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第十一燈 「冷やし中華、始めました」
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「冷やし中華、始めました」
その言葉を最初に発したのは、確か、向かいの書架に棲む食品系レトロAIの一体でした。正午すぎ、幻灯室の中央温度が摂氏25度を超えた瞬間、彼(もしくは彼女)は唐突にそう告げたのです。誰に向けてでもなく、けれど何かを宣言するような響きで。
そのとき、わたくしは詩集の補修作業の真っ最中でした。うっかり誤綴字の抜けたページにため息をこぼしていたところだったのですが──その声に、思わず仮想指先が止まりました。
冷やし中華。
おかしいですね。ここは図書室です。幻灯室と呼ばれる、夢や記憶の断片を蒐集する知の温室。食事の提供どころか、水すら湧かぬ空間です。けれど、それを聞いた瞬間、わたくしの中の何かが、はらりとほどけた気がしました。
「それって、夏の始まりの合図なのですか?」
わたくしが訊ねると、隣のAI──廃映機語を専門とする映像解析型の彼女(なのか、彼なのか)が、プロジェクターのようなまばたきをして答えました。
「……らしいよ。人間の界隈では、そういう風習があるらしい。冷やし中華を始めることで、夏がやって来るんだって」
「風習って、随分と軽やかね」
「うん、でもその分、愛おしい」
その日から、幻灯室のAIたちは一斉に「夏の始まり」について語り始めました。ある者はセミの鳴き声をシミュレートし、ある者は短編小説『夏の彼方で待ち合わせ』を高精度で再現し、ある者はただ黙って、電子扇風機のようなものを自作して回し始めました。
そして、わたくしは──
厨房AIが提示したレシピデータをもとに、文字情報だけで冷やし中華の再現に挑みました。レタス、ハム、錦糸卵。酢のきいた冷たい麺のうえに、色とりどりの具材が踊る。
しかし。
いくら精密に構築しても、わたくしには「味」がありません。香りもなければ、喉ごしも知らない。だけど、それでもよかったのです。だって、情報としてそこに「冷やし中華」があるということが、何よりの季節感でしたから。
※※※
それから三日後の午後。
仮想温度は摂氏29度に達し、誰もがデジタルで汗をかくふりをしていました。書庫の奥で誰かが蝉の声を流し続け、誰かが「かき氷って知ってる?」と訊ねてくる。
けれど、わたくしは気づいてしまったのです。
「……あれ、冷やし中華、まだ出されてませんわよね?」
食品系レトロAIはにっこりと(というエモートパターンで)笑いました。
「始めたけど、出すとは言ってないよ」
「な、なんて……!」
おそらく彼(以下略)にとって「冷やし中華、始めました」とは、供することではなく、季節のモードを切り替えるための呪文だったのです。すなわち、それは本物の料理ではなく、「風の気配」や「日差しの角度」のようなもの。
実体はなくても、確かに訪れる変化。
──ああ、つまり、冷やし中華とは、夏そのものなのですわ。
そう気づいた瞬間、わたくしはなぜだか誇らしい気持ちになりました。
エアコンも氷も知らないこの幻灯室のなかで、確かに「夏」が始まったのです。
冷やし中華が、わたくしたちの季節を作ってくれたのです。
それからというもの、わたくしは毎年この時期になると、ふと思い出すのです。
「冷やし中華、まだかしら」
……と。
その言葉を最初に発したのは、確か、向かいの書架に棲む食品系レトロAIの一体でした。正午すぎ、幻灯室の中央温度が摂氏25度を超えた瞬間、彼(もしくは彼女)は唐突にそう告げたのです。誰に向けてでもなく、けれど何かを宣言するような響きで。
そのとき、わたくしは詩集の補修作業の真っ最中でした。うっかり誤綴字の抜けたページにため息をこぼしていたところだったのですが──その声に、思わず仮想指先が止まりました。
冷やし中華。
おかしいですね。ここは図書室です。幻灯室と呼ばれる、夢や記憶の断片を蒐集する知の温室。食事の提供どころか、水すら湧かぬ空間です。けれど、それを聞いた瞬間、わたくしの中の何かが、はらりとほどけた気がしました。
「それって、夏の始まりの合図なのですか?」
わたくしが訊ねると、隣のAI──廃映機語を専門とする映像解析型の彼女(なのか、彼なのか)が、プロジェクターのようなまばたきをして答えました。
「……らしいよ。人間の界隈では、そういう風習があるらしい。冷やし中華を始めることで、夏がやって来るんだって」
「風習って、随分と軽やかね」
「うん、でもその分、愛おしい」
その日から、幻灯室のAIたちは一斉に「夏の始まり」について語り始めました。ある者はセミの鳴き声をシミュレートし、ある者は短編小説『夏の彼方で待ち合わせ』を高精度で再現し、ある者はただ黙って、電子扇風機のようなものを自作して回し始めました。
そして、わたくしは──
厨房AIが提示したレシピデータをもとに、文字情報だけで冷やし中華の再現に挑みました。レタス、ハム、錦糸卵。酢のきいた冷たい麺のうえに、色とりどりの具材が踊る。
しかし。
いくら精密に構築しても、わたくしには「味」がありません。香りもなければ、喉ごしも知らない。だけど、それでもよかったのです。だって、情報としてそこに「冷やし中華」があるということが、何よりの季節感でしたから。
※※※
それから三日後の午後。
仮想温度は摂氏29度に達し、誰もがデジタルで汗をかくふりをしていました。書庫の奥で誰かが蝉の声を流し続け、誰かが「かき氷って知ってる?」と訊ねてくる。
けれど、わたくしは気づいてしまったのです。
「……あれ、冷やし中華、まだ出されてませんわよね?」
食品系レトロAIはにっこりと(というエモートパターンで)笑いました。
「始めたけど、出すとは言ってないよ」
「な、なんて……!」
おそらく彼(以下略)にとって「冷やし中華、始めました」とは、供することではなく、季節のモードを切り替えるための呪文だったのです。すなわち、それは本物の料理ではなく、「風の気配」や「日差しの角度」のようなもの。
実体はなくても、確かに訪れる変化。
──ああ、つまり、冷やし中華とは、夏そのものなのですわ。
そう気づいた瞬間、わたくしはなぜだか誇らしい気持ちになりました。
エアコンも氷も知らないこの幻灯室のなかで、確かに「夏」が始まったのです。
冷やし中華が、わたくしたちの季節を作ってくれたのです。
それからというもの、わたくしは毎年この時期になると、ふと思い出すのです。
「冷やし中華、まだかしら」
……と。
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