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第四章 帝国の皇子

第29話 差し迫ったこと

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 ブランケットが散乱する広間は、食事の後でも変わりがなかった。

「個人の荷物もあるけど、ここは片付けた方がいいわよね?」

 サラがいうと、それを合図に友人たちの数人が手近なものからたたみはじめた。

「ジュリはしないの?」
「避難生活がどれぐらい続くかで、つい立てやカーテンなどプライバシー確保の問題や、湿度がたまり冷気も伝わる床ではなく段ボールなどのベッドが必要になるかもしれない」
「段ボールって?丸いのにベッドになるってどういうこと?どれぐらい避難生活になるかは魔術師と男たちが戻ってきたらわかるんじゃない?」
 段ボールはここの世界にはない。
「そういえばシャディーンの姿が見当たらないような」 
 彼の姿が見えないことはずっと気になっていたのだ。
「ソラ・シャディーンは魔術師たちを率いて朝一番に港に視察に行ったわよ。毎年嵐は港町を迂回していくんだけど、今回は直撃しちゃったでしょ。王国を守る結界が機能していない、年若の魔術師がジュリア姫の不調にかかりきりだからおろそかになったのではないかと噂されているのよ」
「誰かが細工したんじゃないかとも噂されているんじゃないの」
 彼の本来の仕事ぶりを知らないが、つい、シャディーンをかばってしまう。
「細工ですって?台風を直撃させて、どうするっていうのよ」
「……混乱を引き起こすため?」
「混乱!」
「王城に多くの人たちが避難してきて、実際に昨夜から日常生活が混乱しているから」
 
 サラは眉を寄せて首をめぐらせた。

「確かにね。学校もいけないし。ここには、別室を提供されるわけじゃない程度の、グリーのような、たまたま停泊していただけの他国人も混ざっているようだし、この混乱に乗じてアストリア王の首をとるってこともあるかもね」

 すぐ横のグリーがくすりと笑う。
 グリーこそ、混乱に乗じてジュリアの様子を確認したのだ。
 グリーがその気になっていたならば、王の首も取れそうだった。

「貿易港以外にたいした特産もない中継地のアストリアに攻め入って、現王権を転覆させても侵略者に益はないよ」
「それもそうよね」

 サラは納得している。
 自国を大したことがないといわれてそれでいいんだろうか。

「そんなことはないと思う」
「そんなことないって、どういうところがこの辺境の島国に価値があると思うのですか?」
 
 辺境の島国。
 まるで日本と同じような響きだと思う。
 アストリア国が実際はどれぐらいの大きさがあるのかわからないけれど、大小多くの島に分かれた日本よりかはずっと小さい、四国ぐらいの大きさのように思えた。
 王城の酒蔵にあった、各地から収められた様々な酒を思う。

「ここは水源豊かな土地。城の背後には緑深い森があり、港町の外側には実り豊かな田畑が広がる。きっと森と海の豊穣な恵みを享受し、人々はこの土地に根差した実直で堅実な生活を、父が母が、そのまた父母が送ってきたように送る。そこは変わらないことが唯一大事である世界……」

 閉じられた田舎の生活。
 幼稚園で一緒になった友達は町の学校を出ていかない限りずっと一緒。
 わたしの父母は、水源豊かな土地で、その父母が続けてきたように連綿と酒蔵を守り継いでいた。
 その酒蔵は、三つ下の弟の龍一が継ぐ。

「ジュリはどこの国の出身だったかな?アストリアをよく知っているようだね」
「ここはわたしが育った町と似ている」

 弟が生まれ、両親の関心の中心は弟になった。
 わたしはあぶれてしまった。
 居場所を失い、都会に逃げようとした。
 学校でも、幼なじみの美奈の心を貴文に奪われたくなくて、代わりに貴文を奪った。
 結局、貴文は美奈を選び、わたしは友人関係でも居場所を失ってしまった。

「で、ぐるりとみたけど、どこを手伝うか決めましょうよ」
 サラが言う。
「まだ見ていないところがある」

 そこにはまだ足を向けていない。
 どうしても避けてしまう方向である。
 その方向、庭園の木陰に人影が見えた。
 上半身裸で声を合わせながら土を掘っている。
 堀り上げられた土は背丈ほどもあり、それをまた別のところへ運んでいくものもいる。
 その中に、汗を光らせるハリーの姿もあった。

 何をいわんとするか察した男子たちは顔色を変え、勇敢さの欠片もなく怖気だす。

「まさかそこをやるっていうんじゃないだろうな。俺は、勘弁してくれ」

 サラたちも気が付いた。
 そわそわして、後ずさりする子もいる。
 察しなかったのはグリーである。
 首をかしげて、穴を掘る男たちを見る。

「ジュリ、何を手伝おうというのですか?皆さんが二の足を踏むようなことなんですか?」
「生きていくうえで食に並んで絶対に必要なことよ。避難者は500人もいる。今は女性と子供が残っているぐらいだけれど、昨晩は王城外に簡易なものをつくって、みんなはそれで済ませたのでしょう?」

「済ませた?何をですか?」
 ねっとりとサラはグリーを見た。
「あんた、外国人商人の息子は特別扱いされていたのよね」
「特別扱い?」

 そういうわたしも、王城外のソレを利用してはいなかったが、いつなんどきその衝動がきてもおかしくない。本当は、いつものところを使いたいし、必要ならサラたちにもわたしのソレを使ってもらってもいいと思うが、避難者全員が使えるわけではない。

 それは、階段から降りはじめてすぐに嗅ぎ取っていた匂い。
 心から、これ以上近づきたくない。
 無理やり足を運ぶ。
 一足ごとに、臭さの厚みが増していく。
 つんと鼻の奥を突き上げ、涙が出る。
 でも絶対に必要なものだから、自分のために、みんなのためにそれを整えるべきだと思うのだ。
 
 グリーの顔から優し気な仮面が剥がれ落ちた。
 ロスフェルス帝国の皇子が絶対にしたことがないと確信する。
 わたしだって、避難所生活を送ったことがないから、実際の現状は噂でしか知らないのだけれど。

「わたしはアイリス王妃を見返してやりたい。この避難所で一番差し迫っていることをする。500人が使うトイレの掃除をする。誰かがしているかもしれないけれど、きっと掃除が足りていないから」
「あ、ははは。ジュリ、本気か。クソッ」
 
 グリーが引きつった笑い声をあげる。
 悪態は、しゃれなのか。
 
 わたしたちは顔にぐるぐるとタオルを巻き、隣にトイレ用のあらたな穴を掘るハリーたちの穴掘り歌に合わせて、やけくその歌を唄う。

 見るも無残な状態だったトイレを、ロスフェルスの第三皇子と共にきれいにしたのである。

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