電子カルテの創成期

ハリマオ65

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第30話:バブル崩壊と日本株暴落

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 そうして1989年も12月なり、駆け足で去って行き、1990年を迎えた。この年は、昨年11月9日にベルリンの壁が崩壊して、東ドイツが事実上消滅した。1990年3月18日 - 東ドイツにて自由選挙が実施され、ドイツ統一を主張する保守連合「ドイツ連合」が勝利した。

 その他、昨年、昭和天皇が崩御した後、新天皇の即位の礼の儀式が行われ、新しい時代の幕開けを印象づけた。反面、長く続いた、日本のバブルが終わりを告げ始めた。1990年3月に大蔵省土田銀行局長から通達された「『土地関連融資の抑制について』『総量規制』」に加えて、日本銀行総裁三重野康による金融引き締めは急激で信用収縮が一気に進んだ。

 信用崩壊のさなかにおいても金融引き締めは続けられ、日本の経済を極度に悪化させた。前年の1989年に導入された消費税も、経済実態に鑑みると導入が遅過ぎたこともあり、結果的にこの金融引き締め策は失敗に終わった。バブル経済を抑制する目的で実施した日本国政府や日本銀行による金融引き締め策が、結果的に失敗に終わった。

 これで逆に景気に悪影響を及ぼした遠因となった。1989年5月から1年3ケ月の間に5回の利上げが実施され、2.5%だった公定歩合は6%台まで引き上げられた。マネーサプライの増加率は、1990年には11.7%、1991年には3.6%、1992年には0.6%と急降下した。

 政府は、日銀の公定歩合の急激な引き上げに続き、不動産の総量規制、地価税の創設、固定資産税の課税強化、土地取引きの届け出制度導入。特別土地保有税の見直し譲渡所得の課税強化、土地取得金利分の損益通算繰り入れを認めないなどの対策を打ち出した。

 さらに、バブル崩壊後の政治状況は、1992年の東京佐川急便事件に端を発した金丸信の議員辞職、経世会分裂、小沢一郎の新生党旗揚げなどの政界再編、細川政権誕生による55年体制の崩壊、政治改革、細川首相の電撃辞任、羽田孜の短期政権、さらに、自社さ連立政権による村山富市への政権交代など大混乱の状態だった。

 そのため政治はバブル崩壊後の経済状況に十分な対応ができなかった。その後、1990年8月2日イラクのクウェート侵攻が起こり、国際連合が多国籍軍「連合軍」の派遣を決定。日本でも対イラク制裁に加わった。1991年1月17日にイラクを空爆して始まった戦争につながった。

 また1990年2月から3月にかけて、東京証券市場で株価が大暴落した。これが日本のバブル経済の崩壊が始まり、しかし株価が急落しても、多くの人はまだ 好景気は続くと思っていた。この年の2年ほど前にも一度 ブラックマンデーの暴落があり、その後さらに株価が急上昇したからそう思っていた。

 しかし株価は安値へ下落するばかり、不動産価格も下落に転じた。株価と地価の暴落は、その後の日本経済を急速に悪化させた。信用の収縮・金利引下げ・貸し渋り・企業の倒産・不良債権による金融機関の破綻・人員整理と就職難・消費税の増額・超低金利 等々、経済活動の収縮による衰退は、この時から始まったと言える。

 1991年は、湾岸戦争の激化と続き大変な時代となった。バブルに浮かれて、銀行に多額の借金をして土地を購入したのは、金持ちだけではな買った。
有名な演歌歌手のSMさんもハワイのホテル用地を取得し立ちして、一躍、時代の寵児とマスコミで、騒がれたが、それが、一気に不動産の負債負うに変貌したのだった。

 こう言う話は、掃いて捨てるほどあり、特に東京では、金持ちから一気に借金負うという人が増え続けた。この年、ピザボックス形のマッキントッシュ・LCⅢが、発売された。株価暴落を見て、投資をしていた木下先輩が心配になり電話すると、大丈夫だと答えて、株価がおかしいと思ったときは、直ぐ逃げた。

 その結果、1989年のソニー株を売った後は、株を買ってないというので安心した。またソニー株が下げたら、買おうと思っていると話した。そのうち1992年を迎えた。この年は、特に変わりなく夏休みは、近所の屋外プールに、ソフィアが子供達を連れていった。ソフィアが新横浜に屋内プールがある事を知り涼しく待っていられるので、その屋内プールに出かけるようになった。
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