宝生の樹

丸家れい

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第四章

天上の花

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 沫ノ森に辿り着いた頃には雨が止んでいた。

 初めて沫ノ森へと一歩踏み入れた青は、人生で二度目の感覚を覚えた。
 背筋が伸びるような神聖な空気。
 それは於恵湖に浮かぶ玉島の空気と似ていた。

 少し違うのは、玉島の空気は優しい雰囲気を醸し出していたが、沫ノ森は荘厳な色が濃かった。

 薄曇りから差し込む陽光が、木々の合間を縫って幽邃な森の中に日溜まりをいくつも作り出していて、神秘的な雰囲気が漂っている。
 東に付いて森の中を雲母に乗って進んでいくと、苔が生えた岩や何百年も前から島を見守っているのであろう大樹が聳え立っていた。

 空気を揺らすわずかな風に大樹が笑う。

 しん、とした静寂の中に葉っぱから滴り落ちる雨粒が森に軽やかな音を響かせる。

 森が奏でる音を心地よく聴きながら青は冴えわたる森の空気を思い切り吸った。

 一言も言葉を交わすことなく沫ノ森に入った二人の間に漂う気まずい沈黙を破ったのは東だった。

「休憩しよう」

 東が示したところには苔むす岩が聳え立っており、ごつごつした表面には腰を掛けられるほどの突起があった。青は返事をすることなく雲母から降りて腰をかけた。
 そして、突き刺さったまま放置していた矢の軸を折ろうとした。だが、青が矢を動かすたびに肉に食い込むやじりが激痛を連れてくる。

 歯を食いしばり、痛みを堪える青に東が手を伸ばす。

「俺がやるよ」

 しかし、青は東の手を振り払った。

「自分でやる。私に構わなくていい」

 青は苛立っていた。
 自分がどうしようもなく情けなくて、東の顔が見ることができない。
 
 気を緩めたら泣いてしまいそうで、瞳いっぱいに滲んだ涙を落とさないようにするだけで必死だった。

「何を意固地になっているんだ。無理にやっていると傷が深くなる」

 再び手を伸ばそうとした東の身体を青は押しやった。

「私に近寄るな」

 断固として境界線を張る青に東は眉根を寄せた。

「俺、何か悪いことした?」

 青は咎めるように低く言う。

「私との約束を違えたじゃないか。先に沫ノ森に行けといったのに」

「それは……青を守りたくて」

 東の切なる言葉に青の目の奥が熱く痺れて、ぷつんと何かが切れた。
 勢いよく立ち上がった青は叫んだ。

「どうして、おまえは、いつも、いつも……! 私は、守られてばかりじゃないか!」

 袴の帯に仕舞っている翡翠から感じる優しすぎるほどの温もりに、堰き止めていた感情が溢れた。

「私はそんなに頼りないのか! 東が苦しんでいたときだって、一言も私に言わなかった。母上のことも、國保のことも……何もかも! それは、私を信じられないからじゃないのか!」

 すると、東が沈痛に深紅の瞳を揺らして呟いた。

「なんで、そんなことを言う?」

「本当のことだろう……!」

 呂色の瞳から、ぽろぽろと涙が零れ落ちる。

 東に泣いていることを悟られないように、青は唇を噛み締めて黙り込んだ。

 東の瞳に私は映らない。

 常世と繋がれる東の瞳は特別なもの。
 東と自分では見ている世界が、生きている世界が違いすぎる。

 いつかは離れていくかもしれないと思った。

 類稀なる東の能力を予波ノ島に留めておくことはできないだろう、と。
 予波ノ島や於恵湖だけではなく、もしかしたら他の地域にもあるべき場所に戻れずに困っている神や精霊が存在しているかもしれないから。

 それらを解き放つことができるのは、常世と繋がることができ、人ならぬ能力を持ち合わせている者だけだ。

 それでも、青は共に歩んでいけたらと心密かに切望していた。
 直政の弟だからと面倒をみていたはずなのに、いつの頃からかずっと隣にいてほしいと願うようになり、恋心を募らせていった。いつも実直で、たまに生意気ではあるが、二人きりになると見せてくれる笑顔が好きだった。

 密やかな二人だけの世界が訪れる時が、待ち遠しく感じるほどに。

 だから、やけに東と親しくする幸子にさえ嫉妬した。
 東の犠牲の上で成り立っていた生活だったということも知らないで。呑気に幸せを感じて、的外れな嫉妬心に苛まれていた自分が腹立たしい。
 
 私は阿呆だ。
 東を守っているつもりが、守られていたのは私だった。

 不甲斐ない自分に打ち拉がれて俯く青に、東が口を開いた。

「じゃぁ、どうして、……白人として生まれてきた俺が、今生きてるんだよ」

 躊躇いながらも、そっと東の指先が青の頬に触れる。青は逃げるように顔を背けたが、もう片方の頬に手を添えられて動けなかった。
 
 恐る恐る東へ瞳を転がした青は息を呑んだ。

 深紅の瞳に映る自分の姿を目にして、時が止まったかのような感覚に陥った。
 瞳の奥に吸い込まれてしまうかのように、目が離せない。
 違う色の瞳なのに、まるで自分を見ているようで。

 不可思議な感覚に言葉を失っていると、深紅の瞳が色添う。
 天上の花の如く艶やかに。

 東は、青の背に腕を伸ばして抱き寄せる。

「青が、俺を守ってくれたからだろう? それ以外に答えなんかない」

 東に触れた胸の奥から泉のように湧き上がる淡い熱が全身に広がっていく。
 労わるように柔く抱き締めてくれた東の肩に青は顔を埋めた。

「おまえは、優しすぎる……」

「その言葉、そっくりそのまま返すよ」

 青は苦笑する。

「……私は、東が思っているより綺麗ではない」

 すると東が笑った。

「何言ってるんだ。俺は綺麗だから青が好きなんじゃない。青だから好きなんだ」

 東の温もりを噛み締めるように瞳を閉じた青の頬に涙が伝う。

「私も好きだったよ。……ずっと前から」

 恥じらいの色を滲ませた青の言葉に、東が腕に力を込めて深く抱き締める。
 音にならない東の言葉を拾った青も顔を綻ばせて、東の背中に手を添える。
 
 沫ノ森を渡る風が、木々を擽る。
 悠久の時を超えて巡る息吹きの音が、抱擁する二人を包み込んだ。
 
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