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第4夜 夢魔
33、記憶②
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それからどれだけ時間が過ぎたのだろう。
わたしはずっと、テーブルの上にいた。
頬や髪に触れる空気が乱れるのを感じた。
ぐるぐると歓喜にうなりながら、がつがつと何かを喰らう獣の気配がある。
「……白犬、喰ってもいいとはいっていないが」
冷笑を抑えた冷ややかな声。
「襲ってもいいけれども、捕らえた獲物を喰ってはいけないなんてそんな殺生なことをおっしゃいますか、ご主人さまは」
すっと通る美声は冷ややかだ。
一方のだみ声は言葉遣いは丁寧だけど、人を小馬鹿にしたような調子がある。
状況が理解できず、わたしはおそるおそる目を開く。
なぜか、台所も男も家具も母も消えていた。いつの間にか真夜中である。
闇夜を透かす白い霧があたりを覆いはじめていた。母の血は海となって、あたり一面に薄く広く、ひろがっている。わたしが置かれた食卓机だけが難破船のように取り残されていた。
燃え上がる白炎のような毛並みをした巨大な白犬が、灰色のかたまりを三口で飲み込んだ。
血の滴る口の端から、先ほどの男の趣味の悪いネクタイがよだれのように垂れさがっていた。
「……娘がお前を見て恐怖しているではないか。下がれ」
文句を言いたげなそぶりを見せるが白犬は下がり、声と同じ、冷ややかな目をした着物の男が現れた。血の海の上をすべるようになめるように歩く。ぴちゃりともいわない。白犬も足は汚れていない。この海もこの霧の世界も幻なのか。
端麗な男だった。
切れ長の目は漆黒の闇が凝縮しているかのようだ。
顔の造作は完璧で、このように整った顔の大人を見たことがない。
わたしは助かったのか。
彼と、彼をご主人さまと呼ぶ白犬が助けに来てくれたのか。
この場所がどこで母がどうなったかの混乱から精神を保つことができたのは、一度目にすれば視線をはずせなくなる男の存在があるから。
男はわたしの目の前で歩みをとめた。
さきほど闇のように見えた目は、近くで見ると銀色の鱗が輝いているようにも見えた。
彼は、人間ではないと直感が告げる。
たった80年やそこらで命を燃やし尽くす人間を、超えた存在だ。
もっともわたしはそんなに生きれそうにないけれど。
なぜならまだ、息をひそめながらもあちこちからわたしをねぶるように見つめるあまたの薄気味わるい視線を感じているのだから。
男はついと指を伸ばして頬にふれた。
そっと触れられただけなのに、肌にはぴりぴりと刺激が走る。
「……あれの痕跡は、このあざだけか?玉を損なう傷が、かえって不埒な男の欲望を誘うとはな。それに加えて、下等なあやかしどもも娘の周囲をうろついている」
「ご主人さまの印が、闇夜に浮かぶ澪標のように輝いて見えるんですよ。娘を喰らえば、たったひとくちで不老不死の神気を味わえ、さらに肉体を持つことができそうな気がするのですよ。もしくは、下級から上位に一気に登れるかもしれないと、劣情をかきたてられるのでしょう」
白犬は細めた眼で、わたしの肉を味わうかのようにべろりと口の周りをなめた。ネクタイがずるりと引き込まれた。
「……あれが解けかけているのか。幾千も輪廻を繰り返す度に魂が磨かれたことは確かだな。あの時の娘よりも匂い立つような美の片鱗がうかがえるか?面倒だが、あれの名残が目印になるというのなら、取ってやろうか?たとえ一つを取り去っても、その身の内には発現していない痕跡もあるようだからな。それが解けるのは、今生か、その先か、まだまだ先か……」
この男が連ねる言葉は水銀のよう。
つるりとなめらかなのに、猛毒を含んでいる。
そして、わたしの理解を越えていた。
