曾祖母の秘密

ハリマオ65

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1話:曾祖母、金井八重の秘密と上京

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 金井義朗の曾祖母、金井八重、1890年1月11日生、尋常小学校4年、卒業後、高等小学校2年を出て14歳の時、数学の成績がすこぶる良かった。本人も工業を勉強したいと言う希望で水戸工業高校機械科に入学し3年間勉強した。1907年に17歳で卒業し日立製作所の前身である日立鉱山の機械修理製造部門に就職。

 工業用モーターの研究を手伝い1910年に国産初の5馬力の誘導電動機「モーター」を完成することに寄与した。その後も長く、日立製作所に勤務していた1916年4月1日に金井八重の働いていた日立製作所、機械技術部に東北大学の大学院を卒業した吉川卓という賢そうな男性が同じ部署に入社してきた。

 最初は近くで昼食をとるだけだったのが、彼の方から金井八重が地元出身とわかりと銀行や安くて旨い食堂など多くの地元の情報を教えて上げるうちに、たまに男女数人6人の仲間で食事に行ったりするようになり、すっかり仲良くなった。夏は日立市の近くの海水浴場へ行って泳いだりして本当に楽しい日々だった。

 しかし、運命って残酷な物でそんな将来を嘱望されたハンサムなエリート技術者が1916年12月15日体調を崩し病院に入院し、どんどん痩せて弱っていった。毎日の様に、仲間が、お見舞いに行った。そんな、ある日、その彼が金井八重に、私にもしも時、私の宿舎のロッカーに桐の箱に入った菩薩像がある。

 それを君に持っていてもらいたいと鍵を渡してくれた。この事は絶対に2人だけの秘密にして他人には口外するなと言われた。、その後、絶対口外せず、秘密にし続けた。その後、入院し1週間で帰らぬ人になった。病院の担当医が急性白血病で亡くなったと話してくれた。

 あまりに彼が可哀想なので仲の良かった仲間の男女5人で質素な葬式を上げて近くの墓地に埋葬してもらった。その死から、少しして亡き吉川卓の下で仕事をして、良く遊んでいた仲間の1人、同じ水戸工業高校を卒業した友田徳一が、あまりに寂しそうにしている金井八重を気遣ってくた。

 そして、仲良くなった頃、妊娠が判明し、多分、亡き吉川卓の子供だとわかって正直に、友田徳一に話した。これは誰にも話すなと言われ、俺の子だという事にして出産しろと、思ってもみない話をされ、気が動転した。しかし5人の仲間にも友田が話して、みんなも完全に信じ切ってしまった。

 本当のことを言えず、1917年6月12日に長男の金井猛を出産して、その後、婚姻届を出して結婚した。それから、この話は胸の奥にしまっておいた。その後、戦争は益々ひどくなり1945年の日立市への大規模な空襲で金井八重の亭主の友田徳一が工場で働いてるさなか、工場が爆撃されて焼死した。

 その後、1人子の長男、金井猛を連れて金井家に戻って生活を始め、学校を出て大工見習いをして大工になった。やがて終戦を迎えて実家にも居づらくしていた時、息子の金井猛が都会へ行こうと言ったので金井一郎一家について茨城を出てた。そして横浜へ向かった。

 戦後、1950年5月10日に北関東から大きなリックに重たい荷物を2人の男が背負って金井猛40歳、奥さんの金井はつ39歳、息子の金井一郎20歳と奥さん、金井かなえ17歳、それに金井猛の母、金井八重60歳も田舎は嫌だと4人についてきて5人で上野駅から京浜東北線に乗り換えた。

 橫浜駅で京浜急行に乗り換えて金沢文庫に着いた。田舎の知り合いの息子さん山根辰巳さんの家に着いた。山根さんが借家を探したが、野島という海の近くに昔、使っていた漁業協同組合の古い漁師小屋を月に3千円で借り受けた。水道、トイレはなく、近くの公園を使えと言われた。雨漏りしないよう修理した。

