2 / 19
2話:日本初のパソコンPC8001新発売
しおりを挟む
希望小売価格は16万8千円で日本では輸入品を除けば半完成品・セミキットが、ほとんどであった当時のマイコンの中で、本格的な完成品として登場し、ハード・ソフトとも高い機能と完成度を誇った。PC8001は「パーソナルコンピュータ 」を商標に据えて宣伝し1980年代初めにはNECのPCシリーズ展開を先導した日本のパソコンの代表的機種となった。
1981年8月にはアメリカ合衆国で「PC8001A」が1295ドル・32K・RAMシステムで発売された。FCCが規制する電波障害の対策を施しカナ文字の代わりにギリシャ文字を表示できるようになっていた。1981年10月には西ドイツに日本電気ホームエレクトロニクスの支社が設立されPC8001が発売された。
PC8001は1979年5月のマイクロコンピュータ・ショウでの発表直後に数千台のバックオーダーを抱え、9月の出荷開始から1万台近くの受注残を消化するまでに半年以上を要した。1981年には日本のパソコンシェアの40%余りを獲得し1983年1月の販売終了までに累計25万台を出荷した。
NECのパソコン販売網であるNECマイコンショップは、1979年の時点で7店舗であったのが、1980年に15店舗、1981年中に100店舗を超え、1983年には200店舗を超えた。PC8001発売当時はパソコン自体が一般に浸透しておらず、NECの電子部品販売部門がパソコンを開発していたことはNEC社内でもあまり知られていなかった。
しかし1980年12月、PC8001の存在を知った小林宏治「当時、日本電気会長」の発案で300人余りの幹部を対象にPC8001を使った社内研修を実施。マイクロコンピュータ販売部は1980年6月にマイクロコンピュータ応用事業部へ改組され、1981年4月にパーソナルコンピュータ事業部として独立してようやく事業活動が社内で公認された。
PC8001がマイクロソフトのBASIC・ベーシック「コンピューター簡易言語」を採用して「標準仕様」を宣伝した事とは、教育現場への採用を促した。1981年、神奈川県立茅ヶ崎西浜高等学校が17台のPC8001を導入し普通科高校で初めて選択科目として情報教育を始めた。
1982年4月に放送が始まったNHK教育テレビの趣味講座「マイコン入門」ではPC8001が教材に採用されたが、商品名を出すことができないため型番を隠され「機種X」と呼ばれていた。番組用テキストの『マイコン入門 昭和57年度 前期』は70万部が発行される大ヒットとなった。
PC8001のヒットについて、当時の日本電気電子デバイス販売事業部長は、後年に次のようにコメントした。最大の要因は16万8千円という価格の設定であった。商品力から言えば22~23万円の線が妥当というのが多数意見であったが、担当の渡辺和也マイコン販売部長は断乎として16万8千円を譲ろうとしなかった。
結局、大内専務の裁定で渡辺案に決まったのだが、あの時の彼の頑固さは見上げたものだった。他にPC8001発売時の爆発的ヒットの要因としては、コストパフォーマンスが優良であったこと、発売のタイミングがよかったこと、NECマイコンクラブによるPRの徹底、マイコンやデバイスのNECへの信用、秋葉原ビットインやマイコンショップなど販売サービス網が先行していたこと、デザインが良かったことが挙がった。
1975年に清水律子が橫浜市立大学国際教養学部に入り、1時間の通学となった。それでも希望通りの大学に入れて希望を胸に通い始めた。この学部は哲学・身体科学・心理学・文学・言語学・歴史学・社会学・法学・国際関係学・地域研究などの人文・社会学を中心に、社会・文化・人間の活動の本質を理解するために必要な学問領域を学び、豊かな教養力を養う学科。
