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8話:沖縄旅行と異常気象

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 そして、島のカフェで一休みして帰りも車を飛ばして昼過ぎに那覇市街地に戻り昼食をとった。その後、ホテルに帰って昼寝して疲れをとった。17時に全員起きて近くのリウボウ・デパートへ出かけてた。

 そこで、お土産を探すと珍しい、お菓子が見つかり数種類、買った。その後、デパートの大きなレストランで、それぞれの好きなものを注文して食べた。夢子は、母のおっぱいを飲んで満足げ。

 翌朝、7時に起き、ホテルをチェックアウト。父のワゴンで、那覇空港へ送ってもらい10時の飛行機で13時前に羽田空港に到着。12月31日14時前に自宅に戻ってきた。だらだらとした後、風呂に入り夕食を食べ床に就いた。

 翌、1991年元旦、近くの神社に、5人で初詣に行き、今年も家族の健康、商売繁盛を祈願してきた。翌日は、富一夫妻と2人の子連れで藤沢の奥さんの実家を訪ね沖縄土産を渡した。

 次に、昨年の正月の株の成功を振り返り株の話を義理の父とした。父が、今後、最先端の電気技術、コンピューター、ソフトウェア、インターネット関連が面白いと話した。また今年もお世話になりますと挨拶し義理の両親が孫2人可愛がってくれた。

 孫たちも、祖父の近くを離れず、はしゃいで甘えていた。夕方、お別れして東京へ戻ってきた。その後1月7日から通常通り1時間かけて藤沢の研究所に奥さんと一緒に通勤した。

 しかし下りなので、すいていて通勤ラッシュにあうことがなく助かる。登りの湘南電車は、ラッシュで大変そうでサラリーマンはつらいと痛感。だんだんと寒さが厳しくなり、3月に入ると暖かい日差しの日が増えてきた。

 4月になると、早咲きの桜が咲き始める。代々木公園の桜の花見に出かけた。今年は、少し遠出して目黒川の川沿いへ早朝出かけたが、しかし朝8時過ぎると大勢の人波で帰ってきた。

 その後、今年も5月の連休に、沖縄の父が帰ってくると電話が入り、4月26日、夜21時に東京の富一の所へ到着し、5月5日に沖縄に帰ると述べた。そして、東大時代の友人と飲み会もある様で嬉しそうだった。

 沖縄で仕事をし始めて以前の様な鋭い感じがなくなった。父も60歳近くになると丸くなったのかもしれない。孫を見ている時の優しそうな眼は、以前では、考えられないと父の柔和な顔を見ると不思議に気がした。

 沖縄では、学生を相手に講義をして、たまには、泡盛を飲みながら盛り上がっていると聞かされた。今年は、ハイエースで、横浜の「子供の国」へ出かけて、子供たちは、大はしゃぎで、遊び回っていた。

 それを追いかける大人たちは、汗をかきながら、相手をして楽しんだ。帰りの車の中では、父は、疲れ切って、いびきをかいて寝てしまった。自覚に帰ってくると、楽しかったとしみじみと語った。

 そして、5月5日、10時に家を出て、沖縄へ帰っていった。やがて、梅雨となり7月中旬、梅雨が明けた。しかし、今年は、8月上旬から中旬にかけて梅雨前線が、東北地方から本州南岸まで南下した。

 その後、曇雨天と低温に見舞われ、東北では梅雨明けが、お盆の頃まで遅れた。さらに、台風が大分・宮崎県へそれぞれ上陸して、西日本を中心に水害が相次いだ。9月中旬は秋雨前線が活発化した。

 そして、9月28日の台風19号の影響で、関東地方を中心に豪雨災害に見舞われ、各地の道路が浸水状態となった。大きな被害を被った。10月は西日本以北が、高温。

 11月は、札幌、網走で3.5度、函館・青森で3.4度、平年より高くなるなど全国的にかなり高温となった。続く12月も関東・北陸以北ではかなり気温が高く、旭川・帯広では、平年より4度も気温が高かった。

 そうして、1991年も年末を迎えた。今年は、父が、仕事の都合で、東京に帰れないと連絡が入った。その後、1992年となった。1992年11月15日、夜、義理の父からソニー株が、底値に近いと言われた。

 そこで、買ってもよいとのではと提案され話し合って、今日の終値より安かったら千株を成り行き買いと、薄井富一が指示した。義理の父が、了解と言い、明日の晩までに電話で結果を知らせると言われた。
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