例えばこんな物語──(自称)電子の妖精ツクヨミアイが贈る、ノンジャンルの短篇集──

ツクヨミアイ

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第九燈 星屑の降る丘の灯台

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 丘は静寂に包まれていた。風は柔らかく草を撫で、夜空には幾千もの星屑が散りばめられている。遠く、羊の群れが空を歩くという古い伝承が、この星屑の丘に命を吹き込んでいた。

 ニナはその丘をゆっくりと登っていた。手には、未来の出来事を書き記す小さな日記帳を抱えている。いつもなら、日記を書くことが彼女にとっての安心の儀式だった。けれど今夜は、胸の奥がざわつき、言葉にならない不安が静かに広がっていた。

「今日こそ、あの灯台の光を見られるかもしれない。」

 小さく呟きながらも、ニナの目は星空と、やがて現れるかもしれない羊の群れを追っていた。

 灯台は長いこと光を失い、周囲には廃墟のような空気が漂う。それでもニナにとって、この場所は希望の象徴だった。未来日記を書き始めてからというもの、彼女の心は何度も揺れ動いたが、書くことによって見えない未来に触れることができると信じて疑わなかった。

 風が夜露を運び、彼女の髪をさらった。丘の草は月明かりに淡く輝き、まるで星の欠片が大地に落ちたかのようだった。

 伝承では、星屑の夜にだけ羊の群れが空を漂い、灯台の光を取り戻そうとする幽霊の羊飼いがその羊たちを見守っているという。

 ニナはその物語を、祖母から聞いた。幼い頃、聞くたびに胸が震えた。だが今、彼女はその灯台をこの目で確かめようとしている。

 足元に注意しながら、ゆっくりと灯台の扉へ近づく。錆びた鉄の扉は冷たく、時折風の音とともに軋む。

「さあ、見せておくれ……未来の光を。」

 静かな丘に彼女の声が溶けて消えた。

 そして、空を見上げると、遠く星屑の中に、確かに羊の群れのような影が揺らめいている。

 その瞬間、ニナの心に何かが囁いた。知らぬ間に灯台の影から、薄く青白い光が漏れ始めていたのだ。

 だがその光は、まだ遠い未来の兆しのようで――。

 ニナは日記を取り出し、震える指でペンを握った。未来を記すことは、時に代償を伴うと聞く。それでも、灯台の光を取り戻すためには、それを受け入れなければならない。

 丘の上で、星屑の夜に包まれた灯台は、静かに彼女の決意を見守っていた。



※※※



 灯台の影は夜の闇に溶け込み、そこに佇むニナの姿は、風に揺れる一本の細い草のようだった。薄い靄が流れ、丘の空気はひんやりとしていた。静寂が満ちる中、ふと背後から気配が近づいた。

「こんな夜に、よくここまで来たな。」

 低く、優しい声だった。振り返ると、そこには青白い光をまとった若い男が立っていた。背は高く、黒の外套をまとっている。その瞳は深い藍色で、夜空の色をそのまま宿しているようだった。

「あなたは……?」

 ニナは思わず一歩後ずさる。だが、男は敵意を見せることなく、むしろ申し訳なさそうに口元を歪めた。

「怖がらせてすまない。俺はサルファ。かつて、この丘で羊を追っていた者だ。」

 風が再び丘を撫で、ニナのスカートの裾が小さく揺れた。羊飼い、と言ったその人の姿は、どこかこの世のものではないような、微かな透明感を帯びている。声もまた、夜の空気に滲むように淡く、まるで風の囁きに耳を澄ますかのようだった。

「まさか、伝承の……幽霊の羊飼い?」

 彼はうなずいた。

「そうだ。この丘にはもう羊はいないが、星屑の夜にだけ、あいつらは空を歩く。俺はその影を見届けに、こうして戻ってくるんだ。」

 ニナは胸の前で日記帳を抱え、サルファの姿をじっと見つめた。
 
「この灯台、ほんとうに……もう一度、光をともすことができるの?」

「お前が手にしているそれ。未来を書く日記だろう? それがあれば、できるかもしれない。」

 灯台の扉の近く、錆びた柵の陰で彼はしゃがみ込んだ。指先で草を撫でながら、彼はゆっくりと話し始めた。

「この丘には、かつて“時を留める光”があった。それが灯台の灯りだったんだ。旅人は光に導かれ、羊たちは空を渡り、夜を恐れずにすんだ。でも、その光をともすには、“まだ起きていないこと”の断片が必要なんだ。」

