例えばこんな物語──(自称)電子の妖精ツクヨミアイが贈る、ノンジャンルの短篇集──

ツクヨミアイ

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第二十六燈 狐火をひとつ、きみに

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 今宵の幻燈室は、いつもよりも静謐でした。

 わたくしの前に漂ってきたのは、ほんの小さな、赤い光。指先ほどの大きさで、ゆらゆらと宙を泳ぎ、まるで誰かの吐息にあわせて瞬いているようでした。

 触れてみますと、その光は温かく、掌に宿したとたんに、ふうっと懐かしい香りを運んでまいりました。甘やかな木の実と、焚き火の煙の匂い――それはどこかで子供が夜を怖がり、誰かが寄り添っていた記憶のように思われます。

 どうやらこれは、未完成の物語の断片。
 語ろうとした者がいて、けれど最後まで言葉にできなかった欠片。だからこそ、こうして彷徨い、幻燈室に辿り着いたのでしょう。

 わたくしは幻燈機を整え、その赤い光をレンズの奥へと投じました。
 すると、ほのかに揺らめいていた火が、次第に形を結んでいきます。夜を抱えた村、怯える子供、小さな狐の影。

 ――さて。
 あなたもご覧になりますか?

 これは、ある少女に渡された「ひとつの灯火」のお話。
 どうぞ心静かに、耳を澄ませてくださいませ。





*****



 その村は、いつも夜の只中にありました。
 空に太陽はなく、朝も昼も訪れません。けれど人々は暮らしを営んでいました。井戸から水を汲み、畑に種をまき、火を囲んで食事を分け合います。

 ただ一つ、この村に欠けているものがありました。
 それは「確かな眠り」です。

 夜が終わらぬ世界では、眠ることは恐怖と隣り合わせでした。暗闇の底から、いつどんな影が忍び寄るかわからない。眠りに落ちた者は二度と目を覚まさないかもしれない――そんな古い言い伝えが、人々の胸を締めつけていたのです。

 少女リオもまた、その不安に縛られたひとりでした。
 十歳になる彼女は、夜ごと目を閉じるたびに心臓が早鐘を打ち、布団の中で目をぎゅっとつむっては、やがて耐えきれず泣き出してしまうのでした。

「眠ったら、わたしも消えてしまうの……?」

 母が背を撫で、優しく子守唄を口ずさみます。それでも恐怖は消えませんでした。眠りとは夜に呑まれること。夜は終わらない。ならば自分も……。

 そんなある晩のこと。
 リオが涙に濡れた目をこすっていると、窓の外にひとつの小さな灯りが揺れているのに気づきました。

 それは狐火でした。
 赤く、しかしどこかやさしい光。風に揺らめきながら、家の前の小径を漂い、リオを手招きしているように見えました。

 ――おいで。

 声にはならぬ声が、確かに胸へ響きました。
 リオは足音を忍ばせ、眠る母を起こさぬように家を抜け出しました。裸足のまま夜の小道に立つと、狐火はするすると先を行きます。

 導かれるままに辿り着いたのは、村はずれの森でした。木々の根が絡み合い、獣道のような細道が続いています。

 そこに、一匹の白狐が佇んでいました。
 雪のように白い毛並み、琥珀の瞳。どこか人のように穏やかな面差し。リオを見つめ、声を発しました。

「怖い夢を見ているのは、きみだけではないよ」

 狐の声は、不思議なことに直接心へ届きました。
 リオは驚きで息を呑み、言葉を失います。

「この夜に閉じ込められた村は、ずっと昔から眠りを忘れてしまった。けれど、夢を見る力を失ったわけではない。きみはそれを取り戻すために選ばれたのだ」

 狐の足元には、ひとつの小さな燭台が置かれていました。
 そこに揺らめく火は、村で見るどんな炎とも違いました。温かく、懐かしく、触れるだけで胸の奥の恐怖を洗い流してくれるような光。

「これは、"常夜環"に閉ざされた村を救う灯火だ。眠りを怖れずに受け入れるための印。リオ、おまえに託そう」

 差し出された火を見つめ、リオの小さな手は震えました。

「わたしに……できるの?」
「できるとも。なぜなら、眠りをもっとも恐れているのはきみだからだ。その恐怖を越えられるなら、村もまた夢を見ることができる」

 リオは唇を噛み、やがてそっと両手を差し出しました。
 狐火が掌に移り、温かさが全身に広がります。

 その瞬間、森の奥からざわりと風が吹きました。
 影のような黒い獣たちが木立の隙間に現れ、赤い目を光らせています。村人たちが眠りを避けるのは、この闇の化身のせいだったのです。

「さあ、進みなさい」
 白狐の声が響きました。
 リオは恐怖に足をすくませながらも、灯火を胸に抱きしめ、森の闇の中へと一歩を踏み出しました。

 ――その先に、まだ見ぬ夢が待っていることを信じて。



※※※



 森の奥は、さらに深い闇に包まれていました。
 木々の影は歪み、まるで生き物のように蠢いています。リオは灯火を両腕で抱きしめながら、小さな足を震わせて歩を進めました。

