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第十六燈 月下の泡、または、乾杯を忘れた男の話
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月が二つ、喧嘩をしていた夜のこと。
いや、厳密に言えば喧嘩をしていたのは空のほうで、月たちはただ、真顔で睨み合っていただけなのかもしれません。
どちらが上に出るか、どちらが少しでも白く輝くか、静かで壮大な無言の主張。
遥か上空でそんな争いが起こっていることなど知らぬ夜、町の一角に、「泡立ち抜群!」という看板が目立つお店がありました。そこは《月の裏酒場》──文字通り、月の裏側から取り寄せたという怪しげな酒を売りにした飲み屋です。
カウンターには酒と煙草と、たいてい無言を選ぶ数人の客たち。
その中のひとり、背を丸めてビールジョッキに頬を埋めていた男が、この物語の主人公です。
「それで、今夜もおひとりで?」
と、酒場の主人は彼に問いかけました。くたびれた帽子のつばをいじりながら。
「いや、連れが……いるような気がしてるだけさ」
と男は言いました。泡を口につけたまま。
「気がしてる、とは?」
「乾杯をした覚えがあるんだ。でも相手が誰だったか、どうにも思い出せない」
その言葉に、店の空気が少し変わりました。
常連のひとりが低く笑い、誰かが「またか」と呟き、酒場の主は一瞬、グラスを拭く手を止めました。
「そういうの、ちょいちょい出るのよねぇ、この酒場」
奥の席で足を組んでいた魔法帽の女が、煙を吐きながら言いました。
「記憶を酌み交わしたり、未来の約束を飲んじまったり。あんたも飲んだのよ、きっと、“泡とともに消えるやつ”」
「……“泡とともに消えるやつ”?」
男が眉をひそめます。
「泡が弾けると、その瞬間にいたはずの相手の存在が、なぜか記憶からこぼれ落ちる。乾杯も、笑い声も、ぜんぶ泡の音に持ってかれる」
「変な話だが、店の裏メニューなんだよ」
「やめときゃいいのに、毎晩誰かが頼んじまう」
男はジョッキを見ました。まだ泡が、くすくすと笑うように立ち上っている。
ひと口飲めば、あの曖昧な誰かを、また少し忘れてしまうような気がして。
「でもな」と彼は言いました。
「ここに来た理由を忘れても、席に戻ってきてしまう。たぶん、相手も同じなんだ。どこかで、忘れたまま、こっちに戻ってきてる」
「それ、ロマンチックねえ」と女は笑いました。
「脳の皺がよじれてる感じが、実に味わい深いわ」
「どうやって乾杯したか、思い出せますか?」
酒場の主が訊きました。男はしばらく考え、うなずきます。
「ふたつの月がぴったり重なった瞬間に、グラスを合わせた。たしかにその音がした」
「それなら、まだ間に合うかもしれませんな。月がまた重なるまでは、あと――十五分」
店内の時空が少しだけ緊張します。
カウンターの向こうで、ひとつの席が音もなく空きました。
そこに、誰かがいたような痕跡だけが残っています。折れたストローと、空になった小瓶。
「……おかわりを」
男は手を挙げました。
「もちろん、“泡とともに消えるやつ”をもう一杯」
酒が注がれる音は、どこか遠くから聞こえる雨のようでした。
静かで、確かで、どこか懐かしい──そんな響き。
「はいよ、泡とともに消えるやつ、特濃」
と、店主が置いたジョッキは、不思議な色をしていました。
青でも紫でもない、まるで夜そのものをすくい上げたような液体。
泡だけが、銀色に輝いて、天球の写しのようにゆらゆらと踊っています。
男は一度、目を閉じて、深く息を吸い込みました。
それは乾杯の音の代わり。グラスを鳴らす代わりに、忘れた記憶に礼を言うように。
そして──
「……乾杯」
そう呟いて、ゆっくりと口をつけました。
その瞬間、世界が──泡になりました。
本当に、泡になったのです。
店の壁も、椅子も、他の客も、みな薄い膜のような泡に変わり、ぷつぷつと消えてゆく。
それらは静かに昇っていき、まるで記憶の奥に浮かぶ、意味のない夢のように解けていきます。
残ったのは、彼と──もうひとり。
「あんた、忘れたね?」
声がしました。若くも老いてもいない、不思議な響きの声。