特に清水律子は外国の文学を通じて社会・文化・人間の活動を学ぼうと考えた。そして目標は世界の人々の間の相互理解に貢献したい事と外国語をその背景となる文化・歴史から理解したいと考えた。そのために海外からの学生と接する機会が増えた。そこで、信じられないほど頑張って英語漬けの毎日を送り、文字通りに英語を身に付けていった。すると不思議なもので英語の本を自然に、すらすら読めるようになった。
そして英語の授業の内容を十分に理解できるようになった。その後、空いてる時間に英語の家庭教師をして遊興費、外食代を稼ぎ出していた。そして橫浜市立大学の図書館でアメリカ、イギリス、ロシア、ドイツ、フランスなど外国の小説を借りて読みあさった。そして英語の家庭教師も学生相手でなく、もっと料金の高い社会人向けの家庭教師に切り替えて、月に5万円も稼ぐようになった。
その語学力を磨き、橫浜市立大学国際教養学部を卒業するまでにTOIEC900点、実用英語検定1級を取得した。そして大学を卒業しM物産の海外事業部に1979年4月に入社した。その後、2年目の1980年からニューヨークで働き始め1年間働き、その後、イギリスのロンドンでシティでキャリアを1981年から1年間、積んで1982年に日本に帰ってきた。
そのキャリアを生かして大学卒業して海外に勤務する若い社員の英語の教師となった。最初は英語の発音や話し方、交渉の仕方、その後に、交渉の始め方を教えた。続いて、交渉相手への揺さぶり、落とし方、交渉成功の方法のケーススタディまで2週間でたたき込む仕事に当たった。そして、東京の大手町近くのM物産の女性寮に入り通勤は徒歩10分だった。
仕事が早く終わった日は、銀座、日本橋、界隈の有名なレストラン。割烹料理屋、洋食屋など外国人を接待できる店を探して食べ歩いた。もちろん、一部の経費は会社持ちであり、清水律子は飲んで、食べて、歌って、踊ってと仕事半分遊び半分の良い生活を歩むことが出来た。その当時は日本も好景気でバブルに突き進んでいる、いわゆる、イケイケの時代だった。
1981年8月にはアメリカ合衆国で「PC8001A」が1295ドル・32K・RAMシステムで発売された。FCCが規制する電波障害の対策を施しカナ文字の代わりにギリシャ文字を表示できるようになっていた。1981年10月には西ドイツに日本電気ホームエレクトロニクスの支社が設立されPC8001が発売された。
PC8001は1979年5月のマイクロコンピュータ・ショウでの発表直後に数千台のバックオーダーを抱え、9月の出荷開始から1万台近くの受注残を消化するまでに半年以上を要した。1981年には日本のパソコンシェアの40%余りを獲得し1983年1月の販売終了までに累計25万台を出荷した。
NECのパソコン販売網であるNECマイコンショップは、1979年の時点で7店舗であったのが、1980年に15店舗、1981年中に100店舗を超え、1983年には200店舗を超えた。PC8001発売当時はパソコン自体が一般に浸透しておらず、NECの電子部品販売部門がパソコンを開発していたことはNEC社内でもあまり知られていなかった。
しかし1980年12月、PC8001の存在を知った小林宏治「当時、日本電気会長」の発案で300人余りの幹部を対象にPC8001を使った社内研修を実施。マイクロコンピュータ販売部は1980年6月にマイクロコンピュータ応用事業部へ改組され、1981年4月にパーソナルコンピュータ事業部として独立してようやく事業活動が社内で公認された。
PC8001がマイクロソフトのBASIC・ベーシック「コンピューター簡易言語」を採用して「標準仕様」を宣伝した事とは、教育現場への採用を促した。1981年、神奈川県立茅ヶ崎西浜高等学校が17台のPC8001を導入し普通科高校で初めて選択科目として情報教育を始めた。