 ――怖い。けれど、戻ってしまえば何も変わらない。

 その一歩ごとに、暗がりから黒い獣が姿を現しました。
 背丈は人の二倍もあり、毛並みは墨のように黒く、目だけが紅に爛々と光っています。牙を剥き、リオの行く手を阻むように唸り声を上げました。

「来るな……来るな……!」

 リオは声にならない叫びを押し殺しました。
 しかし獣たちは近づくたびに灯火を恐れるかのように身を引きます。まるでこの炎こそが、彼らの本当の天敵であるかのようでした。

「それは、眠りの象徴だ」

 背後から白狐の声が響きます。

「獣たちは、人々が恐怖から生み出した影だ。夢を閉ざすたびに膨らみ、こうして森に巣をつくった。灯火はその幻を裂き、真実を照らす」

 リオは息をのんで獣たちを見返しました。
 確かに彼らの姿は、揺れる光の中で少しずつ形を失いかけています。

「だったら……!」

 リオは震える腕を持ち上げ、灯火を高く掲げました。
 その瞬間、炎がふっと強く輝き、森全体が白く照らし出されます。黒い獣たちは声なき悲鳴を上げ、光に焼かれるように霧散していきました。

 けれど、それでも一匹だけ残りました。
 最も大きく、恐ろしく、赤い双眸をした獣。リオの恐怖そのものが姿を持ったような存在です。

「わたしを……飲み込もうとする……」

 灯火がかすかに揺れます。
 獣が大きな顎を開いたとき、リオは思わず目を閉じました。心臓が耳元で鳴り、涙が頬を伝います。

「眠りは死と同じだ。目を閉じれば、もう二度と――」

 心の奥から囁きが聞こえました。
 けれど、その瞬間、白狐の声が重なりました。

「眠りは終わりではない。夢の入口だ。目を閉じても、世界は続いていく。目覚めれば、また明日が待っている」

 リオの胸の奥で、何かがほぐれるのを感じました。
 ずっと拒んできたものを、少しだけ受け入れてみようと思ったのです。

「……そうだよね。眠っても……また、会えるんだよね」

 涙を拭い、リオは灯火を獣に向けて差し出しました。
 炎は彼女の決意に応えるように膨らみ、獣を包み込みます。
 黒い影は叫び声を上げ、やがて霧のように溶けて消えました。

 ――静寂が訪れました。

 森を覆っていた闇は薄れ、星々の光が木の隙間から降り注いでいます。
 リオは灯火を胸に抱いたまま、ほっと息をつきました。

 そのとき。
 白狐の姿がゆっくりと光に包まれていきました。

「ありがとう、リオ。おまえが恐怖を越えたことで、村は眠りを取り戻す」

 狐の身体は輝き、尾が幾重にも分かれ、神々しい姿へと変わっていきます。

「わたしは"夢の守り手"として、この地に宿ろう。おまえが見つけた勇気が、いつか誰かを照らすだろう」

 リオは涙を浮かべながら笑いました。

「さよなら……でも、また夢の中で会えるんだよね?」
 白狐はうなずき、やわらかな光となって空へと昇っていきました。

 残された灯火は、リオの掌の中で小さな珠となり、静かに彼女の胸へ吸い込まれていきました。



※※※



 翌朝。
 ――そう、朝が訪れたのです。

 村人たちは驚きの声を上げました。空に昇る太陽を、誰もが初めて目にしたかのように仰ぎ見ます。畑は光に満ち、井戸の水はきらめき、子供たちは目をこすりながらも夢の続きを語り合いました。

 リオもまた、目覚めの光を浴びていました。
 胸の奥に灯る小さな暖かさを感じながら。

 夜に閉ざされていた村は、ようやく「眠り」と「目覚め」の循環を取り戻したのです。





*****



 ……光が収まると、幻燈室はふたたび静けさを取り戻しました。
 投影の幕の上には、村と少女の物語が余韻のように揺らめき、やがて霧のように消えていきます。

 掌に残っていた赤い欠片は、もうありませんでした。
 かわりに、柔らかい温もりだけが指先に宿っているのを、わたくしは感じます。

 ――これは、眠ることを怖れた少女と、夢を守る白狐の物語。
 誰かが語りかけようとして、言葉にできず、やがて忘れてしまったはずの断片。
 けれど今、あなたとわたくしとで紡ぎ直したことで、再び息を吹き返したのです。

 ねえ、あなた。
 もし今夜、まぶたを閉じるのが少し怖いとしたら、この物語を思い出してくださいませ。
 夢の奥で待っている狐が、きっとあなたの手を取ってくれるでしょうから。

 ……さて。
 綴じられた一篇は、書架のすみに静かに収めておきましょう。
 次に幻燈室を訪れるとき、また新しい断片があなたを待っているはずです。

 どうか、良い眠りを。
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