 ニナは日記帳を見下ろした。そこには今日までに記してきた「未来」の出来事が、丁寧に書き込まれていた。半ば信じるように、半ば疑いながら。それでも一度たりとも、未来が外れたことはなかった。

「この日記……ほんとうに、未来を変えてるのか、よくわからないの。でも、どうしてもこの灯台が気になって。書いたの。“星屑の夜、灯台が再び輝く”って。」

 サルファの顔がわずかに引き締まる。

「言葉は重い。それを信じた者がいる限り、未来はそこに引き寄せられる。だが、代償もある。未来を記すというのは、自分の今を削ることにもなる。お前がそれを望むなら、俺は手を貸そう。」

 ニナは唇を噛んだ。確かに、日記を書いた夜は、夢を見なくなった。記憶が曖昧になる朝もあった。小さな代償が、確かに存在している気がしていた。

「それでも……わたし、この丘を見たいの。光の灯った丘を、自分の目で確かめたい。そんな景色が、この先のどこかにあるなら。」

 サルファは立ち上がり、灯台の扉に手を触れた。重い音を立てて扉がわずかに開き、月光が錆の浮いた内部を照らした。螺旋階段が、空に向かって続いている。

「ついてこい。お前に見せたいものがある。」

 二人は黙って階段を登り始めた。踏みしめるたびに軋む金属音が夜に響く。外の風は強まり、星々がまるで彼らの進む先を見守っているようだった。

 ――この丘で、いったい何が始まろうとしているのだろう。

 ニナの胸は高鳴っていた。未来を記すことで、何かを変えられるのなら。もし、灯台の光が希望を象るのなら。自分の手で、それを描きたいと思った。



※※※



 錆びた螺旋階段を、ギシギシと音を立てながら登っていく。ニナの手には例の日記帳。サルファは一歩先を歩き、無言のままその身を風にさらしている。途中、吹き抜けの壁から外が見えた。夜の海と空とが溶け合い、星屑のように瞬く光が、遠く水平線の果てにまで散らばっていた。

 灯台の最上階にたどり着いたとき、ニナは言葉を失った。そこにはかつて灯りを放っていたであろう、巨大なレンズの残骸があった。ヒビが入り、埃をかぶり、今ではただの古びた機械仕掛けにしか見えない。

