電子カルテの創成期

ハリマオ65

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第12話:PC98新発売と池辺さんからの電話

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 その他、ディスプレイ、フロッピーディスをつけると50万円と超えるという高価な代物だった。そんな話題で1982年が過ぎて、1983年を迎えた。1983年10月、待望のPC9801Fが発売された。これにはFDD「フロッピーディスク」が2つ装着されて、実用的で装備が充実して、定価が8万円安くなった。

 定価が、21万8千円となり、普及が、急速に進んだ。そして1984年、正月過ぎ、日本電気研究所の常本肇に電話がかかった。どなた様ですかと聞くと、以前、松本で飲んだ、医薬品企業のプロパー、池辺ですと名乗った。ほんと、久しぶりですねと言うと、早速、用件だが、PC9800が使えるパソコンになった。

 今年の夏、初めて、愛媛県と山梨県の医者など、総勢8人で夏休み諏訪湖近くの温泉に来て泊まり込み2泊3日で勉強会する事になったのだが来ないかと言った。その誘いに協賛金出せないと言うと、日本電気の商品使ってないもの仕方ないだろと言い、勉強におため自費で来ないかと言うのだ。

 そして本音を言うと、コンピュター技術者に来てもらえると心強いと言いわかった。お前さんは来賓と言うことで、全額出してやるよと笑いながら言った。その分、良いアイディアをだせえよなと言った。詳細は、手紙を送ると言った。了解しました。なんとか出席できるように最善の努力をしますと告げた。

 いつの間にか、営業マンみたいなったねと茶化すように笑った。その後、期待して待ってるよと言い電話を切られた。その後、1984年4月20日、池辺さんから手紙が届き、8月13,14,15日の3日間、諏訪湖湖畔のBN屋という温泉旅館の4室をおさえたと書いてあった。最後に、「金は工面してやるから、絶対、来いよ」と追伸が書き加えられていた。

 やがて8月を迎えて、8月13日から仕事で家を空けるから、お盆の3日間、福島の一郎の両親に横浜に来て欲しいと連絡をして了解をもらった。奥さんにも事情を話して、新しい仕事をとれるかどうかがかかっていると話をして納得させた。そして8月13日を迎えて、朝8時に家を出て、13時過ぎに諏訪のBN屋に到着した。

 まだ、池辺さんは来ていなくて、フロントで聞くと遅くとも14時にはつけると、ちょっと前に電話が入ったと教えてくれた。30分待つと、池辺さんと3人の若い先生がやってきた。そして池辺さんが、ふざけながらお早いお着きでと言い、常本の肩をたたいた。そして若い医者に、こちら日本電気研究所のコンピューターの専門科の常本さんと紹介してくれた。

 若手は、吉川、真田と言い、入局2年目の若手だった。ホテルの喫茶店に行き、ワープロで書いた文書を見せ、今日、山梨大学の2人、愛媛の病院の先生2名が到着予定となっていた。その後、コンピューター研究会の会長の富士川先生がやってきた。そして、池辺さんが、富士川先生は、常本君とは初対面ですよねと言い紹介した。

 最初、富士川先生、大学医局で教授の懐刀と言われている切れ者の先生ですと言うと、そんな紹介って言ってあるかと苦笑いした。次に、こちらは常本さん日本電気研究所コンピュータ・ソフトウェアの研究者ですと言った。富士川先生が、ヘーと言い、どうやって池辺君と知り合ったのと不思議そうに聞いた。それは内緒と池辺さんが言い聞かない方が良いと笑った

 。富士川先生が大学は、どこと聞くので、常本が、東工大の電子工学と答えると驚いた。すると、池辺さんが、富士川先生も東大工学部電気科卒業でしたよねと言った。思えていたのかと言い大学在学中に信州大学病院のT教授に、これからの近代的な医者は、技術者のタイアップして医療技術を上げるべきだという話に賛同していた。

 そして、東大、退職後、直ぐ、信州大学医学部のT教授に呼ばれ医学部の客員講師となりT教授のアシスタントになったと紹介した。患者さんの診療や手術は一切せず、臨床医の要望をかなえるように科学技術者として協力していく仕事だと言った。

 その点で、コンピューターの応用は、必要不可欠だと考えていると話した。そう言う意味では、君との出会いも運命的なのかも知れないとねと、言い、不気味な笑顔を浮かべた。医者の出迎えは、若手2Dr、山科先生と吉住先生が担当して、パソコンの設置を池辺さんと常本が行う事になった。
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