宝生の樹

丸家れい

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第四章

忘れない

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 ***

 龍神を封印する最後の杭がある場所は、背丈以上もある岩をいくつも超えて行かなければならず、雲母たちと途中で別れ、歩いていなかければならなかった。

 武者との戦いと怪我の痛みで疲弊している青は口数が少なくなっていった。

 その上、雨に濡れた岩は滑りやすくなっている。無意識に身体を力ませているせいで余計に疲れてしまうだろう。
 杭を抜いたらすぐに手当てをしなければ、と東が青を案じていると、昏い声が湧き上がる。

『とうとう、自分の意志で人を殺したね』

 闇霧がほの暗い言葉を囁いてくる。東は聞き流していたが、闇霧は話を続けた。

『私の命令じゃない。お前は青の命と武者の命を秤にかけたのさ。どちらも尊い命には変わりないのにねえ』

 それをお前の口が言うのか、と東は心の中でひとりごちた。
 一方で、こんなにも闇霧の言葉は浅薄なものだっただろうかとも思う。

 以前までは、自分の中にある闇と闇霧の言葉が呼応し合い、心が重くなっていたのに。
 東は肩越しに振り返った。

「大丈夫か? もう少しで着くから」

 そう東が手を差し出すと、手を握って微笑んだ青の額に滲む汗が光を帯びる。

『私を蔑ろにするとはね。酷い扱いをするようになったもんだ。何様のつもりだろうねえ』

 闇霧は不機嫌な声を吐いた。
 ふと、青は眉根を顰めて言う。

「なにやら……嫌な感じがするな」

 感覚の鋭い青に東は苦笑する。

「幸子に憑いていた魔物が近くにいるからな」

 道理で、と青は得心がいったように嘆息をついた。

「まぁいい。居心地は悪いがな」

 闇霧の存在を否定することなく言った青に闇霧はさらに不機嫌になった。

『小賢しい……。お前の石があるせいで、青に近付けやしない』

 小言を言う闇霧を横目に東は会心の笑みを浮かべた。

 ほどなくして、龍神の瞳を突き刺している最後の杭へと辿り着いた。

 黒い杭を見つけた東は目を見開く。
 禍々しい波動を放っていたはずの杭は錆び付いたかのように色褪せ、力が弱まっていたのだ。杭と地面を縫い留めていた幾重にも重なる雷の鎖も消えかかり、術の力を強めていた血溜まりもなくなっている。

 どういうことだ、と理由がわからないまま呆然と東が歩を進めると、ぽちゃん、と水がたわんだ音と共に足がひんやりと冷たくなった。
 そこには脹脛の半ばまで浸かるほどの水溜まりが出来ていた。
 
 二日前から水の女神に降らせてもらった、神気を含んだ雨が溜まって場の浄化を促し、杭の力が弱まったようだ。

 これなら抜けるかもしれない。

『抜くのかい? ……まだまだお前は未熟だねえ』

 闇霧の言葉を聞き捨て、東は杭へと歩み寄った。その後を青が付いてきた。

「ここに、杭があるのか?」

 杭の前で足を止めた東は俯いた。

「この下に、龍神の瞳がある。……杭を抜いても、目は見えないままだろうが」

 沈痛に瞳を揺らした東の隣に立った青は腰を下ろして水溜まりに手を入れた。

「今から、東が抜いてくれるからな。……痛いだろうが、辛抱してくれ」

 地中に封印された龍神を労わるように青は地面に手を添えた。
 すると、ずずず……、と何かが蠢いた音が東の耳に届く。青には聞こえていないだろうが、龍神が動いた音だった。

 青の情愛ある言葉に龍神が反応したのだ。
 しかし、この足裏から伝わってくる振動に、東は顔を顰めた。

『ようやく気づいたかい? だからやめておけと言っているのさ。私は優しいからね。生き埋めになっている龍神の封印を解くということは、大地が揺れるということ。またお前のせいで大勢の人が傷つくねえ』

 嘲笑うように闇霧が昏い言葉を並べた。

 闇霧の言っていることは嘘じゃないことは東でも理解できる。

 東は瞳を細めて声の調子を落として言った。

「杭を抜いたら……島全体が揺れるかもしれない」

 神妙に言葉を紡ぐ東に青は振り仰ぐ。東は淡々と続けた。

「恐らく、美弥藤の屋敷や村人の家屋は崩れるだろう。少なからず、怪我人は出る。死人も……」

「やろう」

 東の不安が滲む語尾を青は潔く遮った。

「私には、目に見えない世界のことはわからない。わからないが、龍神の封印を解くと予波ノ島が今よりも豊かになるのだろう?」

「それは間違いない」

「それならやろう。一時は苦しいかもしれんが、きっと予波ノ島の人々は乗り越えられる。皆が笑って生きていける未来を選ぼう」

 二人で、と言葉を繰った青の清廉な気を感じながら東は瞳を閉じ、深呼吸をする。

「俺は今日のことを決して忘れない。死んでも。魂に刻んで、何度生まれ変わっても忘れない」

「私も、忘れない」

 二人の誓約の言葉が、波紋が広がっていくように、沫ノ森に響き渡った。

 そして見開いた深紅の瞳に、揺るぎない情意を宿して杭に手をかけた。

『……残念だねえ』

 と冷酷な闇霧の声が東の耳朶に忍び寄った。

『今までお前を乗っ取らずにいてあげたのに』

 闇霧の脅し文句に、東は勝気に微笑んでみせた。

「乗っ取れない、の間違いじゃないのか」

 闇霧の声が聞こえない青は瞠目したが、すぐに察して杭を握る東に手を添える。
 怯んだ闇霧に東は続けた。

「――闇霧。俺はお前のことをそう呼んでいたよ。人間に名前を付けられるようじゃ、魔物の名が廃るな」

 東が杭を握る手に力を込めて抜き上げようとしたそのとき、

『人間風情が……。見縊るでないわ』

 背に感じる、ぬるっと蛇が這うような感覚に東は息を呑む。
 闇霧の黒い手が東の背を通り抜け、心臓を柔く掴んだ。
 
 東は硬直する。
 胸に渦巻く地の底へ落ちていくような暗闇に背が冷たくなり、じわりと汗が浮く。
 
 闇霧は唇に狡猾な笑みを刷いた。

『こうやって、お前は國保の命を奪ったね。……覚えているかい?』

 東は平静を装い、闇霧の言葉を聞き流すよう意識する。
 が、心臓を掴まれている感覚に恐怖が生まれてしまう。
 東の心に墨汁が滲むように焦燥感が広がっていく。

『あぁ、國保だけじゃない。赤子も殺したねえ。思い出してごらんよ……赤子の心臓は小さかっただろう?』

 東の手のひらに蘇る、心臓の動き。
 それを握り締める感覚。
 そして、消えてなくなっていく喪失感。罪悪感。虚無感。

 次第に呼吸が浅くなっていく東に、闇霧がくつくつと愉快そうに笑う。

『ここで私がお前を殺すことは容易いが……大切な青のことを考えなくてはね』
 
 青の名前に反応した東が眉根を寄せる。
 
『お前が死んだら、青はひとりきりになるねえ。……お前のために家族と縁を切ったのだから。青はひとりで悲嘆に暮れ、寂しく孤独な人生を送るんだろうねえ』

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