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第十七話 泣かないで……愛しい人。
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「やあ、花子さん」
そう言って水無月さんは、社用車から降りて、
恭しく俺の手を取って口づけた。
「ひぃっ!」
毎度のごとく引き攣る俺を見て、
水無月さんはクスリと笑みを漏らす。
なんか水無月さんはそんな俺の反応を見て、
楽しんでる節があるんだよな。
水無月さんは腕を怪我しているので、
今日は運転手さんに運転してもらい、
俺と水無月さんはともに後部座席に座っている。
水無月さんの手が、そっと俺の手に重ねられる。
「ご都合も聞かず、
急にお誘いしてしまって申し訳ありませんでした」
その言葉にちょっとイラっとしないでもない。
「本当は瑞樹くんと約束していたのですが、
フラれちゃいましてね」
そう言葉を発する水無月さんが、
どんよりとした負のオーラを放っている。
「ひぃっ!」
その禍々しさに、俺は小さく悲鳴を上げてしまった。
「それも二日連続で」
声色低く、そう言葉を続ける水無月さんの瞳孔が開いている。
「それは申し訳ありませんでしたわね。
ですが瑞樹君も、あなたに怪我をさせてしまった責任を感じて、
とても落ち込んでいました。
せめてお詫びに、水無月さんのお宅に泊まり込んで、
身の回りのお世話をして差し上げるのだと、言っておりましたが……」
俺の言葉に水無月さんが複雑な顔をした。
「責任……ですか」
その瞳に過るのは、痛みの……色 ……なのか?
俺は少し心配になって、水無月さんの様子を伺った。
「いいえ、伝わらないなと思って。
それが少し、もどかしくて……。
瑞樹君は責任なんて感じる必要はまったくないのですよ。
私がそうしたいと思ったから、そうしただけのことです」
俺の手に重ねる、水無月さんの掌が温かい。
その温もりにちょっと泣きそうになった。
「どうしてあなたは、そうしたいと思ったのですか?
自分の身を犠牲にしてまで……。
事実、こんな怪我まで負って」
水無月さんの腕にはめられたギブスが、痛々しい。
「伝わり……ませんか?」
俺を見つめる水無月さんの眼差しがひどく優しい。
「いいえ……」
俺はそれを直視できなくて、下を向いて小さく首を横に振る。
「嘘」
水無月さんは今度は俺の頬にそっと触れて、
上を向かせる。
「あなたはちゃんと分かっているはずだ。
だけど分からないふりをしているだけ」
言葉にできない想いが溢れて、
涙に変わる。
そんな俺の眦に、水無月さんが触れて、
涙を唇で拭う。
「泣かないで……愛しい人……」
◇◇◇
「そもそも、御社は瑞樹君を
ちょっと働かせ過ぎなのではありませんか?」
一見さんお断りの、老舗割烹料理屋のカウンターで、
水無月さんが眉間に皺を寄せている。
「昨日だって、あんなに遅くまで瑞樹君ひとりが無理をして。
しかも彼は昼休みだってまともに取れていないんですよ。
見かねて私が昼食のお弁当をさしいれましたが、
そうでなければ瑞樹君は昼抜きでぶっ通しで仕事をしていたはずです」
『花子さん』に扮する俺も、その件については、
内心水無月さんの発言に賛同した。
でもさあ、仕方がないんだよなぁ。
水無月さん率いる水無月商事みたいな大企業じゃなくて、
家族経営の吹けば飛ぶような和菓子屋なんて、
必死で無理しなくっちゃ、
まわっていきようがないんだよなぁ。
俺の瞼裏に、朝から必死で働く副社長や、
それでも資金繰りが上手くいかなくて、
般若心経を唱える社長の姿が過った。
俺は目の前に置かれた、鯛の兜煮に箸をつけた。
口の中で身がほどけ、優しい味が広がっていく。
うん、文句なしに美味い。
「水無月さんにはさあ、
守りたいものってありますか?」
そう問うと
「ええ、私は瑞樹くんを……」
水無月さんの目が据わっている。
「ありがとう」
なぜだか素直にそう言えた。
自分でも驚いている。
それは今は『花子さん』を演じているから、
一ノ瀬瑞樹という人物の気持ちを少し客観的に
見つめることができるのかもしれない。
「瑞樹君を大切に思ってくれて。
でも大丈夫です。
瑞樹君はそんなに弱くはありません。
生きて行かなきゃならないんです。
みんな。
置かれた場所で精いっぱい……」
あれ? なんか視界が妙にばやけて……???
