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1話:安田が日本初パソコンキットTK80の販売

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 安田武夫と清水律子は橫浜と川崎の境の橫浜東北部の古い農家の集落に生まれた。そこには安田と清水という名字が多かった。山里で田んぼと里山の自然に恵まれて山菜、セリ、ノビロ、フキなど食べられる野草も多く、どじょうもとれた。春には里山に多くのタケノコが出て、夏になると自然薯もみつかり、秋になるとクリタケ、ナラタケ、ナメコもとれ、事前豊かな環境に育った。

 安田武夫の父、安田良介は地元と歴史ある自治会の自治会長を長い間をして電気屋を経営して電灯の交換やアンテナ、エアコン、家の配線設備、電化製品の修理、販売をしていて、既にハイエースのバンを持っていて富豪とまでは行かないが良い生活をしていた。清水律子の家は昔から町の商店で子供向けのお菓子や雑誌、漫画、文房具、石鹸、洗剤、生活用品を手広く扱って商店だった。

 そして清水律子の父の清水浩三が自治会の副会長をしていたので安田家と清水家は家は親しくしていてた。そのため安田武夫と清水律子は幼なじみで小さい頃から遊んでいた。2人は地元の小学校、中学校を卒業して安田武夫は理科、数学が得意、清水律子は国語、社会が得意で英語に興味を持っていた。

 安田武夫が1968年3月に地元の中学を卒業して近所に出来た工業高等専門学校の電気科に合格して自転車で通学していた。そして安田家によく遊びに来る清水律子の勉強を見てやっていた。中学2年生になってから清水律子が安田武夫の家のリビングで勉強を教え始めた。安田武夫は清水律子が国語、社会の成績が5段階の5、英語が4だったが、数学と理科が3で、これを上げることを目標にし始めた。

 そして最初に暗算、珠算の訓練を始めた。これが終了してからは数学の定理の証明、1次、2次関数、図形を教え、理科は細胞、元素、周期律表の暗記、電気、化学反応、イオン、物質、運動などになれることから始めた。 少しずつ理解して中学2年の2学期で数学が4に、3学期に理科が4、英語が5になった。

 そして清水律子が中学3年になり受験する高校を地元の名門・川和高校と決めた。その後は一度教えたところの復習をして、次に川和高校の以前の受験問題を始めた。中学3年の2学期に数学が始めて5となり自信がついてきた。そして、3年の最後は、理科と国語が4で、それ以外が5となった。そして1970年3月に川和高校を受験して合格した。

 その後、清水律子が地元の進学塾に入り勉強して上智大学をめざし、将来は英語を生かして欧米で仕事をしたいと言う夢を描いていた。数学も得意になり英語も得意になり文学、外国文学を読んで感動して翻訳や実際に小説を書いてみたいと考えていた。高校2年の一斉テストの結果合格確率が75%となって、もう一息と言うところまで来た。高校3年生になり、遂に合格確率が80%となり上智大学に合格し、1973年4月から通い始めた。

 家から自転車で柿生駅から新宿経由で四谷まで1時間程で着き、上智大学の正門横の聖イグナチオ教会の雰囲気も最高。大学のキャンパスの感じも気に入り、英語で語り合うのにもだんだんと慣れていった。ちょうど同じ年1973年4月に安田武夫は地元の高専の電気科を卒業して日本電気・NECに就職した。その時に関西の高専を出た先輩のいる集積回路事業部に配属された。しかし、この部署は化学の専門家、回路が専門の電気屋、ソフトウェアの専門科の寄り集まりの集団だった。その後も集積回路に関する勉強会に参加して勉強していった。

 1973年4月にNECに入社し、土曜日午後に国会図書館へ行き、米国の文献を調べていると1972年にアラン・ケイがエーシーエム・ナショナル・カンファレンスで発表した「ア・パーソナルコンピューター・フォー・チルドレン オブ・オール・エイジ」の中で使用された。ここでは「個人のための理想のコンピュータ」という意味であり、それを「ダイナブック」と命名した。

 最初のパーソナルコンピュータとされる事が多いアルタイラ8800が1974年の末に生まれる。完成させると「箱にランプとスイッチ」というミニコンスタイルのコンピュータができあがるキットはそれ以前からあったにはあったが、アルタラが初の安価なヒット製品であった。それ以降2~3年ほどの間でアップル1のようにCRT、ディスプレイやキーボードを接続するよう設計されているもの。

 その他入出力が工夫された多数のマイコンキットが現れた。安田武夫は入社後、1976年8月3日、日本電気は「TK80」を発売した。それは、マイクロコンピュータ・マイコンの拡販を目的として、マイコンのことを理解してもらうための「トレーニングキット」だった。サイケデリックな箱の中身はインテル社の8ビットマイコンi8080と互換性のある μPD8080Aをはじめ入力用のキーボード、表示装置など。

 その他に組立て用の工具まで入っており、ハンダ付けなどの組立てをユーザー自身でできるようになっていた。そして、もう一つ、完全な回路図が添付されていた。マイコン販売部は半導体部門に属しており「部品屋」が組立品を作ることはタブーとされていた。いわば社内ベンチャーとしてスタートし、部長の渡辺和也や部下の後藤富雄らの苦労とアイデアの結果生まれた。

 そして「TK-80」は、渡辺らの予想を越えた好評を博した。1976年に開設した秋葉原のサービスセンター「Bit-INN『ビットイン』」にはエンジニアだけでなく学生,教授,医師などいろいろな人々が詰めかけた。彼らのフレッシュなレスポンスが、やがて「PC8001」を生んだ。その後、NECで働き、地道に、お金を貯めていた。

 そして1976年8月3日に発売されたばかりの日本初のパソコンTK80・トレーニングキット80を注文して10月に値引き後8万円で購入した。この機械はマイクロコンピューター・システム開発のためのトレーニングキットで高価な端末装置を必要としないという点が当時のアマチュアの目に留まりTK-80は本来の意図とは異なり相当数がコンピュータマニアに購入されることになった。

 そして最初はTK80を更に高度にした新製品の開発のグループに配属されて夜遅くまで議論したりして2年後の1979年9月に日本初のパーソナルコンピューター「当時はマニアの中でマイコンと呼ばれていた」PC8001を新発売し、秋葉原駅前のラジオ会館7階に、マイクロコンピュータの普及の拠点としてNECビット・インが開設され、マイコンに関する、あらゆる情報の拠点として、情報を発信したりしていた。

 逆に、マニアが集い、いろんな、利用法、ユーザー情報が集められてマニアの交流の場ともなった。PC8001は日本で1979年5月9日に発表され、9月20日に出荷が開始された。9月28日がパソコン記念日。しかしパソコンの日としてこの機種の発売日を根拠とした日付として語られることが多いが記念日の名称すら諸説あり、NECの公式な見解は1979年9月となっている。
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