電子カルテの創成期

ハリマオ65

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第16話:富士川先生との話とドライブと観光

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 そう考える様になったと話した。平尾昌晃さんもきっと同じ様な気持ちで、ここ信州の自然の中で、頭に浮かんだ情景を言葉にして、それを音楽に乗せて、人々の心を打ったのでしょうと感慨深げに言った。話を終えて、塩嶺峠を越えると下り坂とない、20分足らずで、広い平原が広がってきた。

塩尻についたのだ。ここは、ブドウ農園が多く、棚に、多くのブドウがぶら下がっていた。そこで、大きなブドウ農園に車を止めて、一休みすることにした。そこで、直売のブドウと、常本は、ワインを富士川先生はブドウジュースをケーキと共にいただいた。日射しは強いが、吹く風は爽やかで、標高が800メートルもあると聞かされた。

 少しして再び出発して次、松本城に向かい、お堀を回り、次に松本城の天守閣まで登ることにしたが、急なところを汗をかきながら天守閣へ登ると、また、絶景が見られた。遠くに北アルプスの多くの山がくっきりと見え絶景だった。1時間ほど、散策した。その次、松本で一番うまい蕎麦屋へ行こうと言われ、移動した。

 その車の中で、松本と長野が、県都をめぐって争った話をした。明治時代、当時の政府は、松本を県都にするために日本銀行を松本に開設し、信州大学医学部附属病院も、ここに開いた。しかし、県都の争いが始まったとき、最終的には、人口の多さで決めようとなった。

 松本は、そう言っても、ここに日本銀行と大学病院があるから、決まったも同然と考えていた。しかし、それを苦々しく思っていた長野市は、県都を決める直前、突然、周辺地域を長野市に組み入れた。それにより、人口が長野の方が、松本を上回った。その後、長野市が、県都を長野市へと議会へロビー活動を繰り広げた。

 それでも松本では、ここが県都になるはずだと信じ切っていた。その後の投票結果、長野市が県都となった。その後、反対運動などが起きたが、決定事項が覆ることはなかった。そのため、長野市は、一番端から反対の端まで車で1時間もかかると言ういびつな形で広大な県都となったと県都を巡る争いの話をした。

 その蕎麦屋は、普通の商店街に、ぽつんとあり、何の変哲もなく、地元の人がいっぱい入っていた。中に入ると、ここから、ずべて、富士川先生にお任せしますと耳打ちした。すると、ざる2つと言い、そば湯もねと笑顔で注文した。10分後、ざるそばが出て来た。香り高く、その香りが素晴らしい。

 まさに、鼻をくすぐるという感じだ。そばつゆにさっと入れて一気に食べるとなんとも言えない香りが口の中に充満した。思わず、うまいというしかなかった。こしもあって、こうたくがあり、言うことない。あっという間にたいらげた。旨かったといい、ぼーっとしていると、そば湯を飲めと言われた。

 これも香りが素晴らしかった。そして、富士川先生が、蕎麦の善し悪しは、香りで、それが一番わかるのが、そば湯だと教えてくれた。そうしていると、常本が18時になりますよと告げた。すると、帰ろうと言って、蕎麦の代金を富士川先生が精算してくれ、外に出て、車にのって出発した。

 帰りは、高速道路で、一気に諏訪まで行き、18時半前には、会場の温泉旅館に帰った。そして、2日目が始まった。2日は、17時半から始まり、池辺さんが、山梨大学の吉富先生の「腰痛症に対するにおける消炎鎮痛剤の効果比較と副作用比較」の発表ですと紹介した。

 演者の吉富先生田が、山梨大学病院の腰痛症患者さんデータベース200例のデータベースをディズプレーに出した。鎮痛効果はインドメタシンの鎮痛剤が優位的だったことを説明。次に、副作用の多さも並べ替えるとインドメタシンが一番多く、効果があるが副作用も多い事がわかり、副作用は、消化器系に対する副作用ばかりだった。

 これに足しては、胃薬、抗潰瘍剤の服用をすすめると、改善する事がわかった。これについては、あまり異論はなく、昨晩の様に活発な議論は起こらなかった。すると、直ぐに、またデータベースとの使い方になり、富士川先生が、昨晩、活躍した常本と交代した。すると富士川先生もパソコンには詳しい。

 多くの質問にテキパキと答えていた。やがて、若手の山科先生が5本の日本酒の一升瓶と数本の小瓶を差し入れして、先生方が飲み始めた。その時、池辺さんが、常本に耳元で、彼は諏訪の有名な酒屋の息子何だと教えてくれた。
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