どうしたんだろう、俺。
死ぬほど眠くて、頭がちゃんと回ってない。
こつんと、隣の水無月さんの肩口に頭をもたせかけた。
「瑞樹……あっと違った、花子さんっ!」
焦って俺の名前を言い間違えた水無月さんに微笑を誘われる。
同じ顔だからなぁ。
それも仕方がないよなぁ。
そもそも同じ人物だし。
不意に乾いた笑いが込み上げた。
俺さあ、あんたのこと騙してるんだよなぁ。
でも勘違いはしていないぜ。
あんたが好きなのは俺ではなくて……。
そして俺は胸に過る痛みをやり過ごす。
だからあんたが言ったように、
色んなことを分からないふりして、
こんな風にやり過ごしている。
だからさあ、俺は、あんたのことを
好きになるわけには、いかないんだ。
好きになる資格もない。
だけど……今は……今だけは……。
「あのさ……水無月さん……お願い、
ちょっとだけこのままで……いて」
そう呟いて、俺は水無月さんに身体を預ける。
刹那、意識が飛んだ。
◇◇◇
「何が大丈夫だ。バカ瑞樹っ!
お前めちゃくちゃ疲れてんじゃねぇか。
労災認定もんだぞ、これ」
◇◇◇
夢か現か、区別のつかない薄い微睡の中で、
あたたかな何かが、
ずっと俺の髪を愛おしそうに撫でていた。
そう言って水無月さんは、社用車から降りて、
恭しく俺の手を取って口づけた。
「ひぃっ!」
毎度のごとく引き攣る俺を見て、
水無月さんはクスリと笑みを漏らす。
なんか水無月さんはそんな俺の反応を見て、
楽しんでる節があるんだよな。
水無月さんは腕を怪我しているので、
今日は運転手さんに運転してもらい、
俺と水無月さんはともに後部座席に座っている。
水無月さんの手が、そっと俺の手に重ねられる。
「ご都合も聞かず、
急にお誘いしてしまって申し訳ありませんでした」
その言葉にちょっとイラっとしないでもない。
「本当は瑞樹くんと約束していたのですが、
フラれちゃいましてね」
そう言葉を発する水無月さんが、
どんよりとした負のオーラを放っている。
「ひぃっ!」
その禍々しさに、俺は小さく悲鳴を上げてしまった。
「それも二日連続で」
声色低く、そう言葉を続ける水無月さんの瞳孔が開いている。
「それは申し訳ありませんでしたわね。
ですが瑞樹君も、あなたに怪我をさせてしまった責任を感じて、
とても落ち込んでいました。
せめてお詫びに、水無月さんのお宅に泊まり込んで、
身の回りのお世話をして差し上げるのだと、言っておりましたが……」
俺の言葉に水無月さんが複雑な顔をした。
「責任……ですか」
その瞳に過るのは、痛みの……色 ……なのか?
俺は少し心配になって、水無月さんの様子を伺った。
「いいえ、伝わらないなと思って。
それが少し、もどかしくて……。
瑞樹君は責任なんて感じる必要はまったくないのですよ。
私がそうしたいと思ったから、そうしただけのことです」
俺の手に重ねる、水無月さんの掌が温かい。
その温もりにちょっと泣きそうになった。
「どうしてあなたは、そうしたいと思ったのですか?
