上 下
8 / 10

05.オオカミちゃんとオオカミくん

しおりを挟む
 「起きてよ。ラン」
 ゆらゆらと体が揺さぶられる感覚に気付き、ランはゆっくりと瞼を開けました。初めに感じたのは畳の匂い、そして目の前にはランの弟であるコウがランの事を愛おしそうに見つめています。部屋の中で燭台にともった蝋燭が弱弱しく風に揺られていました。
「ラン、おはよう。もう夜だけどね。ほら、今日は月がきれいだよ」
 障子を軽く開けてそう軽口を言うコウに、ランはしばらくぼんやりとした頭で何が起こったのかを思い出そうとしていました。しかし、その前にコウがランの手を取って言います。
「ラン、町は楽しかった?」
 その瞬間にランの意識は寝ぼけ頭からはっきりとします。父と母に一人前として認めてもらうために町に行ったこと、道中で会ったルージュやベリエ、シェーブルたちのこと、それからみんなに買ってきたお土産の事。そのことを話そうとして、ランはコウの方を向きます。
「コウ、あのね」
「いいなぁ、ランばっかり。僕も行きたかったなぁ」
 コウの言葉にランは思わず言葉を止めてしまいます。コウは病弱で町はおろか村の外にも出たことがありません。だから、今日一人で町にいったランが羨ましくて仕方がないのだと、ランはそう思っていました。
 実際は違うのですが。
「コウもきっと行けるようになるのだ。それに今日はお土産も持ってきたのだ」
 肩を落とし、元気をなくしたコウ――少なくともランにはそう見える――を励ますようにランが明るくそう言います。しかし、いくら辺りを見回してみてもお土産を入れた鞄がありません。もしかして盗まれたのかと不安に思ったその時。
「もしかして探しているのはこれ?」
 そう言ってコウは近くにあった机の上からランの鞄を持ってきました。ランはホッとして渡された鞄の中身を見ると、ちゃんと皆へのお土産が入っていました。その中から素敵な細工がされた銀のしおりを取り出します。
「コウはいつも本を読んでいるから使えるんじゃないかと思って。これ、お土産なのだ」
 そう言ってランがコウにしおりを渡すと、一瞬驚いたように目を見開いた後、まるで花が咲くように顔をほころばせました。
「ラン……うれしい! ありがとう!」
 そう言って大事そうにしおりを受け取るコウにランも嬉しくなります。しかし、その後に続いた言葉にランは困ってしまいました。
「もしかして、その中に入ってる手袋とか、髪留めとか、クッキーとかも僕の?」
「えっと……」
 あまりにも期待に満ちた目を向けてくるコウにランは気まずくなりました。けれどもここでコウに全部渡してしまっては今回ランが街に行った意味がありません。
「こ、これは、父上と母上の」
「僕のじゃないの?」
 コウがランを見つめます。その瞳は悲し気です。ランは罪悪感を覚えますが、その気持ちを振り切ってコウの言葉に頷きました。
「……そうなんだ」
 するとコウは先ほどまでの悲し気な様子から、スッと真顔になりました。怒ったのだろうか、とランが心配になった瞬間、コウの目に涙が浮かびました。
「酷い、酷いよラン」
「え、っと」
「僕は街に行けないのに。ランだけ楽しんでくるなんて」
「それは……」
「きっとランも僕を一人ぼっちにするんだ」
 そう言いながらコウは顔を覆ってスンスンと鼻を鳴らしながら泣いています。慌ててランは言いました。
「コウを一人になんてしな――」
「本当に?」
 コウがランの手首を力強く握りました。急なことに思わずランの肩が跳ねますが、コウは気にせず捲し立てます。
「ランは捨てないよね、僕の事。オオカミじゃないからって、血がつながってないからって、嫌いにならない?」
「も、勿論なのだ!」
「だったら、さ」
 コウの新月の夜のように暗い瞳がランを捉えます。黒い宝石の様な瞳には不思議そうなランの姿が反射しています。
