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第五章 価値あるもの
第38話 酒造り ⑤
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酒造りは二段階目に無事進めることができた。
これから重要なのは糖をアルコールに変える酵母であるが、わたしはどんな果物も使うつもりはない。
自然に任せるだけである。
ジュリアやその母マリーシャが酒造りをしていたこの酒蔵の梁にも酒樽にも、そして酒蔵に出入りするわたしの体にも、固有の酵母が住み着いている。酒蔵に出入りするのはほんのごく限られた者だけで、体をまずは清めてからというのは、この酒蔵固有の酵母が乱されないようにという経験から導き出されものなのだ。
わたしが加わることで、ジュリアの酒蔵にも酵母に変化が起きているはず。
あとは、毎日発酵の度合いを確認し、時折かきまぜるだけである。
※
いつの間にか寝入ってしまっていた。
やわらかなベッドの寝心地は、綿菓子に抱き留められているかのようだ。
ここはわたしのベッドではない。遮光カーテンではなくて、月明かりが透ける絹の紗幕の、淡い世界が繭のように淡い霧のように思えるからだ。
ベッドがきしむ。
その物音で目が覚めたのだった。
だけどわたしの隣に眠るお姫さまがベッドをきしませるほど、自分で体を起こしたり、寝返りをうったりすることはなかった。
ベッドに人影がかかる。
何度か瞬きをして薄闇に目を慣らして、人影だと思ったものがただの観葉植物の影にすぎないと見極めようとした。
だが、その影の主は紗幕の外側ではなくて内側、それもあおむけになって静かに寝息をたてるジュリアのすぐそばのベッドに腰掛け、身を乗り出してジュリアの様子をうかがっている。
不審者だと思い、とっさに体を起こしてにじり下がろうとした。
悲鳴が喉につく。
声を上げる前に、大きな手がわたしの口をふさいだ。
「待て、わたしだ。不審者じゃないよ」
その声と薄闇の中のわずかな光を青く照り返す髪で、ようやく誰だかわかった。
ジュリアは襲われた結果、目が覚めないのだ。
まだその襲撃犯は捕まっていない。
わたしも襲われるのかと思い、突然の恐怖に心臓が激しく打っている。
「る、ルシルス王子がどうしてここに……」
わたしはもごもごと言い、ジュリアの様子を横目で確認する。
寝る前に侍女にキレイにときすかされていた黒髪は、ルシルス王子がわたしの口をふさぐために手をつき体を乗り出したために、流れをせき止められた小川のようにうねり乱れていたが、安堵したことに、寝息は一定の間隔で乱れはない。そのままの形で、ショーケースに入れられているビスクドールのように美しい。
「……あなたが戻るのを待っていたらそのまま寝てしまったので、わたしもジュリアの様子をみてから帰ろうと思っただけだから」
口をふさぐ手に触れて、乱暴におもわれないように引き離した。
王子の体に触れるのはご法度だそうだが、そのままだとずっと口をふさがれていそうだったので。
「戻るのを待って?わたしが来る前から部屋にいたってことなの?」
「わたしがここにいるにも関わらず、あなたは一直線にジュリアの元へと向かったから、わたしの存在に気が付いていないのではと思ったよ。その結果、あなたとジュリアのおしゃべりを聞けて楽しかったよ。酒造りもうまくいっているようで楽しみだよ」
「わたしの独り言よ。酒造りは出来上がるまでまだわからないわ」
今日の出来事の報告をそっくり聞かれていたと思うと、赤面してしまう。
ジュリアだったらどう返事するのかと想定しながら、ひとりでしゃべって、しゃべりつかれて眠ってしまったのだった。
ルシルス王子はジュリアの頬に触れてからぐるりとベッドを回ってわたしの方に来る。
わたしがベッドから立ちあがろうとすると手を取って起こしてくれる。
そんなことされなくてもベッドからぐらい毎日ひとりで起き上がっているのだけれど。
そういうところが王子育ちなのだろうか。
彩度を押さえた明かりがルシルス王子を照らし出し、いつもは陽気な表情が抜け落ちている。
じっとわたしを見つめていた。
グリーが優しさと尊大さの二面性を使い分けるように、ルシルス王子の普段の陽気さは、本当の彼自身を覆い隠す仮面なのじゃないかと思えた。
「本当にジュリアが話しているような気がしたんだ。ジュリアが、稲刈りをして、酒を造って、毎日の変化を楽しみにして、だれにも気兼ねすることなく、自分で自分の未来を切り開いていこうという意欲、生命力があふれていた。話をしている娘がどんなにジュリアであればいいかと願ったか……」
ルシルス王子の声は低くジュリアに聞かれるのを恐れているかのようなささやき声で、わたしは居心地が悪くなる。
