集団就職の星

ハリマオ65

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4話:子供の育児で智惠さん倒れる

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 その後も、智惠さんの実の母が、2ケ月間、子供を見て、もらい、1歳過ぎたら、保育園に預ける事にした様だ。斎藤さんの所は、長男の斎藤肇君が誕生し斎藤保子さんと内藤家では、長男の正一君が誕生し、奥さんが、仕事を辞めて、育児に専念するようになった。1978年も,子供が小さくて、自宅の近くの公園に行って、散歩したりして、遠出が出来ずに、仕事と育児で、忙しそうにしていた。

 1978年8月に内藤家で2人目の女の子、内藤小百合ちゃんが生まれ、可愛い女の子の誕生に、父の内藤哲人は、でれでれとなった様だ。そして仕事と育児に忙しい1年が終わり1979年を迎えた。その後、1979年3月に斎藤家で,2人目の斎藤珠子ちゃんが誕生して、玉のような大きな赤ん坊だった。そうして、海藤、内藤、斎藤家で2人の子宝に恵まれた。

 この頃には、海藤智惠さんは、三菱銀行で金融商品販売の仕事で動き回り売上を上げていた。羽振りは良かったが体力的には厳しいようだった。それでも土日、3組の夫婦は、近くの公園で遊んだり、食事をしたりして、楽しむようにしていた。そうして、12月の中旬、巷で、風邪が流行って、海藤智惠さんの娘さんの和子さんの保育園でも風邪が流行って、遂に、38度の熱を出してしまい、海藤努と智惠さんが交代で休みを取った。

 しかし、風邪が、長引いて、智惠さんの実のお母さんに,応援を頼んで、家に来てもらい、1週間ほどで、熱が落ちて、具合が良くなり、保育園に通えるようになった。そうして、1979年が終わりを告げて、1980年を迎えた。海藤家の初詣では、夫婦と、智惠さんの実のお母さんと、和子さんで、初詣でに出かけ、家族の健康と、仕事、株投資の成功を祈願してきた。

 子供達も、歩き始めて、1980年は、1月に熱海の早咲きの桜を見に来に行った。その後、梅の名所を探して、出かけ、3月の桜と,甲州の桃の花を見に出かけ、運転は、お父さん達が、交代で行って、酒は飲めないが、その地方の名物料理を食べて温泉に泊まったりした。秋田の両親達も東京見物のついでに、孫に会いに来る回数が増えた。

 孫も祖父母の顔を覚えたようで顔を見ると笑うので可愛くてしょうがないようだった。この時代は、割引債券の利回りが良くて銀行での販売合戦が激しく海藤智惠さんも友人達に有利だからと宣伝して販売していた。そして、販売のプロである、旦那さんに、セールスの極意を、教えてもらっていた。そのせいかどうかわからないが、販売成績が良くて、智惠さんのチームの販売実績が、東京支店内でベストスリーに入った。

そして業績表彰と報奨金をもらったが、仕事は、厳しく休みの日は、昼近くまで寝ている日が続いた。7月になり、特に、今年は、暑い日が続き外勤をしていた智惠さんが、倒れて救急車で運ばれたと海藤努の職場に電話が入った。すぐに病院に駆けつけると点滴をされてベッドに横たわっている智惠さんを見て、あんまり、無理すんなよと、いったが、力なく、首を縦に振るだけだった。

 先生が来て熱中症で脱水症状になったのだろうと言い、今年は、こう言う患者が多くて忙しいと話していた。退院しても、大事を取って1週間休ませた。その後も銀行のノルマが、厳しく、販売競争で、遅くなる日が増えた。以前に比べて、げっそり痩せたように見えたので、あんまり無理するなよと言った。

 私は、生来、負けず嫌いで、手を抜けない性分なのよと、力なく笑った。そうして、涼しくなってきたと思うと、10、11、12月と過ぎて、1980年が終わり、1981年を迎えた。今年は、新年から、温泉に行って、疲れを取ろうと、心がけた。
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