上 下
10 / 134
第1章 豊臣家の終焉 編

第9話 奈阿姫の願い

しおりを挟む
鎌倉にある松岡山東慶寺しょうこうざんとうけいじ
開基は西暦1285年、第九代執権・北条時貞ほうじょうときさだであり、開山はその母による。

時貞の母は、夫、北条時宗ほうじょうときむねが病床のおり、ともに出家し円覚寺の無学祖元むがくそげん禅師より、覚山志道かくざんしどう安名あんみょうされた。

覚山尼開山以来、東慶寺には、力なき女性を守るための寺法がある。出入三年二十四カ月の寺勤めを行うことによって、悪縁を切ることが可能となる制度。
ゆえに東慶寺は縁切り寺とも呼ばれていた。

時代が移り、後醍醐天皇ごだいごてんのうの皇女、用堂尼ようどうにが第五世住持となると東慶寺は松岡御所とも称されるようになる。

そこで東慶寺の名声は一気に高まるのだが、開山より三百年以上経過した今、寺法はその効力を失いつつあった。
時には権威ある圧力に同調せざるを得ないこともある様子。

甲斐姫より東慶寺の説明を受けた奈阿姫は、その独特の寺法に興味を持つのと同時に、その現状を心配するのだった。

「その東慶寺の寺法がなくなると困る人がいるのではありませんか?」
「そうじゃな。今のそなたほどではないにしろ、生きるのに困窮する者は増えるやもしれんなぁ」

甲斐姫の言葉に奈阿姫は顔をしかめる。
自分には、命を助けてくれようと働きかけてくれる頼もしい味方が、こんなにも大勢いるのだ。

そう考えてみると恵まれている方だと思う。
それに引き換え、世の弱い立場の人々は・・・

「私、甲斐姫さまがおっしゃる通り、東慶寺に入寺いたします」
自分に何ができるか分からないが、東慶寺の寺法は何としても存続しなければならないと感じたのである。
小さな少女の宣言を大人たちは受け止め、尊重した。

東慶寺であれば、現住持・瓊山尼けいざんにの妹、月桂院げつけいいんが家康の三女・振姫ふりひめに仕えていたこともあり、徳川とは何かと縁深い。
家康の覚えもめでたいのではないかと思われた。

これで、奈阿姫助命の方針は定まる。後は何としても家康の首を縦に振らせなければならなかった。
甲斐姫、千姫はもとより、お江と常高院も不退転の覚悟を決める。
そして、家康の江戸城、来訪により奈阿姫の沙汰を決定する日がやって来た。


奈阿姫の処遇を言い渡すのに同席したのは、将軍秀忠、本多正信、安藤直次あんどうなおつぐ、井伊直孝、酒井忠世さかいただよ土井利勝どいとしかつ錚々そうそうたる顔ぶれである。
七歳の少女、一人に対して、相当物々しい風景に映った。

上座に座る家康を前にして、奈阿姫は平伏し、声がかかるのを持っていると、大御所を呼び止める声がある。
やって来たのは、御台所みだいどころであるお江、常高院、千姫だった。

「大御所さま、こちらの奈阿姫のことで千よりお話があるそうなので、少しばかり、よろしいでしょうか?」
「お、お前。ここは女子おなごが来る場所ではないぞ」
御台所が相手では、他の重臣は軽々しく口を出せない。秀忠が慌てて立ち上がった。

「いや、よい。あそこで怖い女が睨んでおるしのう」
家康の視線の先には、広間の入り口に背中を預ける甲斐姫がいる。

床には衛兵が、数人、転がっていた。
秀忠が他の者を呼ぼうとするが、それすら家康は制する。

「孫の話を聞くだけじゃ。騒ぎたてるでない」
促されて千姫は、奈阿姫の隣で正座した。深々とお辞儀をすると、「この奈阿姫を私の養女とすること、お許しください」と願い出る。

重臣の中から、うめき声が漏れた。それを許すということは、奈阿姫の助命を許すのと同義となるからである。
「ふー」

家康は長い嘆息を漏らした。秀頼、淀君の死によって千姫の心は壊れかけていた。
ここまで回復できたのは、奈阿姫のおかげだと感謝している。
家康も奈阿姫の命を奪う気は、その時点で失せていたのだが、あともう一つ何かが欲しいのだ。

