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第十八話 茶の湯

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「起きて下さい……姫。
でないと……キスしちゃいますよ?」

耳元に囁かれるとち狂った睦言に、
俺はぱっちりと目を覚ました。


寝起きの視界に、
金髪の超絶美形男が飛び込んでくる。

「うわっ!」

俺はびっくりして、ちょっと叫んでしまった。

「ここは……?」

見回すとここは……個室……なのだろうか?

床の間のある畳の部屋に、
体裁よく調度品なんかが飾られている。

そして俺は自分が置かれている状況に気付く。

って、思いっきり座椅子に座る水無月さんに
膝枕をしてもらっている状態やないかーい。

「ごっごめんなさいっ!」

俺は飛び起きた。

「謝らなくても大丈夫。
疲れていたのでしょう? 
ここは一緒にお昼ご飯を食べた料亭ですよ。
個室をお借りしてあなたを運びました」

水無月さんが心配そうに眉根を寄せた。

「あっと……私は一体どれくらい眠っていたのでしょうか?」

頭の中で今日のスケジュールがグルグルしている。

「大丈夫ですよ、ほんの十五分程度ですから」

水無月さんの言葉に俺はほっと胸を撫でおろした。

「申し訳ありません。すぐに会社に戻らなくては」

そう言って立ち上がろうとした俺の手を、
水無月さんがやんわりと握る。

「まずは落ち着きなさい。ちゃんと車で送りますから。
それにあなたのさっきの状態は眠っていたというより、
疲れが高じて気絶したという状態に近いのですからね。
自重してください」