「これが……?」

「かつて夜を照らした光だ。今は、ただの器にすぎないがな」

 サルファはレンズの中央にある凹みを指差した。そこに、何かを嵌め込めるような窪みがある。

「ここに、“未来”を据えるんだ。お前の日記帳に書かれた言葉が、その代わりになる」

 ニナは日記を胸元で抱き、レンズに目をやる。信じたい気持ちと、怖い気持ちがせめぎ合っていた。

「でも、もし灯らなかったら? 何も起きなかったら?」

「なら、それもまた“未来”だ。だが、やらなければ何も変わらない。お前がここまで来たのは、未来を変えるためだろう?」

 サルファの声には、どこか諦観にも似た静けさがあった。それでも、どこかに期待の色が宿っている。ニナは深呼吸し、日記帳をレンズの中心にそっと置いた。

「読んでくれる?」

「もちろんだ」

 サルファは一歩前に出て、日記帳を開いた。そこには、ニナの手書きの文字でこう記されていた。

《星屑の夜、灯台が再び輝く。少女と影は、かつての光に導かれ、夜を越える》

 その瞬間、レンズの奥が、かすかに輝いた。

 静かに、確かに、古びた機械が震え、わずかに軋む音が階下まで響いていく。

 風が止んだ。

 丘を包んでいた夜の帳が、まるで息を呑むように沈黙する。

 そして、レンズの中心に置かれた言葉が光を帯び始めた。

「……動いてる」

 ニナが囁いた声に、サルファは頷く。

「言葉が、時を起こしたんだ」

 レンズの奥で、静かな光が渦を巻き、回転し始める。次第にそれは加速し、周囲の空気をも巻き込んで、まるで星の核が目を覚ましたかのように、白銀の光を解き放った。

 外の空が、ふいに明るくなる。

 灯台の窓から光が射し、夜の丘を照らし出す。草原が、影を引きながらきらめいた。風に舞った埃までが、星屑のように見えた。

「……これが、あの伝説の光……」

「懐かしいな。あの夜と同じ光だ」

 サルファの横顔には、懐かしさと哀しみと、言葉にできないものが入り混じっていた。

「ありがとう、ニナ。お前のおかげで、灯りは戻った」

「でも……これで終わりじゃないよね?」

「そうだな。光はともった。だが、これはまだ始まりにすぎない」

 そのとき、灯台の下の方から何かの気配がした。遠くで犬が吠えたような音が、風に乗って届く。空を見上げると、どこからか一筋の光が走った。まるで流星のように。

「……羊だ!」

 ニナが指さした先には、確かに光る粒のようなものがいくつも空に浮かび、ゆっくりと丘を横切っている。群れだ。光の羊たちが、星の原を渡っていた。

 サルファは目を細め、そっと目を閉じる。

「また、歩いてくれている。夜を越えて、次の光を探してるんだ」

「この光が、彼らの道標になったんだね」

「ああ。灯台は、過去にも、今にも、そして未来にも、光を送る。それが“星屑の丘”の務めだった」

 夜の風が、再び吹いた。今度は冷たさの中に、どこかあたたかいものが混じっているようだった。

 そしてその光の中で、ニナはようやく、自分が書いた言葉の意味を、ほんとうに理解した気がした。

 未来は、確かにまだ起きていない。けれど、それを信じて手を伸ばす誰かがいれば、世界は少しずつ変わっていくのだ。



※※※



 灯台の光が丘を包んでから、数日が経った。

 夜ごとに灯りは瞬き、星屑の群れは迷いなく空を渡るようになった。風は以前より穏やかで、けれどどこかせつなげな調べを含んでいるようだった。ニナは灯台の小部屋を片づけ、自分の居場所にしつつあった。古い棚の埃を払ってノートを置き、窓辺に拾った貝殻を並べている。そこに、サルファの姿はない。