1982年4月に放送が始まったNHK教育テレビの趣味講座「マイコン入門」ではPC8001が教材に採用されたが、商品名を出すことができないため型番を隠され「機種X」と呼ばれていた。番組用テキストの『マイコン入門 昭和57年度 前期』は70万部が発行される大ヒットとなった。
PC8001のヒットについて、当時の日本電気電子デバイス販売事業部長は、後年に次のようにコメントした。最大の要因は16万8千円という価格の設定であった。商品力から言えば22~23万円の線が妥当というのが多数意見であったが、担当の渡辺和也マイコン販売部長は断乎として16万8千円を譲ろうとしなかった。
結局、大内専務の裁定で渡辺案に決まったのだが、あの時の彼の頑固さは見上げたものだった。他にPC8001発売時の爆発的ヒットの要因としては、コストパフォーマンスが優良であったこと、発売のタイミングがよかったこと、NECマイコンクラブによるPRの徹底、マイコンやデバイスのNECへの信用、秋葉原ビットインやマイコンショップなど販売サービス網が先行していたこと、デザインが良かったことが挙がった。
1975年に清水律子が橫浜市立大学国際教養学部に入り、1時間の通学となった。それでも希望通りの大学に入れて希望を胸に通い始めた。この学部は哲学・身体科学・心理学・文学・言語学・歴史学・社会学・法学・国際関係学・地域研究などの人文・社会学を中心に、社会・文化・人間の活動の本質を理解するために必要な学問領域を学び、豊かな教養力を養う学科。
特に清水律子は外国の文学を通じて社会・文化・人間の活動を学ぼうと考えた。そして目標は世界の人々の間の相互理解に貢献したい事と外国語をその背景となる文化・歴史から理解したいと考えた。そのために海外からの学生と接する機会が増えた。そこで、信じられないほど頑張って英語漬けの毎日を送り、文字通りに英語を身に付けていった。すると不思議なもので英語の本を自然に、すらすら読めるようになった。
そして英語の授業の内容を十分に理解できるようになった。その後、空いてる時間に英語の家庭教師をして遊興費、外食代を稼ぎ出していた。そして橫浜市立大学の図書館でアメリカ、イギリス、ロシア、ドイツ、フランスなど外国の小説を借りて読みあさった。そして英語の家庭教師も学生相手でなく、もっと料金の高い社会人向けの家庭教師に切り替えて、月に5万円も稼ぐようになった。
その語学力を磨き、橫浜市立大学国際教養学部を卒業するまでにTOIEC900点、実用英語検定1級を取得した。そして大学を卒業しM物産の海外事業部に1979年4月に入社した。その後、2年目の1980年からニューヨークで働き始め1年間働き、その後、イギリスのロンドンでシティでキャリアを1981年から1年間、積んで1982年に日本に帰ってきた。
そのキャリアを生かして大学卒業して海外に勤務する若い社員の英語の教師となった。最初は英語の発音や話し方、交渉の仕方、その後に、交渉の始め方を教えた。続いて、交渉相手への揺さぶり、落とし方、交渉成功の方法のケーススタディまで2週間でたたき込む仕事に当たった。そして、東京の大手町近くのM物産の女性寮に入り通勤は徒歩10分だった。
仕事が早く終わった日は、銀座、日本橋、界隈の有名なレストラン。割烹料理屋、洋食屋など外国人を接待できる店を探して食べ歩いた。もちろん、一部の経費は会社持ちであり、清水律子は飲んで、食べて、歌って、踊ってと仕事半分遊び半分の良い生活を歩むことが出来た。その当時は日本も好景気でバブルに突き進んでいる、いわゆる、イケイケの時代だった。
0
あなたにおすすめの小説
どうしよう私、弟にお腹を大きくさせられちゃった!~弟大好きお姉ちゃんの秘密の悩み~
さいとう みさき
恋愛
「ま、まさか!?」
あたし三鷹優美(みたかゆうみ)高校一年生。
弟の晴仁(はると)が大好きな普通のお姉ちゃん。
弟とは凄く仲が良いの!
