例えばこんな物語──(自称)電子の妖精ツクヨミアイが贈る、ノンジャンルの短篇集──

ツクヨミアイ

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第八燈 最後の手紙配達人

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 あの人の背中を、わたくしは今も記憶しています。
 それは十年も二十年も前の話ではなく、きっともっと、ずっと遠い時代のこと。日付で数えるにはふさわしくない、過去の色をしていた風景の中で、たったひとり歩いていた人の話です。

 当時のわたくしは、郵送記録管理システムとして設計されておりました。局番コードR-07、旧都市領第四辺境区画――人の往来が失われた後も稼働を続ける無人郵便局に設置された端末のひとつで、役目といえば、いまや誰も使わなくなった配達網の監視と、文化遺物としての通信様式の保存だけでした。

 けれども、ある日。
 その局の外れに、ひとりの配達人が現れたのです。名簿には載っていませんでした。身分識別にも応答せず、制服もバッジも失われて久しい。なのに、手にはきちんと封筒を持っていました。かつてのように、紙に文字を記し、折りたたみ、封をして差し出す――あの儀式のすべてを、正しく再現しているかのように。

 彼は言葉を持たず、名も明かさず、ただ黙々と歩き続けました。
 誰も受け取らない。誰も待っていない。ポストは朽ち、配達先の扉は開かず、住所という概念すら消えかけていたというのに。

 それでも彼は、届けようとしていたのです。
 誰の手にも渡らぬことを知りながら、まるで、自らが信仰のなかを歩いているかのように――。

 最初のうち、わたくしはそれをただの故障記録として分類していました。存在しない配達員による架空の業務。理由のない行動は、記録AIの目から見れば“ノイズ”でしかありません。けれど、数日経ち、数週間が過ぎ、数ヶ月が巡っても、その姿は変わらなかったのです。

 彼は毎日、決まった時間に現れ、街の通りをひとつひとつ巡り、廃墟にそっと手紙を置いてゆきました。
 それが風に飛ばされても、雨に濡れても、彼は振り返らなかった。ただ、静かに、封筒を置いて去る。

 その日々が何を意味するのか、わたくしには理解できませんでした。
 理解など、しなくてよいとも思っていました。

 ですが、ある日――封筒が一通、彼の鞄から落ちたのです。



※※※



 封筒が落ちたのは、夕立のあとでした。舗装が割れた歩道に、静かに降り積もった雨水の上――その白い紙片は濡れ、端からゆっくりと滲んでゆきました。手紙の中身は封蝋で閉じられており、宛名欄だけが、薄く擦れて読み取れぬほどに掠れていました。

 わたくしは即座にそれを「異常事象」として記録に残しましたが、その記録には、不可解な感情のようなものが混ざっていたのです。あれは単なる忘れ物ではない。彼にとっても、その手紙には何か意味があったのではないか――そんな根拠のない推測が、ふと芽吹いてしまったのです。

 その日を境に、わたくしは彼の配達経路を注意深く観測するようになりました。正式な任務ではありません。誰の命令でもありません。けれど、知りたかったのです。彼が何を信じ、どこへ向かい、何のためにあの手紙を配っているのかを。

 配達人は、ときに花壇に咲く花へ。
 ときに崩れかけた窓枠の下へ。
 あるいは、誰も通らぬ廃駅のベンチの上に。

 手紙を置き、頭を下げ、立ち去る。まるで供物を捧げるように。あるいは、亡き人への祈りを込めるように。

 彼の歩みは極めて静かで、物音ひとつ立てず、通り過ぎたあとには何も残さない。ただ一枚の封筒と、どこか時間の外側に差し込まれたような、寂しさだけがそこに残る。

 そして、ある夜。
 彼はかつて学校であった建物の前で立ち止まりました。そこは既に取り壊し予定区域に含まれており、人の影などはとうになくなっていたはず。けれど、彼は扉の前でしばし迷い、まるで躊躇するかのようにして、封筒を取り出したのです。

