集団就職の星

ハリマオ65

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6話:日本発、企業間、銀行間ネットワーク構築へ

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 翌日から、智恵子さんのオフィスにネットワークやソフトウェアの図解入りの入門書から専門書まで多くの本が所蔵され7ー8割が英語で書かれている本だった。まず、全員が基礎を完全に理解して、今に何をしているのか、これから、何をしようとしているのかを理解できるだけの基礎知識習得の時間に充てられオフィスの電話が鳴ることは、めったにない。

 数人単位で大学の研究機関や企業の研究機関へ出向いて研究したりする人が多かった。そして半年が過ぎて1984年10月になり早乙女支店長に呼ばれて智恵子が東大、東工大、慶応大学のネットワーク研究チームを訪問して紹介してくれた、すると早乙女支店長が学生達にドクター早乙女と呼ばれ、その道の第一人者である事がわかった。

 東京大学、東京工業大学、慶應義塾大学の3つの大学が互いに実験的にコンピュータをUUCPで結んだ“JUNET”について、智惠さんが、概略の説明を受けた。次に1985年に、日本IBM、日本電気、富士通、日立製作所、東芝、三菱電機、沖電気、シャープ、三菱銀行、三井銀行、住友銀行、富士銀行などと結ぶ計画をしていた。

 その交渉が智惠さんの仕事だよと教えられた。そして早乙女博士に、ここまでは話して良い事と話してはいけない機密情報を交渉前に確認し合って出かけるようになった。その後、企業の中心が日本IBM、日本電気、富士通、日立製作所、東芝、三菱電機、三菱銀行、三井銀行、住友銀行、富士銀行であることが判明した。

 1985年も押し迫り12月になり、来年の交渉のスケジュールが発表されて2日に1回のペースで3人でチームを組んで日本で初めての移動電話NTTの「ショルダーホン」をもって他社を訪問する事となり過密スケジュールである事がわかった。

 この頃には投資仲間の3人と会う機会が極端に少なくなった。その代わり海藤努が仲良くしていて、いろんな情報を教えてくれたが、智惠さんが、どんな仕事をしてるとか、一切、秘密にして銀行関係の仕事をしているとだけ話した。そして1986年が空けた。海藤家では毎年恒例の初詣でに出かけ海藤努は一家の健康と安全を智惠さんは新しい仕事が軌道に乗りますようにと願った。

 1月5日から日本電気、富士通、日立製作所、東芝、三菱電機を訪問してネットワークの問題点がほぼ解消されたことを説明して1986年中には速度の改善や、その他の最終テストを完了させて各社との回線を繋ぐと言う話をした。三菱電機、三菱銀行、三井銀行、住友銀行、富士銀行には銀行オンライン化のシステムの最終段階に来て1987年には、オンラインで銀行の多くの支店間のシステムを繋ぐ実験をすると話して回った。

 そして1986年の4月に我が社にとっての懸案事項であった三井銀行の国内最大、オンライシステム事業部の売却の条件が決まった。そこの約80人のメンバーが入社してくるとこがわかり現在、64名のスタッフが144名に2倍以上の規模になる事がわかり大手町に今年出来る大きなビルに移動する事も決まった。


 オフィスの移動は1986年6月中に全て行う事になり正式に新社名、日本オンライン株式会社と命名する事も決定したと社内で発表された。その頃、大手電機メーカとのネットワークを繋ぐ実験で、いくつか起きた問題の対処をハード技術部のメンバーがして6月には全て解消されて高速ネットワークが構築できた。

 7月からは日本の大手銀行の本店と支店を繋ぐ事業を我が社と、日本の大手電機メーカの技術者を総動員して開始した。やはり数多くの問題が起き、その対応をマニュアル化して我が社のサイトに載せて、すぐ対処できる様に対応していった結果、1986年12月中に、ほぼ完成した。その後、1987年になり、最終段階のテストが丹念に繰り返された。

