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第9章 東慶寺への寄進 編

第110話 取引成立

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朝早く、天秀尼は工事関係者を集めて、注意喚起をすることにした。
天樹院や春日局の協力を得て、やっとの思いで漕ぎつけた駿河大納言邸宅の寄進。

ここで何か問題が起きれば、ともに苦労した天樹院の顔に泥を塗ることになる。
それでは、あまりにも申しわけが立たないのだ。

「皆さん、連日のお仕事、ご苦労さまでございます。慣れない寺の中での作業、不便なこと、迷われることもあろうかと思いますが、何でもお聞きください。また、ここは尼寺です。禁止区域への立ち入りだけはしないようお願いいたします。」

後半部分は、仕事を依頼した時に、しつこいくらい念を押した話。
傾聴する職人連中からは、当然だという声が返ってきた。同意を得られたことに満足すると、天秀尼は朝礼の場を閉めて解散する。

ひとまずは、釘を刺すことができたようだ。後は、暫く梅太郎に絞って、注意深く監視していくだけである。
但し、朝から晩まで、天秀尼が工事現場に付きっ切りという訳には、さすがにいかない。

白閏尼に事情を話して、見張りを交代しようとしたのだが、別の用事があると断られてしまった。
一番、信頼を置けるのが彼女だったのだが、こちらはただの気苦労かもしれない。用事を押しのけてまで、無理に頼むことは出来なかった。

仕方なく、別の尼僧にお願いして、天秀尼は工事現場を離れる。
この頼まれた尼僧。天秀尼が次の住持に選ばれることが、既定路線にあることを十分に承知しているため、期待に応えようと目を皿にして、頑張った。

ところが真面目な分だけ、融通が利かない。昼食時に、大工の棟梁から、質問を投げかけられるも、忙しいのでと断りを入れる。
それが元で、ちょっとした口論となり、その間に梅太郎を見失ってしまうのだ。

騒がしくしている人の輪を尻目に、梅太郎は本日も横断幕近くへと移動する。左右を確認した後、その隙間に目を当てた。
しかし、二重の幕に阻まれているため、中の様子はまったく分からない。

「やっぱり、無理か・・・」

肩を落とした梅太郎が、その場から離れようとした時、「お兄さん、誰かに用でもあるのかい?」と、呼び留められた。
振り返ると、横断幕に人の影が映っている。誰かがいることだけは、間違いない。

「誰か、いるのか?」
「お互い、時間がないだろ?ちょっと、こっちに来ておくれ」

言われるがまま、梅太郎は横断幕に近づいた。できるだけ、自然に振舞うように背を向けて腰を下ろす。

「私の願いを聞いてくれるなら、お兄さんが探している相手に渡りをつけるよ」
「そんな事ができるのか?」
「何をするつもりか知らないけど、適当なことを言って、誘い出すことくらい訳ないさ」

薄い布の幕を挟んで、お互い背中越しに話していた。相手のことは、まったく分からず、本当に信用していいものか梅太郎は悩み込む。

思いのほか長考となり、女が舌打ちすると、「案外、度胸のない男だねぇ」と梅太郎を徴発した。

「分かったよ。でも、そろそろ怪しまれる。詳しい話は、もう無理だろ」
梅太郎の言うことはもっともである。女の方も、その点は理解していた。

「じゃあ、明日の昼時、同じ場所に来られるかい?」
「何とかする」

顔を合わせていないため、再会というのが適切かどうか分からないが、また話し合う約束を梅太郎はする。
ただ、顔を見ていない以上、明日、ここに来ても同じ人物なのかどうか、お互い分からないのではないかと心配になった。

せめて、名前だけでも交換すべきと梅太郎は思う。

「俺の名前は梅太郎だ」
「あら、覚えやすい。私は弥生やよいだよ」

弥生月、つまり三月は梅の季節でもある。それで、弥生と名乗った女性は、声を弾ませたのだ。

「じゃあ、お兄さんが『梅』と言ってくれれば、私は『うぐいす』と応える。それを合図にしましょうよ」

梅と鶯は、取り合わせが良いと言われる組合せである。梅太郎は、すぐに承諾した。
決めたのは、合言葉だけだが、何だが上手くいきそうな気分になってくる。

「承知した。それじゃあ、明日」
「ええ、よろしくね」

気持ちよく横断幕から離れると、梅太郎は、午後からの仕事に力が入った。
この工事に紛れ込んだ成果を、やっと掴んだのだ。

勿論、まだ、何も達成した訳ではない。だが、昨日まで、何の進展もなく手詰まりだった状況を考えれば、大きな前進と言える。
梅太郎は、東慶寺に来た目的を心の中で反芻はんすうした。

『これで、やっと姉ちゃんに会える』

梅太郎には、実の姉に会って、やらなければならないことがある。
寝たきりとなってしまった父親の想いを、必ず伝えると誓うのだ。

一方、梅太郎と約束した弥生にも心に願うものがあった。
ただ、出来るならば・・・

『いえ、無理なことは望んでは駄目。様子を見てもらうだけで十分よ』

弥生の方でも、大きな手ごたえを感じ、明日が来るのを楽しみとすることができた。
まずまずの顔で、坊舎へと戻る。

そんな二人の様子を、じっと観察する視線があった。
「うーん。どうなるのかねぇ」
梅太郎を見ていた人物は、唸り声をあげると、あごに手を当てて考え込むのだった。
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