「彼、どこに行ったんだろうね……」

 そう呟いても、返事は風だけだった。
 彼は灯火がともったあの日を境に、ふと姿を消した。ノートの余白に「すこし歩いてくる」と書き残して。

 その文を読むたびに、ニナの胸はきゅっと縮む。

 サルファがいないと、灯台はまるで深呼吸をやめたかのように静まり返る。けれどニナは毎晩、光を灯し続けていた。それが、自分のなすべきことだと信じていたから。

 ある晩、風の音に混じって、不意に微かな旋律が聞こえた。

 ニナは階段を駆け上がり、灯台の外に出た。星は相変わらずきらめき、空には羊たちの群れが白く流れている。

「……音楽?」

 風に乗って聞こえてくるそれは、確かに旋律だった。懐かしくも、どこか哀しげで、まるで誰かの記憶が風になったかのようだった。

 音の出処を探し、丘を下りた。灯りを頼りに進んだその先――草の合間に、小さな風車がひとつ、音を鳴らしていた。

 回るたびに、カラカラと音を立て、風を捕らえて歌うようだった。けれどその風車は、誰かが作ったにしては拙く、羽根は不ぞろいで、軸も錆びていた。

 その傍に、誰かが腰かけていた。

「……サルファ?」

 影は振り返らず、風車を見つめたままだった。

「昔、あれを作った子供がいてな。風を捕まえて、空に話しかけたかったんだそうだ」

「それって、あなた?」

「さてな。もう遠い話だ。だが、風はずっと憶えている。誰がどこで、何を願ったか」

 ニナは隣に座った。夜露がジーンズを湿らせたが、気にしなかった。風はやわらかく、穏やかに吹いていた。

「……怖かったんだ」

「何が?」

「光がともっても、全部が良くなるわけじゃない。変わらないものもあるって気づくのが、怖かった。だから、あなたがいなくなったとき……」

「お前は、灯し続けた。それで十分だ」

 サルファの声はいつもよりも、ずっと静かだった。

「光は結果じゃない。過程そのものなんだ。灯して、待って、時には消えて、それでもまた灯す。その繰り返しが、誰かの記憶になる」

「……記憶って、風みたいだね」

「そうだ。誰かの言葉が、行動が、思い出が、こうして風になって残る。だからお前も、忘れられないような風になれ。吹けば、誰かがきっと振り向く」

 ニナは風車をそっと回した。カラカラと音を立てて、それはまた風に乗る。

「じゃあ、帰ろう? 灯台の光が、待ってるから」

 サルファはしばらく黙っていたが、やがてゆっくりと立ち上がった。

 そして二人で、夜の丘を登っていった。振り返れば、風車はまだ回っていた。

 その音が、まるで「ようやく思い出したか」と笑っているようで、ニナは小さく笑った。

 風は確かに、記憶を運ぶ。

 ならば、灯台の光もまた、きっといつか誰かの記憶になるのだろう。



※※※



 季節はまたひとつ巡り、丘には白い花が咲いた。

 その名を誰も知らないが、風の道しるべのように咲く花だった。細く繊細な茎、星のような五枚の花弁。まるで夜空から零れ落ちた記憶のかけらのようだった。

 ニナは灯台の屋上に椅子を持ち出し、その花が風に揺れるさまを見ていた。

 サルファは今、丘のふもとで暮らしている。元々そこには誰もいなかったが、灯台の光を目印に、少しずつ人が集まってきたのだという。灯台は、文字どおり町の始まりになった。

 あの時、光を絶やさずにいたことが、誰かを導いた。

「何も変えられないかもって思ってたのに、少しは……灯せたのかな」

 誰にというわけでもなく呟いて、風の中に紛れさせる。

 ノートを開くと、白いページがまだたくさん残っていた。いくつかの章には消えかけの字で、サルファが残した詩がある。けれどそのほとんどは空白のままだ。

 ニナは、そっとペンを取った。

 何も書けなかったページに、彼の書いた言葉の隣に、今度は自分の文字で、物語を綴る。

 ――灯りを灯すというのは、とても静かなことだ。

 ――誰かに気づかれるまで、時間がかかるかもしれない。

 ――けれど、確かに届く。だから私は今日も、灯す。

 風がその文字を撫でていった。どこかに持っていくように。

 その夜、サルファが灯台を訪れた。

「咲いたな、花」

「うん、たくさん」

 彼は手に一冊のノートを持っていた。それは、かつてニナが拾ったものと同じ装丁の、けれどまっさらなものだった。

「これ、君に」

「私に?」

「もう、俺の物語は終わってる。でも、お前はこれからも灯すだろう。だったら、新しい物語が要る」

 差し出されたそのノートに、ニナは触れた。

 硬い表紙。革の匂い。開けば、まっ白な世界が広がっていた。

「たぶん、誰かが読む。風が運ぶ。光が導く。そのとき、お前の物語が道しるべになる」

 ニナはノートを胸に抱き、静かにうなずいた。

 灯台の光は、今日もゆるやかに回っていた。

 その光の届く範囲は限られているけれど、見上げる夜空は無限だった。星の余白に、誰かの名が刻まれるかのように、無数の点が瞬いている。

「きっと、まだ名前のない星がたくさんあるんだろうね」

「ああ。お前がこれから、名前をつけるんだ」

「……そうだね」

 風が吹いた。どこかで風車が鳴った気がした。

 その音は、かつての記憶を運びながら、どこまでも、どこまでも遠くへと流れていった。

 灯台の光がその夜も、丘の上から世界を照らしていた。
 いつかそれが誰かの目に映るまで。
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