 そして1987年が空けても数多く多くの銀行と、その支店で高速ネットワークの試験が行われ、不具合が起こると関係者が集まり、修復するという地道が作業が続いた。やがて1987年11月を迎えた涼しくなった。そんな時、内藤から海藤へ以前、購入した日本電気株が急上昇してるから売りと言われ2600円で全株7万株を売った。

 すると、その晩、内藤から海藤に電話が入り税引き後利益1.7億円となったと告げられた。そして内藤が、俺は5千万円もらえればそれで十分だと言われた。そして、これからを内藤だけで投資をしてくれと言われた。但し、情報を流してやるよと言ってくれた。この話を危機、海藤は、内藤にお礼を言った。その結果、海藤は1.2億円と手にした。

 高速インターネットが繋がらない所は、その支店の場所の問題となりNTTの仕事で解決する事になり最終的には、1988年、夏までには全国の大手銀行のネットワークが完成した。1988年9月10日のネットワーク完成記念パーティーには日本の首相や多くに政治家、大企業の社長が来て華々しく開かれた。

この事業の陣頭指揮を執った早乙女社長が完成の挨拶の席上、事務的な話、技術的な話の時は立て板に水のように弁舌爽やかに話した。最後の方のハード、ソフト技術者の苦労や長い交渉を続けた話をした。更に話が続き、多くの人は大手銀行、電気会社、通信会社から集まり結集したという話の所に来て、最後に本当に彼らには感謝していますと言うと思わず言葉に詰まり涙を流した。

 これには、日本オンライン株式会社に結集した人の苦労、努力が報われるような気がして、智惠さんも流れる涙をハンカチで拭こうともせずに感動していた。そして彼女が三菱銀行でしてきた仕事は金や商品を売ることだけで、今回の仕事のように全身全霊で、みんなの力を結集して社会のため、日本のため日本人のために働けたことに生まれて初めて大きな誇りを持った瞬間で一生忘れないだろうと思い本当に良かったと実感した。

 家に帰って、この話を海藤努に話すと、それはすごいねと言った。でもね、君が、その仕事を成し遂げたのは、君が貧しい漁村に生まれてもめげずに一生懸命勉強して東京へ集団就職した後も、勉強を続けて、それを見ていた商店の店主が定時制高校から大学を受験させてくれ一橋大学、三菱銀行と一流の世界を歩んで努力してきたたまものだよと、やさしく肩を抱いてくれ一緒に泣いてくれた。

 その時、智惠さんは、この人と結婚して良かったと実感した。1988年にはコンピュータの分散処理環境の構築とインターネットに関する研究開発のため産学共同の研究プロジェクト、WIDEプロジェクトが発足し日本で初めてIP接続によりインターネットに参加した。同年、NTTが日本の主要都市、全都道府県庁所在地を結んだ光ケーブル網を完成させた。
 
 このネットワークを使用し大手コンピューター関連企業が独自のネットワークを構築し日本におけるインターネット開発の基礎が形成された。1988年10月に智惠さんが、久しぶりに7日間の休暇をとってレンタカーで、家族3人、熱海、箱根、御殿場、甲府、へ行き、温泉に入り、箱根、芦ノ湖の遊覧船に乗って湖畔から眺める冨士の霊峰をながめて、湖畔のホテルに泊まった。

 その後、美味しい洋食をいただき露天風呂からの景色を堪能して、床についた。翌朝、御殿場へ出かけ、美味しい洋食の昼食をいただき甲州へ入り湯村温泉の老舗ホテルに泊まって素晴らしい日本庭園を散歩して温泉につかった。その後、この数年の疲れを癒やして東京へ帰った。帰ってから智惠さんが、もっと良い所へ引っ越さないかと提案した。

 要望を聞くと、緑が多くて都心に近いと言い、探し歩いて目黒川沿いの月18万円の豪華マンションに引っ越すことに決めた。休暇中に契約を済まして来週の土日に引越しする事にした。そして1988年11月に新居へ引越、家財道具も買い換えた。その後、智惠さんの会社のある大手町まで通勤が15分となった。やがて1988年が去り1989年を迎えた。
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