自分の身を犠牲にしてまで……。
事実、こんな怪我まで負って」
水無月さんの腕にはめられたギブスが、痛々しい。
「伝わり……ませんか?」
俺を見つめる水無月さんの眼差しがひどく優しい。
「いいえ……」
俺はそれを直視できなくて、下を向いて小さく首を横に振る。
「嘘」
水無月さんは今度は俺の頬にそっと触れて、
上を向かせる。
「あなたはちゃんと分かっているはずだ。
だけど分からないふりをしているだけ」
言葉にできない想いが溢れて、
涙に変わる。
そんな俺の眦に、水無月さんが触れて、
涙を唇で拭う。
「泣かないで……愛しい人……」
◇◇◇
「そもそも、御社は瑞樹君を
ちょっと働かせ過ぎなのではありませんか?」
一見さんお断りの、老舗割烹料理屋のカウンターで、
水無月さんが眉間に皺を寄せている。
「昨日だって、あんなに遅くまで瑞樹君ひとりが無理をして。
しかも彼は昼休みだってまともに取れていないんですよ。
見かねて私が昼食のお弁当をさしいれましたが、
そうでなければ瑞樹君は昼抜きでぶっ通しで仕事をしていたはずです」
『花子さん』に扮する俺も、その件については、
内心水無月さんの発言に賛同した。
でもさあ、仕方がないんだよなぁ。
水無月さん率いる水無月商事みたいな大企業じゃなくて、
家族経営の吹けば飛ぶような和菓子屋なんて、
必死で無理しなくっちゃ、
まわっていきようがないんだよなぁ。
俺の瞼裏に、朝から必死で働く副社長や、
それでも資金繰りが上手くいかなくて、
般若心経を唱える社長の姿が過った。
俺は目の前に置かれた、鯛の兜煮に箸をつけた。
口の中で身がほどけ、優しい味が広がっていく。
うん、文句なしに美味い。
「水無月さんにはさあ、
守りたいものってありますか?」
そう問うと
「ええ、私は瑞樹くんを……」
水無月さんの目が据わっている。
「ありがとう」
なぜだか素直にそう言えた。
自分でも驚いている。
それは今は『花子さん』を演じているから、
一ノ瀬瑞樹という人物の気持ちを少し客観的に
見つめることができるのかもしれない。
「瑞樹君を大切に思ってくれて。
でも大丈夫です。
瑞樹君はそんなに弱くはありません。
生きて行かなきゃならないんです。
みんな。
置かれた場所で精いっぱい……」
あれ? なんか視界が妙にばやけて……???
どうしたんだろう、俺。
死ぬほど眠くて、頭がちゃんと回ってない。
こつんと、隣の水無月さんの肩口に頭をもたせかけた。
「瑞樹……あっと違った、花子さんっ!」
焦って俺の名前を言い間違えた水無月さんに微笑を誘われる。
同じ顔だからなぁ。
それも仕方がないよなぁ。
そもそも同じ人物だし。
不意に乾いた笑いが込み上げた。
俺さあ、あんたのこと騙してるんだよなぁ。
でも勘違いはしていないぜ。
あんたが好きなのは俺ではなくて……。
そして俺は胸に過る痛みをやり過ごす。
だからあんたが言ったように、
色んなことを分からないふりして、
こんな風にやり過ごしている。
だからさあ、俺は、あんたのことを
好きになるわけには、いかないんだ。
好きになる資格もない。
だけど……今は……今だけは……。
「あのさ……水無月さん……お願い、
ちょっとだけこのままで……いて」
そう呟いて、俺は水無月さんに身体を預ける。
刹那、意識が飛んだ。
◇◇◇
「何が大丈夫だ。バカ瑞樹っ!
お前めちゃくちゃ疲れてんじゃねぇか。
労災認定もんだぞ、これ」
◇◇◇
夢か現か、区別のつかない薄い微睡の中で、
あたたかな何かが、
ずっと俺の髪を愛おしそうに撫でていた。
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