「ルシルス王子、もう遅い時間ですからわたしは部屋に戻りますが、ご一緒にいきますか?」
これから重要なのは糖をアルコールに変える酵母であるが、わたしはどんな果物も使うつもりはない。
自然に任せるだけである。
ジュリアやその母マリーシャが酒造りをしていたこの酒蔵の梁にも酒樽にも、そして酒蔵に出入りするわたしの体にも、固有の酵母が住み着いている。酒蔵に出入りするのはほんのごく限られた者だけで、体をまずは清めてからというのは、この酒蔵固有の酵母が乱されないようにという経験から導き出されものなのだ。
わたしが加わることで、ジュリアの酒蔵にも酵母に変化が起きているはず。
あとは、毎日発酵の度合いを確認し、時折かきまぜるだけである。
※
いつの間にか寝入ってしまっていた。
やわらかなベッドの寝心地は、綿菓子に抱き留められているかのようだ。
ここはわたしのベッドではない。遮光カーテンではなくて、月明かりが透ける絹の紗幕の、淡い世界が繭のように淡い霧のように思えるからだ。
ベッドがきしむ。
その物音で目が覚めたのだった。
だけどわたしの隣に眠るお姫さまがベッドをきしませるほど、自分で体を起こしたり、寝返りをうったりすることはなかった。
ベッドに人影がかかる。
何度か瞬きをして薄闇に目を慣らして、人影だと思ったものがただの観葉植物の影にすぎないと見極めようとした。
だが、その影の主は紗幕の外側ではなくて内側、それもあおむけになって静かに寝息をたてるジュリアのすぐそばのベッドに腰掛け、身を乗り出してジュリアの様子をうかがっている。
不審者だと思い、とっさに体を起こしてにじり下がろうとした。
悲鳴が喉につく。
声を上げる前に、大きな手がわたしの口をふさいだ。
「待て、わたしだ。不審者じゃないよ」
その声と薄闇の中のわずかな光を青く照り返す髪で、ようやく誰だかわかった。
ジュリアは襲われた結果、目が覚めないのだ。
まだその襲撃犯は捕まっていない。
わたしも襲われるのかと思い、突然の恐怖に心臓が激しく打っている。
「る、ルシルス王子がどうしてここに……」
わたしはもごもごと言い、ジュリアの様子を横目で確認する。
寝る前に侍女にキレイにときすかされていた黒髪は、ルシルス王子がわたしの口をふさぐために手をつき体を乗り出したために、流れをせき止められた小川のようにうねり乱れていたが、安堵したことに、寝息は一定の間隔で乱れはない。そのままの形で、ショーケースに入れられているビスクドールのように美しい。
「……あなたが戻るのを待っていたらそのまま寝てしまったので、わたしもジュリアの様子をみてから帰ろうと思っただけだから」
口をふさぐ手に触れて、乱暴におもわれないように引き離した。
王子の体に触れるのはご法度だそうだが、そのままだとずっと口をふさがれていそうだったので。
「戻るのを待って?わたしが来る前から部屋にいたってことなの?」
「わたしがここにいるにも関わらず、あなたは一直線にジュリアの元へと向かったから、わたしの存在に気が付いていないのではと思ったよ。その結果、あなたとジュリアのおしゃべりを聞けて楽しかったよ。酒造りもうまくいっているようで楽しみだよ」
「わたしの独り言よ。酒造りは出来上がるまでまだわからないわ」
今日の出来事の報告をそっくり聞かれていたと思うと、赤面してしまう。
ジュリアだったらどう返事するのかと想定しながら、ひとりでしゃべって、しゃべりつかれて眠ってしまったのだった。
ルシルス王子はジュリアの頬に触れてからぐるりとベッドを回ってわたしの方に来る。
わたしがベッドから立ちあがろうとすると手を取って起こしてくれる。
そんなことされなくてもベッドからぐらい毎日ひとりで起き上がっているのだけれど。
そういうところが王子育ちなのだろうか。
彩度を押さえた明かりがルシルス王子を照らし出し、いつもは陽気な表情が抜け落ちている。
じっとわたしを見つめていた。
グリーが優しさと尊大さの二面性を使い分けるように、ルシルス王子の普段の陽気さは、本当の彼自身を覆い隠す仮面なのじゃないかと思えた。
「本当にジュリアが話しているような気がしたんだ。ジュリアが、稲刈りをして、酒を造って、毎日の変化を楽しみにして、だれにも気兼ねすることなく、自分で自分の未来を切り開いていこうという意欲、生命力があふれていた。話をしている娘がどんなにジュリアであればいいかと願ったか……」
ルシルス王子の声は低くジュリアに聞かれるのを恐れているかのようなささやき声で、わたしは居心地が悪くなる。
「ルシルス王子、もう遅い時間ですからわたしは部屋に戻りますが、ご一緒にいきますか?」
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