「もう町なんて行かないでよ。必要ないでしょ」
「それは……」
 コウの言葉にランは言葉に詰まります。その態度が気に入らなかったのでしょうか、ランの手を握るコウの力が強くなります。
「僕とずっと一緒にいてくれるんだよね。町に行く必要なんてないでしょ。欲しいものがあれば交易隊に頼めばいいし」
「で、でも、も皆と一緒に村のために」
「じゃあ僕の補佐をしてよ。父さんの次は僕が村を引っ張っていくんだ。その手伝いは十分村のためになるだろう」
「そんな難しいこと出来ない……」
 ランは正直な所頭がいいとは言えません。それはラン自身も分かっています。自慢にできるのは足の速さとそれから力比べで誰にも負けたことが無いことくらいなものです。そんな自分が、利口なコウのお手伝いなんてできるわけがないとランは思いました。
「難しくないよ。ただランは僕の側にいてくれればいいんだから」
「それは、手伝いじゃないんじゃ」
「そんなことないよ。だって僕はランが居るだけでとっても助かっているんだもの」
 鈍感なランでも流石に気づきました。──コウの様子がおかしいことに。
「ランが側にいてくれるだけで僕は何でも出来るような気持ちになるんだ。体の調子も良くなるし頭もいつもよりスッと冴えわたる。でもね、逆にランがいないと僕は酷くなるんだよ。胸がざわざわするし、落ち着かない。いつもより咳の回数は増えるし、なんだかイライラするし……。ねえ僕はランが居てくれないと駄目なんだよ。今日だってランが町に行ってる間ずっと辛かった。側にいて昔みたいに手を握ってくれたらって何度思ったか……。ランが居ないと僕は死んじゃうんだよ」
「そ、そんな大げさな」
「大げさじゃない! 本当の事なんだよ。……別に四六時中一緒にいなくたっていいんだよ。ただ僕がランの事を呼んだら直ぐに来てくれれば、僕が辛い時に側にいてくれたらそれでいいんだよ。ね? 良いでしょ、ね?」
 コウの人形のように真っ白な肌が興奮しているのかうっすらと色づいています。反対にランはコウの様子に戸惑いを隠せません。ただ、ランはなんとなく気づいていました。ここでランがコウの言うとおりに町に行かないと約束すれば、きっと元の理知的で冷静な弟に戻るだろうと。
 けれども、ランにはその約束をすることはできませんでした。町に行くのが楽しかったというのもありますが、何よりベリエとの約束もありますし、ルージュやシェーブル兄妹の様子も気になるのです。
 ランは何も言えず黙ったままでいます。そんなランの否定の意を受け取ったのでしょう。コウは段々と苛ついたような、不機嫌な顔になっていきました。
「何で黙ってるの……ランも僕に嘘をつくんだ。僕の事嫌いなんだ!」
「そんなこと──」
「じゃあ早く言ってよ! 町には行かないって、ずっとずっとずっとずっと僕の側にいるって!」
 コウが声を荒げてランに迫ります。傍目から見ればコウは怒っているように見えますし、実際そうなのですが、ランには何故か彼が泣きそうになっているようにも見えました。
「言っておくけど『町に行かない』以外の答えは要らないから。僕が、村の皆に、ゲホッ、命令を出して、ランをここに閉じこめることだって、……ぅぐ」
 コウが喋っている途中で大きく咳き込みました。きっと興奮状態で長く喋っていたせいでしょう。ランは慌ててコウの背中をさすります。
 コウの顔色は悪く、月のように白い肌がますます色を失っています。脂汗がにじんでおり、見ているこちらも苦しくなってしまいそうです。この時、ランは本当にコウが死んでしまうのではないかと思いました。
 『町に行かない。ずっとコウの側にいる』そう言えば事は全て丸く収まるのです。ぜぇぜぇと息を吸うコウにランが声をかけようとしたその時でした。
 静かだった村がやけに騒がしくなっていたのです。
しおりを挟む

処理中です...