ。
暫くは東慶寺の御用宿で暮らすということなので、落飾も完全に頭を剃るのではなく、後ろ髪などを揃えて切る。いわゆる、おかっぱのような髪型となった。
「おお、似合っているぞえ」
甲斐姫に褒められて、奈阿姫改め天秀は照れた表情を浮かべる。
これから暮らす御用宿とは、縁切りのために東慶寺を訪れた女性が入寺前に留まる仮の宿のことだ。
この御用宿で女性の気持ちを一旦、落ち着かせて、事情などを確認する。
そして、場合によっては、出家せずとも御用宿にいる間に話し合いにより、夫婦間の問題を解決することもあった。
そこで夫から離縁状を受け取れば、縁切り成立となり、晴れて夫婦は赤の他人へと変わるのである。
東慶寺には、三軒の御用宿があり、天秀と甲斐姫が、これから厄介になるのは、その一つの柏屋だった。
その他に寺役人が詰める寺役所も東慶寺の近くに存在する。
主な仕事は、たまに訪れる乱暴な夫への対応や、寺領を持つ寺ならではの事務仕事などだった。
瓊山尼の話では、近々、若い寺役人が赴任しくるということで、天秀は注意を促されるが、今さら、徳川に逆らうつもりもない。
必要以上に警戒する必要はないように思えた。
甲斐姫とともに柏屋へ着くと、女主人のお多江という女性が天秀を出迎えてくれる。
見るからに気立てが良く、切符がよさそうな人物であった。
「天秀ちゃんかい。よく来たね、疲れただろう」
天秀は、僅かな手荷物を女中の人に預けると、宿の中へと足を踏み入れる。
その時・・・
「駆け込みだ!」
大きな声が聞こえたので外に出ると、女性が一人、髪を振り乱して走っているのが見えた。
これが、噂の駆け込みの現場だとその迫力に、度肝を抜かれる。
右も左も分からない状況だったが、これが初めて見る駆け込みの風景。
天秀は、走る女性が無事に東慶寺の門をくぐり抜けることを祈るのだった。
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