水無月さんに少し厳しい口調でそう言われてしまった。

◇◇◇

会社に戻って着替えを済ませた俺は、
机の引き出しから栄養ドリンクを取り出して、

ぐっと飲み干した。

零細弱小企業を背負うこの俺は、
こんなことでは、へこたれてはいられないのだ。

「あのね、一ノ瀬君、葵旅館の女将から連絡があって、
お客様のおもてなしに、うちの和菓子を使いたいから、
いくつかおすすめの和菓子を届けて欲しいそうよ」

副社長の言葉に俺は小さく拳を握って、
ガッツポーズを作る。

「よしっゃ!」

葵旅館というのは、地元じゃ有名な老舗旅館なのである。

これは大口の契約が取れそうだ。

「すぐに伺います」

俺は上着に袖を通して、事務所を出た。

社用車を運転して、葵旅館に着くと、
駐車場で着物姿の女の子が親し気に手を振って迎えてくれた。

「瑞樹お兄ちゃん、お久しぶり」

俺が車から降りると、
嬉し気にぴょんと俺に抱き着いてきた。

彼女は葵旅館の社長の娘の皐月ふたばちゃんだ。

「久しぶり、ふたばちゃん。大きくなったね」

そう言って俺はふたばちゃんの頭を撫でてあげた。

「もう、いつまでたっても子供扱いしてっ!
ふたばはもう16歳なんだからねっ!」

そう言ってふたばちゃんは、ぷぅっと拗ねたように口を膨らませた。

「ふたば、今すぐ瑞樹さんから離れろ!」

少し低い声色で、剣呑な目つきをしているのが、
ふたばちゃんの兄のかずは君だ。

彼も涼やかな着物姿だ。

「あれ? 今日ってお茶会だったの?」

そう問うと、

「はい、今日は家元を招いての春のお茶会がありまして」

かずは君が無機質な声色で答えた。

「そうなんだ。家元がいらっしゃってるんだ」

俺も実は一条寺の家に引取られてから、
茶の湯を習わされていた。
表千家という流儀で、免状も持っている。

ふたばちゃんやかずは君とは、
同門で同じ家元について茶道を学んだ仲だ。

っていうか、幼かったふたばちゃんやかずは君に、
兄弟子としてお茶を教えたのが、実は俺だったりする。

ふたりとも、可愛かったなぁ。

俺は当時を思い出して、ちょっとほっこりする。

「それよりも瑞樹さん、不公平です」

かずは君がじっと俺を見つめている。

「えっ? 何が?」

俺、何かした???
ちょっと焦って、俺は目を瞬かせた。

「ふたばの頭だけ……撫でました」

かずは君はそう言って薄っすら赤くなって、視線を伏せた。

「ごっ……ごめん。もちろんかずは君にも、久しぶりに会えて嬉しいよ」

俺はあわてて、かずは君の頭を撫でた。

「これ、あんたたちっ! いい加減にしなはれ。
瑞樹さんは今日はお仕事のお話でおいでになったんよ」

葵旅館の女将の一蹴に、二人は口を噤んだ。

「瑞樹さんっ! あの……仕事のお話が終わったら、
稽古をつけてもらえませんか?」

かずは君の申し出に、俺は一瞬言葉につまった。

「いや、家元がいらっしゃっているのでしたら、
今日はご挨拶だけで失礼しようかと。
それに今日俺、着物持ってないし」

やんわりと断ろうとしたら

「着物は俺のを使ってください。
お願いです、瑞樹さん。
瑞樹さんのお点前をもう一度見たいんです。
そうでなくても、最近瑞樹さんお仕事が忙しくて、
あまり会えないのに」

俺を見つめるかずは君の瞳が不安定に揺れている。

◇◇◇

瑞樹さんが母と商談をしている間に、
僕、皐月はずはは、
瑞樹さんが着る着物を、水屋に続く控えの間に準備した。

着物に微かに焚き染めた五月香が、鼻孔をくすぐって、
僕は目を閉じた。

初めて僕が瑞樹さんに会ったのは、3歳くらいだったと思う。
とても綺麗なお兄さんが、優しく接してくれて、
すごく嬉しかったんだ。

瑞樹さんは凄く才能のある人で、
家元がとびきり目をかけていた人だった。

その所作の美しさに目を奪われ、すぐに釘付けになった。

憧れはやがて、淡い恋心に変わり……。

「はぁ~」

僕は小さくため息を吐いた。

報われない恋だということは、ちゃんと分かっている。

だけど、きつい。

僕は下を向く。

「かずは君、お待たせ」

その声に、僕の心臓が跳ねた。

「では、宗匠の着替えをお手伝いさせていただきます」

僕は瑞樹さんの前に手をついて、
一礼した。

「やっやめてくれよ、かずは君。
そっそんな、宗匠だなんて」

水無月さんは仄かに顔を赤らめて、謙遜している、

「いえ、宗匠ですよ。瑞樹さんは
弟子では最高位の『乱飾』をお取りになったのですから」

僕の言葉に瑞樹さんは、どこかきまりが悪そうな顔をした。

「それって俺が高校生の時の話でしょ?
実は今はあまり稽古ができてなくて」

この人の謙遜はあまり当てにならない。

「上着、失礼いたしますね」

僕は背後に回り、水無月さんの上着を脱がせた。

相変わらず華奢な瑞樹さんの身体のラインが、
ワイシャツ越しに透けて見える。

僕は暫しその情景に見入ってしまった。

「かずは……くん?」

瑞樹さんがきょとんとした表情で、
僕の顔色を窺った。

「あっ、いえ、ではネクタイを失礼しますね」

そう言って僕が瑞樹さんの襟もとに触れようとしたときだ。

「かずは、こちらに来なさい。
家元がお呼びですよ」

襖の向こうから、母が僕を呼んだ。

「ですが、今は宗匠のお着替えの最中でして」

僕の言葉に、瑞樹さんが小さく首を横に振った。

「俺のことはいいから、行って」

僕は歯噛みしたい思いに駆られたが、
そんな僕の背中を、瑞樹さんがポンと小さく押した。

◇◇◇

かずは君が部屋を出て行った後で、
今度は水屋に続く障子戸がすっと開いた。

「ここで何をしている? 瑞樹」

それはあまりにも無機質な声色だった。

「水無月さん……なんであんた、こんなところに……?」

俺は目を瞬かせた。






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