 実際に現地に行くと広さは十分にあり金井猛と息子の一郎で木の板を買って修理すれば使えることがわかり、最初の夜は、いたみの少ない6畳で寝ることにした。明日、材木屋で廃材を買って来て2人で1日がかり外板を張り替え、防水ペンキを塗った。明後日、壁を修理した。

4日間かけて全室、板張りの6畳の広さの部屋を2つと台所を完備した2LDKの家にした。畳を買うだけのお金がないのでゴザを重ねた。その上に中古の布団を引いて寝る事にした。6月過ぎて仕事探しに出かけたが不況で仕事がなく仕方なく近くの工務店に雇ってもらい大工仕事をする事になった。

 その後、金沢から自転車で20分行くと釜利谷という田んぼ畑、竹林が多い地域があた。そこへ女性達が山菜採りに出かけた。冬から春に、オオバコ、セリ、フキ、ノビルをとって、おひたし、炒めものにして、タケノコは煮物、炊き込み御飯にして食べた。また、金井猛と一郎の親子は朝早く起きて、野島の海で魚釣りした。メバル、カレイ、イワシ、アジ、コウイカ、アオリイカ、まれにイナダ。

 小アジが良く釣れ、多く、アジフライや南蛮揚げにして食べた。またイカは刺身やフライ、煮物にして食べた。たまにカレイが釣れると大きいのは煮付け、小さいのはフライにして食べた。まれに近くの人が大きなイナダを釣ってくると切り身のおっそ分けをいただいた。

 それを竜田揚げ、照り焼きにした。特に、美味しかったのはイワシ、アジ、イナダのなめろうだった。それ以外におかずとして買ってくるものと言えばコロッケ、ハムカツ、ポテトフライ、鮭のアラ、豚バラ、鶏肉、いつも安い卵が,
多かったのを覚えている。無料のおかずを調達して安月給でも生活を続けた

 あっという間に1年が経ち1952年の9月に金井かなえに子供ができ、1953年2月27日が予定日だとわかった。2月25日に産気づいて、近くの産婦人科で1953年2月27日に2.9kgの元気な男の赤ちゃんを産んで金井義朗と名付けた。3月15日に退院してきて、母のはつさんがかなえさんの面倒を見た。

 横浜市金沢区野島は海辺で風が強く台風のシーズンで屋根の一部や壁の板が飛ばされる被害が多く、その度に修理して住み続けていたが、1953年の9月25日の夜11時過ぎに台風13号に風速30mを近い強風と高潮で住んでいた、野島の漁師小屋を改修して作った家にも大きな被害が出た。

 ほとんど吹き飛ばされて近くの友人の車で、生後半年の義朗を近くの公民館に避難させ助かった。男衆は家に添え木をしたりしていたが完全に吹き飛ばされて、強い風の中、公民館に逃げ込んだ。翌日は、金井かなえと息子と祖母が友人の高山豊の家に上がらせてもらい食事もいただいた。

 2日後、お礼に行くと災害の時はお互い様だからと言った。それより住む家がなくなり大変だなと心配してくれた。高山豊が橫浜市役所の職員で市営住宅と神奈川県営住宅を探して上げるから家族の氏名、年齢と収入を書いてくれと言われ、書いて渡した。

 それを見て現在被災して困ったいる状況を書いた便せんを入れて、それぞれの役所に提出してくれた。すると最近完成した大規模なの横浜北部の橫浜市営住宅に空きがあることがわかり優先的に入居させてくれると連絡が入った。その知らせを聞いた金井一郎が高山豊に、お礼を言って、固い握手を交わした。

 2日間、公民館で避難生活していると、近所の人達が心配してミルクやオムツをくれたりして非常に助かった。2日後、横浜の北部の市営住宅に金井猛が働いている工務店のトラックを借りて家族全員で引っ越していった。
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