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開発
九九式艦上偵察機
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年が明けた1939年2月1日。
この日、横須賀の統合航空本部の工廠において九八式多攻の複座型とも言える九九式艦上偵察機の一号機が製造された。
本機は九八式多攻を複座にする代わりに、翼内に装備されていた20㎜機銃を2挺に減らして後部に12.7㎜旋回機銃を1挺装備。
その他は九八式多攻と同様であり、速度は若干早くなっていた。
九九式艦上偵察機
最高速度:時速584㎞
武装:20㎜機銃2挺(翼内)、12.7㎜旋回機銃1挺
翼面荷重:165㎏/㎡
プロペラ:直径3.42mが3枚
搭乗数:2人
搭載能力:250㎏爆弾1発(急降下)
航続距離:時速400㎞で800海里(増槽装備時1000海里)
全長:10.16m
全幅:12.88m(折り畳み時8.12m)
九九式艦上偵察機の主な任務は九八式艦上多用途攻撃機の誘導と偵察である。
誘導任務の場合、九九式艦上偵察機は直接の戦闘には関与せず、上空を旋回し戦場を俯瞰してその情報を各隊長機に伝える。
だが、偵察任務になると敵艦隊を発見した場合、状況が許すなら250㎏爆弾を抱いての急降下爆撃が敢行されることになっていた。
九九式艦偵の制式採用により、母艦でも九八式多攻の運用が可能となった。
正式名称で九八式艦上多用途攻撃機であるが、略称は陸軍と同じ九八式多攻である。
単に艦上の要素を入れてしまうと略称が長ったらしくなってしまうためだった。
ともかく、母艦でも運用されることになったため生産されていた九八式多攻の生産数の半分が海軍の手に渡ることになった。
1939年の2月に入ると、九八式多攻の月産機数はもはや278機に達しており東条の思い描いたようにまさに”総力戦航空機”の様相を呈していた。
海軍はこのうちの139機が取り分なわけだが、この時点での母艦航空隊の戦力は300機少々である。
根元から折り畳めるようになった九八式多攻を艦載するため、数はおおよそ30機から40機ほど増加することになるだろうが、おおよそ3か月で充足することになる。
基地への配備に回される機体もあるだろうが、少し過剰である。
だが、そこは海軍。
しっかりと考えていた。
(単発機を陸軍に譲る代わりに双発機を多めに貰ってやろう…)
連合艦隊司令長官の山本は腹の中でそう決めていたのである。
島嶼部での戦いではやはり航続距離の長い双発機が多用される。
その一丁目一番地が九六式陸攻であったわけだが、その次世代機としてこれまた総力戦航空機の名を冠する機体が開発されつつあった。
海軍はその機体を多めに貰おうというのであった。
この日、横須賀の統合航空本部の工廠において九八式多攻の複座型とも言える九九式艦上偵察機の一号機が製造された。
本機は九八式多攻を複座にする代わりに、翼内に装備されていた20㎜機銃を2挺に減らして後部に12.7㎜旋回機銃を1挺装備。
その他は九八式多攻と同様であり、速度は若干早くなっていた。
九九式艦上偵察機
最高速度:時速584㎞
武装:20㎜機銃2挺(翼内)、12.7㎜旋回機銃1挺
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だが、偵察任務になると敵艦隊を発見した場合、状況が許すなら250㎏爆弾を抱いての急降下爆撃が敢行されることになっていた。
九九式艦偵の制式採用により、母艦でも九八式多攻の運用が可能となった。
正式名称で九八式艦上多用途攻撃機であるが、略称は陸軍と同じ九八式多攻である。
単に艦上の要素を入れてしまうと略称が長ったらしくなってしまうためだった。
ともかく、母艦でも運用されることになったため生産されていた九八式多攻の生産数の半分が海軍の手に渡ることになった。
1939年の2月に入ると、九八式多攻の月産機数はもはや278機に達しており東条の思い描いたようにまさに”総力戦航空機”の様相を呈していた。
海軍はこのうちの139機が取り分なわけだが、この時点での母艦航空隊の戦力は300機少々である。
根元から折り畳めるようになった九八式多攻を艦載するため、数はおおよそ30機から40機ほど増加することになるだろうが、おおよそ3か月で充足することになる。
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しっかりと考えていた。
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海軍はその機体を多めに貰おうというのであった。
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