それはそれはものすごく‥‥‥
「あん、晴仁いきなりそんなのお口に入らないよぉ~♡」
そんな関係のあたしたち。
でもある日トイレであたしはアレが来そうなのになかなか来ないのも気にもせずスカートのファスナーを上げると‥‥‥
「うそっ! お腹が出て来てる!?」
お姉ちゃんの秘密の悩みです。
私が王子との結婚式の日に、妹に毒を盛られ、公衆の面前で辱められた。でも今、私は時を戻し、運命を変えに来た。
MayonakaTsuki
恋愛
王子との結婚式の日、私は最も信頼していた人物――自分の妹――に裏切られた。毒を盛られ、公開の場で辱められ、未来の王に拒絶され、私の人生は血と侮辱の中でそこで終わったかのように思えた。しかし、死が私を迎えたとき、不可能なことが起きた――私は同じ回廊で、祭壇の前で目を覚まし、あらゆる涙、嘘、そして一撃の記憶をそのまま覚えていた。今、二度目のチャンスを得た私は、ただ一つの使命を持つ――真実を突き止め、奪われたものを取り戻し、私を破滅させた者たちにその代償を払わせる。もはや、何も以前のままではない。何も許されない。
上司、快楽に沈むまで
赤林檎
BL
完璧な男――それが、営業部課長・**榊(さかき)**の社内での評判だった。
冷静沈着、部下にも厳しい。私生活の噂すら立たないほどの隙のなさ。
だが、その“完璧”が崩れる日がくるとは、誰も想像していなかった。
入社三年目の篠原は、榊の直属の部下。
真面目だが強気で、どこか挑発的な笑みを浮かべる青年。
ある夜、取引先とのトラブル対応で二人だけが残ったオフィスで、
篠原は上司に向かって、いつもの穏やかな口調を崩した。「……そんな顔、部下には見せないんですね」
疲労で僅かに緩んだ榊の表情。
その弱さを見逃さず、篠原はデスク越しに距離を詰める。
「強がらなくていいですよ。俺の前では、もう」
指先が榊のネクタイを掴む。
引き寄せられた瞬間、榊の理性は音を立てて崩れた。
拒むことも、許すこともできないまま、
彼は“部下”の手によって、ひとつずつ乱されていく。
言葉で支配され、触れられるたびに、自分の知らなかった感情と快楽を知る。それは、上司としての誇りを壊すほどに甘く、逃れられないほどに深い。
だが、篠原の視線の奥に宿るのは、ただの欲望ではなかった。
そこには、ずっと榊だけを見つめ続けてきた、静かな執着がある。
「俺、前から思ってたんです。
あなたが誰かに“支配される”ところ、きっと綺麗だろうなって」
支配する側だったはずの男が、
支配されることで初めて“生きている”と感じてしまう――。
上司と部下、立場も理性も、すべてが絡み合うオフィスの夜。
秘密の扉を開けた榊は、もう戻れない。
快楽に溺れるその瞬間まで、彼を待つのは破滅か、それとも救いか。
――これは、ひとりの上司が“愛”という名の支配に沈んでいく物語。
あるフィギュアスケーターの性事情
蔵屋
恋愛
この小説はフィクションです。
しかし、そのようなことが現実にあったかもしれません。
何故ならどんな人間も、悪魔や邪神や悪神に憑依された偽善者なのですから。
この物語は浅岡結衣(16才)とそのコーチ(25才)の恋の物語。
そのコーチの名前は高木文哉(25才)という。
この物語はフィクションです。
実在の人物、団体等とは、一切関係がありません。
百合ランジェリーカフェにようこそ!
楠富 つかさ
青春
主人公、下条藍はバイトを探すちょっと胸が大きい普通の女子大生。ある日、同じサークルの先輩からバイト先を紹介してもらうのだが、そこは男子禁制のカフェ併設ランジェリーショップで!?
ちょっとハレンチなお仕事カフェライフ、始まります!!
※この物語はフィクションであり実在の人物・団体・法律とは一切関係ありません。
表紙画像はAIイラストです。下着が生成できないのでビキニで代用しています。
ちょっと大人な体験談はこちらです
神崎未緒里
恋愛
本当にあった!?かもしれない
ちょっと大人な体験談です。
日常に突然訪れる刺激的な体験。
少し非日常を覗いてみませんか?
あなたにもこんな瞬間が訪れるかもしれませんよ?
※本作品ではGemini PRO、Pixai.artで作成した生成AI画像ならびに
Pixabay並びにUnsplshのロイヤリティフリーの画像を使用しています。
※不定期更新です。
※文章中の人物名・地名・年代・建物名・商品名・設定などはすべて架空のものです。
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる