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24話:北海道旅行と加藤さんの直腸がん手術と投資

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 飛行機で釧路空港へ行き、高速バスで釧路プリンスのマンスリーパッケージというツインルーム1ヶ月で12万円で宿泊した。その後、電車で釧路へ行ったりレンタカーを借りて襟裳岬へ行ったり、摩周湖、屈斜路湖へ行ったりした。

 地元のスーパーで朝食のパンと珈琲と夕飯とおかずになる焼き魚、煮魚を買ってきてビールのつまみにした。また、御飯のパックを買って冷蔵庫に入れて生活した。昼間は、釧路市内の食堂の安いランチを食べ歩いた。

 たまに、釧路市内の日帰り天然温泉に出かけて汗をかき、夕方、近くを散策した。夏でも厚岸の美味しいカキをたらふく食べた。その後、9月1日に羽田から新横浜駅行きの高速バスで帰ってきた。 一方、加藤優造さんは家で疲れたら寝る生活を続けた。

 エアコンの効いた部屋で本を読んだりして生活していた。9月中旬過ぎて涼しくなった頃、気が向くと家の近くを10分、奥さんと一緒に散歩を始めた。買い物は竜二が運転する車で奥さんと香織さんを乗せて、2、3日に1回、地元の格安スーパーに買い出しに出かけた。

 その後、1995年10月2日加藤優造さんは体の異変を感じ近くの医院で検査を受けた。すると肛門から十数センチの辺りの直腸部にピンポン玉大の影がみつかった。その数日後、橫浜労災病院に行くと、『ステージⅣの進行直腸癌』とわかり即入院。 

手術前日の夕刻、執刀医が病室を訪れ、沈痛な面持ちで、こう言った。
「加藤さん、開けてみて、もし駄目ならそのまま閉じますから・・・」
 その話を聞いた加藤香織さんと山倉竜二と範子さんが昼、橫浜労災病院に駆けつけた。

 加藤家と山倉家の子供達も19時に病院に駆けつけ、夜20時に手術が終了。加藤優造さんの腸40センチと周辺組織を切り取る手術には7時間かかった。しかし、何もせずに、お腹を閉じる事はなかった。20時半に病室に戻り、待っていた加藤家と山倉家の人達が話をした。

 しかし、その後も体調が完全に元通りに回復することはなかった。 そのため奥さんの香織さんが加藤優造さんの株で得た2千万円が残っているから橫浜銀行を退社して旦那さんの加藤さんの面倒をみると言い出した。

 すると竜二と範子さんもできるだけ協力すると約束した。その後、加藤さんは家で静かに療養していて調子が良いときに新横浜のレストランに出かけた。しかし、11月の寒い風が吹き始めると外出をしなくなった。

 それでも気が向くと株の売買をした。やがて1996年を迎えた。山倉幸子と加藤福子は就職を決めてから、当初、日吉の家から通っていたが、2年後の1997年5月に丸の内に勤めていた加藤福子と2人で新富町近くの2DKのマンションを借りて住むようになった。

 1997年7月になるとソニー株が上昇して8月1日の夜に隣の加藤福子さんにソニー株が売り時かも知れないと証券会社から連絡が入った。来週月曜日8月4日、加藤福子さんが成行か12000円で売るつもりだと答えた。

 竜二は、ソニー株を成り行きで1万株売りを入れると12200円で全株売れて税引き後利益が6710万円で、資産残高が13300万円となった。加藤和男さんと福子さんも成り行き売りを指示し全株売れ、税引き後利益が662万円となった。

 それにより残金が1282万円となり282万円の利益を出した。1998年10月30日、ソニー株が下げてるのを見て竜二は午後になって7400円で5千株買いを入れ3700万円で買え,資産残高が9600万円となった。

 その日の晩に加藤福子さんに連絡して明日、7400から7500円で買いかも知れないと連絡を入れた。翌週の月曜11月2日に7400円で買い指値を入れて加藤兄弟が千株ずつ740万円で買い、残金が542万円となった。

 山倉肇は、最初、自宅から丸の内のオフィスへ通勤していたが通勤ラッシュが嫌で1年後の1999年6月に月島のマンションを借りて住んだ。1999年12月30日の朝、ソニーが上げてるという情報を得た。

 そこで朝8時50分に加藤兄弟に電話入れた。今朝、成り行きで売るつもりだと言い年末年始は売買が難しいが利益も十分に出ているので売った方が良いかも知れないと助言した。
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