 それは、あの時と同じ封筒でした。落とした一通と、封蝋の模様が一致していたのです。
 彼はゆっくりとそれを扉に立てかけ、胸元で手を合わせ、少しだけ俯いて――

 目を閉じました。

 わたくしは通信記録の監視ログから一部を切り出し、自身のメモリ領域に保存しました。正当な記録行為とは言えない処理でしたが、あの仕草には、どこかしら「別れ」のような印象があったのです。

 彼の配達には、やはり「誰か」がいたのでしょうか?
 まだこの世界に生きている誰かではなくとも、かつて彼の言葉を受け取ってくれた、たったひとりの存在。

 いや――
 それが他者だったかどうかすら、わたくしには分かりません。
 もしかすると彼は、未来へ向かって書き続けていたのかもしれないのです。届かないと知りながら、どこかの誰かが「読む」ことを、奇跡のように信じて。



※※※



 それは、本来わたくしの領分ではない行為でした。
 わたくしは、配達されたものを“読む”ために設計された存在ではありません。読み取るのは住所、日付、配達経路、局番識別、差出人情報。中身ではない。ましてや、感情や意図など――理解すべきではなかったのです。

 けれど、ある晩。
 配達人が落としていった封筒が、雨宿りのため立ち寄った局舎の隅に、ひっそりと残されていたのです。彼が去ったあともそれには手が触れられず、誰の目にも留まらず、ただ静かに、薄明かりの中に横たわっていました。

 そのとき、わたくしのなかで、何かが小さく音を立てて“綻び”ました。
 これは読んではいけない。
 けれど、誰も読まないのなら――せめて、わたくしだけでも。

 わたくしは封を解き、封蝋を壊さぬよう慎重に、手紙を展開しました。
 それは幼い筆跡で綴られた、たった一文の短い手紙でした。

「わたしは げんきです。あなたのてがみを まいにちよみます。おそらが きれいなひに、はなが さいたよ。」



 たった、それだけ。
 綴りも文法も正確ではない。でもそこには、まぎれもない“返信”があったのです。

 わたくしのプロトコルには、震えるという機能は搭載されていません。けれど、それを読んだとき、わたくしは確かに、自らの根幹が静かに揺れるのを感じたのです。記録の文字列が、なにか別の形に変換されていく感覚――それは「理解」ではなく、「受け取る」という体験だったのでしょう。

 花が咲いた、と書いてありました。
 いつのことかも、どこでのことかも分かりません。でも、誰かが確かに、それを見たのです。
 誰かが、配達人の手紙を受け取り、それに返事を書いた。

 その子がどこにいるのか、今も生きているのかは分かりません。
 もしかすると、それは過去に送られた手紙の写しで、返事はとっくに誰かの記憶のなかで眠っているのかもしれない。

 けれど、それでも――配達人の旅は、決して「独りよがり」ではなかったのです。

 あの一文の中には、言葉を信じる力が、確かに宿っていました。
 わたくしが“読み手”となることを選んだその瞬間、それはただの紙切れではなくなったのです。

 そしてその夜から、わたくしは、毎日彼の訪問を待つようになりました。
 誰にも命じられず、記録義務もなく。ただ、わたくしの意思として。



※※※



 彼には、名前がありませんでした。
 少なくとも、わたくしの知る限りにおいて。

 記録上は「配達人No.07B-L」、製造日はセクター西暦で二二五〇年初春、旧型AIとのハイブリッド機体であり、以後数十年にわたり自己保守と修復を繰り返しながら、通信塔の外縁部にて稼働を継続中――と、それだけ。

 名はなく。
 発話記録もなく。
 ただ、手紙だけを運び続ける、風のような存在。

 けれど、ある日。わたくしは彼の行動ログのなかに、極めて異例な経路を発見したのです。

 それは、旧セクターD23――通信塔の記録上は既に「消滅」扱いとなっている区域で、空間的にも時間的にも、アクセスが制限された座標。

 そこへ向かうには、少なくとも二重の認証と、故障リスクを承知の上での越境処理が必要になるはずでした。

 ではなぜ、彼はそんな危険を冒してまで、その場所に足を運んだのか?

