神さまの寵愛も楽じゃない

藤雪花(ふじゆきはな)

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第4夜 夢魔

32、記憶①

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「……らぎ、……美奈!」

 背中と頭に腕が回され、頬がざらつく着物の胸に押しつけられ抱きしめられていた。
 心臓が口から飛び出しそうに激しく打っている。

「落ち着くんだ。美奈の気持ちはわかったから」
「もうここに居るのは嫌」
「まだだ。君の封印は、丈夫な鋼のように見えても君が気を抜くとすぐに朽ちていく、危ういものだよ」
 夢の中の神坂は厳しい。
「その時は、また鎖をかけるから」
「ずっと、そうするつもりなのかい?」

 頬が両手に挟みこまれ、顔を上に向けられた。
 わたしを心配しながらも、強い意志がやどる目がわたしの心の内側をのぞき込もうとする。

「母の死が自分のせいだと思う罪悪感が強い。本当に交通事故で君のお母さんは亡くなったのか?この家に住んでいたのではないか?台所で、何があったのか?これらを思い出せない限り、君はずっと雨を恐れ、影さえも怖がりつづけることになるだろう。僕が思うに、君の悪夢の正体は過去に体験したことだよ。鎖の封印の向こうに君の、耐え難い記憶が閉じ込められている。悪夢を解決したいのだろう?そうであるなら、悪夢を直視するしかない。僕が一緒にいてあげるから。どんなことからも、僕のできる範囲で、できるだけ、守ってあげるから。僕に相談してくれたのだから、美奈の力になりたい」

 誠実でひたむきな気持ちが伝わってくる。
 僕のできる範囲で、できるだけ、で笑ってしまった。
 夢のなかでは神坂さんはわたしのことを美奈と呼ぶ。
 だからわたしも。

「晴海さんは、夢でも、なんだかちょっと残念です」
 
 神坂の腕の中でもぞもぞと位置を変えた。
 瞑目し、呼吸を整え心を落ちつかせる。

 封じ込めた記憶に対峙すると決意しても、絶対に向き合いたくないという気持ちがなくなるわけではない。

 今までは一人で逃げ回ることしかできなかったけれど、自分で作り出した幻影であるとはいえ神坂晴海がいる。幼い自分に耐えられなかった過去に向き合うことができるような気がする。こんな都合の良い悪夢の続きはもうないだろう。
 耳元で神坂がささやく。

「……美奈、決意したんだね。もう封印がほどけかけているよ。何が見える?」

 手を伸ばした。
 もう少し先にあるはずの扉が手に触れた。
 鉄鎖はもうない。

 目を開く。
 震える手で扉を押し開く。
 歩み入るのは一人だ。
 靴下が、ぺちょり、と水たまりを踏んだ。
 なんだかわからなくてちいさな足を上げて、場所をずらしても、くちょり、と水を踏む。
 悪夢で繰り返される音はこの音だった。

 床一面に赤ワインをこぼしたのか、ぶちまけられていた。
 食卓にしているテーブルにワインの瓶はない。気を付けないと割れたガラスを踏んでしまうかもしれないから、下を見ながら慎重に足を運ぼうとする。
 そして、床に転がったクッションのようなものに突き立てられた包丁に気が付いた。だけどそれはクッションではないことをなんとなく察している。
 なぜならそれは母が普段着によく着るボーダー柄のシャツで、赤いワインが、ごぼりと泡を吹いて噴き出し、床に流れていっていた。

 状況を理解することを脳が完全に拒絶する。
 
 いきなり身体が浮かびあがり、胸が圧迫されて小さな悲鳴がはき出された。
 背後から脇をつかまれたのだった。そのままくるりと食卓の上に机に座らされた。わたしを追いかけていた見知らぬ男が、先回りして台所に潜んでいたのだ。
 男の顔が近づく。息は酒臭く、どぶのような腐った匂いがした。

 灰色のジャケットをきて臙脂のネクタイで普通のサラリーマンを装うが、ぎらぎらと飢えたような底光りする目は、闇の中からわたしをじっとりとうかがう目と同種のものだと思った。
「ああ、みなちゃん、ようやくふたりきりになれたね。町で見かけたときからずっと気になって、気になって、気が狂いそうになるほど好きだということを伝えたかったんだよ。本当に、なんてかわいいんだ。この頬のアザもチャーミングで、世界一の美女になりそこねた欠点こそが、さらに俺の欲望をかきたてるよ……」

 肉食獣が小動物をいたぶるかのように、男はべろりと舌なめずりをしながらぶつぶつと独り言をいう。

 お母さんは床で横倒しに倒れて動かない。
 きっともう息絶えている。
 男のつぎの獲物はわたしだった。
 むしろ、わたしが男に目をつけられたために、わたしのせいで母は殺されたのか。
 

「美奈、これだと駄目だ!追体験させるつもりはなかった。君はまた子供に戻っている!のめり込みすぎだ!テレビ画面に写る映像のように、外から記憶を見るんだ!僕の腕を感じろ。気持ちをここに残せ。この状況は想定外だ。そうじゃないと耐えきれない……、くそッ、聞こえないのか、美奈っ、……」

 遠くで必死に誰かが叫び悪態をついていた。
 八つのわたしに彼が誰か知りようがなかった。

 わたしは、母の次に屠られるのをまつだけの生贄の羊だ。
 安全だと思っていた家の中にまで侵略されて、生き延びるすべをもたないわたしに何ができるというのか。

 日焼けていびつにふしばった手がのろりと動き、わたしの頬に触れようとする。
 全身におぞけがふるった。

 目の前の男の他にもまだ、台所の天井に、冷蔵庫と壁の隙間に、食器棚の皿の間から、幾百のうごめく気配を感じた。
 それらはにたにたと笑い、ざわめいていた。
 それらは、屠られ、食われることになるかつてわたしだったものの、残骸のおこぼれをしゃぶりつくすつもりなのだ。
 
 わたしは目を固く閉じ身体を固くし、死に至るであろう苦痛の瞬間を待ち構えた。


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