わたしの答えを待たず、さっと指先を頬になぞらせると頬にナイフでそがれたような痛みが走った。
男の指先は小さな何かをつまんでいた。
わたしはずっと、テーブルの上にいた。
頬や髪に触れる空気が乱れるのを感じた。
ぐるぐると歓喜にうなりながら、がつがつと何かを喰らう獣の気配がある。
「……白犬、喰ってもいいとはいっていないが」
冷笑を抑えた冷ややかな声。
「襲ってもいいけれども、捕らえた獲物を喰ってはいけないなんてそんな殺生なことをおっしゃいますか、ご主人さまは」
すっと通る美声は冷ややかだ。
一方のだみ声は言葉遣いは丁寧だけど、人を小馬鹿にしたような調子がある。
状況が理解できず、わたしはおそるおそる目を開く。
なぜか、台所も男も家具も母も消えていた。いつの間にか真夜中である。
闇夜を透かす白い霧があたりを覆いはじめていた。母の血は海となって、あたり一面に薄く広く、ひろがっている。わたしが置かれた食卓机だけが難破船のように取り残されていた。
燃え上がる白炎のような毛並みをした巨大な白犬が、灰色のかたまりを三口で飲み込んだ。
血の滴る口の端から、先ほどの男の趣味の悪いネクタイがよだれのように垂れさがっていた。
「……娘がお前を見て恐怖しているではないか。下がれ」
文句を言いたげなそぶりを見せるが白犬は下がり、声と同じ、冷ややかな目をした着物の男が現れた。血の海の上をすべるようになめるように歩く。ぴちゃりともいわない。白犬も足は汚れていない。この海もこの霧の世界も幻なのか。
端麗な男だった。
切れ長の目は漆黒の闇が凝縮しているかのようだ。
顔の造作は完璧で、このように整った顔の大人を見たことがない。
わたしは助かったのか。
彼と、彼をご主人さまと呼ぶ白犬が助けに来てくれたのか。
この場所がどこで母がどうなったかの混乱から精神を保つことができたのは、一度目にすれば視線をはずせなくなる男の存在があるから。
男はわたしの目の前で歩みをとめた。
さきほど闇のように見えた目は、近くで見ると銀色の鱗が輝いているようにも見えた。
彼は、人間ではないと直感が告げる。
たった80年やそこらで命を燃やし尽くす人間を、超えた存在だ。
もっともわたしはそんなに生きれそうにないけれど。
なぜならまだ、息をひそめながらもあちこちからわたしをねぶるように見つめるあまたの薄気味わるい視線を感じているのだから。
男はついと指を伸ばして頬にふれた。
そっと触れられただけなのに、肌にはぴりぴりと刺激が走る。
「……あれの痕跡は、このあざだけか?玉を損なう傷が、かえって不埒な男の欲望を誘うとはな。それに加えて、下等なあやかしどもも娘の周囲をうろついている」
「ご主人さまの印が、闇夜に浮かぶ澪標のように輝いて見えるんですよ。娘を喰らえば、たったひとくちで不老不死の神気を味わえ、さらに肉体を持つことができそうな気がするのですよ。もしくは、下級から上位に一気に登れるかもしれないと、劣情をかきたてられるのでしょう」
白犬は細めた眼で、わたしの肉を味わうかのようにべろりと口の周りをなめた。ネクタイがずるりと引き込まれた。
「……あれが解けかけているのか。幾千も輪廻を繰り返す度に魂が磨かれたことは確かだな。あの時の娘よりも匂い立つような美の片鱗がうかがえるか?面倒だが、あれの名残が目印になるというのなら、取ってやろうか?たとえ一つを取り去っても、その身の内には発現していない痕跡もあるようだからな。それが解けるのは、今生か、その先か、まだまだ先か……」
この男が連ねる言葉は水銀のよう。
つるりとなめらかなのに、猛毒を含んでいる。
そして、わたしの理解を越えていた。
わたしの答えを待たず、さっと指先を頬になぞらせると頬にナイフでそがれたような痛みが走った。
男の指先は小さな何かをつまんでいた。
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