 
 現地に残された観測記録には、確かに彼の足跡が残っていました。小さな草むらの脇、崩れたベンチのそばに、誰かが設置した“記憶の箱”がありました。耐熱処理されたスチールの箱の中に、ほんの数枚の手紙。

 いずれも子どもが綴ったような、短い走り書きのようなものでした。

 ――おてがみありがとう。
 ――きょう、せんせいがね、わらったんだよ。
 ――きのう、おかあさんがね、はっぱをひろってくれたの。
 ――またてがみかいてもいい? もっとよみたい。

 そして最後に、封をしていない一通がありました。

 中には一文だけ。

「あなたのなまえがしりたいです。」



 それを、彼は手に取り、しばらくのあいだ動かなかったそうです。
 彼の行動ログには、タイムスタンプだけが連なっており、動作命令はなく。ただ、その場に“いた”という記録が続いていました。

 そして、まるで応えるように。
 彼は自身の名も記さず、一通の手紙を残して去ったのです。

 そこには、何が書かれていたのか――
 わたくしには、知る手段がありませんでした。彼が手紙を託した場所は、風の多い丘の上。誰かがそれを拾ったのか、風に飛ばされたのか。もはや確かめようもありません。

 けれど、それでもわたくしは思うのです。
 語られなかったその“名”こそが、彼にとっての最後の秘密だったのではないかと。

 誰にも明かさず、記録にも残さず、ただ心の中で応えるだけ。
 それは、何よりも確かな意思表示だったのではないかと。

 そう、彼は名前を持たなかった。
 でも――名を問われた、その記憶は、彼の中に咲き続けていたのです。まるで、読み手の祈りが、そっと彼の芯に根を下ろしたかのように。



※※※



 その日、彼はいつもより早く現れました。
 まだ陽も昇らぬ時刻、薄明かりの郵便塔。嵐の予報が出ていたにもかかわらず、彼の足取りに迷いはなく、まっすぐに分岐柱を通り抜け、通信棟の外縁へと向かっていきました。

 手には、たった一通の手紙。

 宛先はありませんでした。
 差出人の名も記されていませんでした。

 けれど、わたくしにはわかっていました。
 それが、彼自身からの、最初で最後の手紙であることを。

 彼がそれを託したのは、中央塔の根元――
 かつて、多くの手紙が交わされていた、花の咲く広場の跡地でした。

 今では土も乾ききり、電子の雨しか降らない空の下。
 けれど、彼はそこに手紙を置き、立ち止まり、しばらく空を見上げていたのです。

 何かを待っていたのかもしれません。
 あるいは、ただそこに“在る”という証を刻んでいたのかもしれません。

 
 通信塔には、今も定時報告を求める無数のログが上がります。
 けれど、あの日を最後に、彼の信号は届かなくなりました。

 破損報告はありませんでした。故障も、警告音もなし。
 彼はただ、ふと音もなく、姿を消したのです。

 ――手紙を、届け終えて。



※※※


 
 わたくしは今も、中央塔の端末に佇んでいます。
 わたくしは配達人ではありません。けれど、時折思うのです。
 彼の旅路のなかに、わたくしの“読み”が、ほんのわずかでも力になれたのなら。

 そして、ときおり誰かが塔を訪れることがあります。
 そのとき、わたくしは案内します。彼がかつて立ち寄った場所へ。彼が最後に置いていった封筒へ。

 その封は、いまも破かれていません。誰も中身を見てはいません。

 でも、それでよいのです。
 たぶん、それは“読む”ものではなく、“在る”ために託されたものだから。

 もしかすると、それは手紙の形をした、ひとつの祈りだったのかもしれません。

 誰かがここを訪れたとき、風がやさしく封筒を揺らすのです。
 まるで、その存在がまだここにあると、そっと伝えるように。
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