「囚われの私がお話するのは、僭越ですが、一つよろしいでしょうか?」

すると、奈阿姫が控えめながらもしっかりとした声色で、家康にお伺いを立てる。
通常、沙汰を言い渡される者は、許されるまで発言はできないものなのだが、それに照らし合わせると奈阿姫の行動は不調法。

重臣の御歴々は気色ばんだ。ところが、甲斐姫が睨みを利かせているため、表立って咎める者はいない。
家康の方も特段、気にしていない様子であったため、奈阿姫が続けて発言するのを許された。

「私は出家して、尼となります」
「それじゃ」

すぐに家康が反応する。要は豊臣の血が絶えればよかった。
それは何も命を奪うことだけではない。
出家して、御仏にその身を捧げることで、子孫は生まれなくなるのだ。

「どこか望む寺はあるか?」
「東慶寺を希望いたします」

家康の頭の中で、東慶寺の場所が浮かぶ。鎌倉であれば、江戸からも近く、監視の目は届きやすい。
また、寺の格としても申し分ない。
千姫の願いを聞き届けて、徳川家の養女が出家する寺と考えても、まったく問題はなかった。

上機嫌となった家康は、更に奈阿姫に入寺に際して、願い事がないかを尋ねる。
この言葉をいただけた今が、奈阿姫、待望の瞬間だった。
すぐに胸の内にあった願いを申し伝える。

「一つ、お聞き届けいただけますなら、東慶寺に伝わる縁切りの寺法をどのようなことがあっても、断絶なさらないようお願いいたします」
「承知した。そなたの願い、聞き届けよう」

その言葉を聞いた、女衆は一様に、
『してやったり』と、心弾ませた。

家康が承知したことで、東慶寺の寺法は徳川の世が続く限り不滅となる。
このことは、東慶寺にとって、大きな後ろ盾となるはずだ。

大盤振る舞いのように思えた本多正信は、家康の耳元で念を押す。
「よろしいのですか?」
「構わん。千のために縁切りを軽んじることはできないからのう」

家康には豊臣家を絶滅させるという目的があった。与していた者たちは、できる限り殲滅させるつもりでいる。
ただ、そう考えた時、秀頼に嫁いだ千姫も豊臣側の人間となり、滅ぼす対象となってしまうのだ。

その救済措置として、利用しようと思っていたのが縁切りの寺法である。
秀頼との縁を切って、千姫を救う。その手段に頼る場合、ここで縁切り寺法に箔をつけておくことに損はないと、家康は考えたのである。

耳のいい甲斐姫は、この家康と正信の会話が聞こえていた。

『奈阿の奴、なかなかの強運だねぇ。そもそも豊臣家で、唯一、生き残っているんだ。きっと、天運に守られているんだろうねぇ』

七歳という年齢で、人生の方向が定められた奈阿姫だったが、その前途は明るいものだと感じる。
これから、幼い少女に降りかかる運命の全てを、甲斐姫は見届けようと心に決めるのだった。
しおりを挟む
1 / 5

この作品を読んでいる人はこんな作品も読んでいます!

魔法使いと子猫の京ドーナツ~謎解き風味でめしあがれ~

キャラ文芸 / 完結 24h.ポイント:0pt お気に入り:62

世話焼き宰相と、わがまま令嬢

恋愛 / 完結 24h.ポイント:28pt お気に入り:600

矛先を折る!【完結】

歴史・時代 / 完結 24h.ポイント:42pt お気に入り:15

言いたいことは、それだけかしら?

恋愛 / 完結 24h.ポイント:60,033pt お気に入り:1,589

カモフラ婚~CEOは溺愛したくてたまらない!~

恋愛 / 連載中 24h.ポイント:21pt お気に入り:88

魔力ゼロの天才、魔法学園に通う下級貴族に転生し無双する

ファンタジー / 連載中 24h.ポイント:28pt お気に入り:1,775

異世界のオトコ、拾いました

恋愛 / 完結 24h.ポイント:7pt お気に入り:308

処理中です...