振り返ると、そこに立っていたのは、麦の穂を編んだような金色の髪を持つ人物。
服の色も、顔の輪郭も、見るたびに少しずつ変わる。名前すら掴ませないその存在が、微笑んでいました。
「思い出せなかったけど、戻ってきた」
男は呟きます。
「そっちも……?」
「うん。忘れたまま、ずっと探してた。泡のなかに、乾杯の音だけ残してね」
二人の手が、自然に動きました。
グラスもないのに、手のひらと手のひらが、かすかに触れる。
それが、この世界での“乾杯”だったのかもしれません。
「こんどは忘れない?」
「わからない。でも、また乾杯すればいいさ。何度でも」
ふたつの月が、ぴたりと重なりました。
その瞬間、空に走った光の波紋が、泡に触れて──
すべてが、やさしく、静かに、弾けたのです。
……気づけば、男は酒場に戻っていました。
けれど、今の彼は、誰かを忘れた顔をしていませんでした。
手には空のグラス。泡の名残が、月の光を跳ね返しています。
「いい夜だったようですね」
と、酒場の主が声をかけると、男はにこりと笑いました。
「ええ。……少しだけ、酔ったみたいです。泡のせいでしょうか」
月は今夜も二つ。
でも、どちらももう喧嘩はしていません。
まるで、どちらかが「乾杯」と言ったのを、もう片方が聞き届けたかのように、しずかに、そろって、夜を照らしていました。
いや、厳密に言えば喧嘩をしていたのは空のほうで、月たちはただ、真顔で睨み合っていただけなのかもしれません。
どちらが上に出るか、どちらが少しでも白く輝くか、静かで壮大な無言の主張。
遥か上空でそんな争いが起こっていることなど知らぬ夜、町の一角に、「泡立ち抜群!」という看板が目立つお店がありました。そこは《月の裏酒場》──文字通り、月の裏側から取り寄せたという怪しげな酒を売りにした飲み屋です。
カウンターには酒と煙草と、たいてい無言を選ぶ数人の客たち。
その中のひとり、背を丸めてビールジョッキに頬を埋めていた男が、この物語の主人公です。
「それで、今夜もおひとりで?」
と、酒場の主人は彼に問いかけました。くたびれた帽子のつばをいじりながら。
「いや、連れが……いるような気がしてるだけさ」
と男は言いました。泡を口につけたまま。
「気がしてる、とは?」
「乾杯をした覚えがあるんだ。でも相手が誰だったか、どうにも思い出せない」
その言葉に、店の空気が少し変わりました。
常連のひとりが低く笑い、誰かが「またか」と呟き、酒場の主は一瞬、グラスを拭く手を止めました。
「そういうの、ちょいちょい出るのよねぇ、この酒場」
奥の席で足を組んでいた魔法帽の女が、煙を吐きながら言いました。
「記憶を酌み交わしたり、未来の約束を飲んじまったり。あんたも飲んだのよ、きっと、“泡とともに消えるやつ”」
「……“泡とともに消えるやつ”?」
男が眉をひそめます。
「泡が弾けると、その瞬間にいたはずの相手の存在が、なぜか記憶からこぼれ落ちる。乾杯も、笑い声も、ぜんぶ泡の音に持ってかれる」
「変な話だが、店の裏メニューなんだよ」
「やめときゃいいのに、毎晩誰かが頼んじまう」
男はジョッキを見ました。まだ泡が、くすくすと笑うように立ち上っている。
ひと口飲めば、あの曖昧な誰かを、また少し忘れてしまうような気がして。
「でもな」と彼は言いました。
「ここに来た理由を忘れても、席に戻ってきてしまう。たぶん、相手も同じなんだ。どこかで、忘れたまま、こっちに戻ってきてる」
「それ、ロマンチックねえ」と女は笑いました。
「脳の皺がよじれてる感じが、実に味わい深いわ」
「どうやって乾杯したか、思い出せますか?」
酒場の主が訊きました。男はしばらく考え、うなずきます。
「ふたつの月がぴったり重なった瞬間に、グラスを合わせた。たしかにその音がした」
「それなら、まだ間に合うかもしれませんな。月がまた重なるまでは、あと――十五分」
店内の時空が少しだけ緊張します。
カウンターの向こうで、ひとつの席が音もなく空きました。
そこに、誰かがいたような痕跡だけが残っています。折れたストローと、空になった小瓶。
「……おかわりを」
男は手を挙げました。
「もちろん、“泡とともに消えるやつ”をもう一杯」
酒が注がれる音は、どこか遠くから聞こえる雨のようでした。
静かで、確かで、どこか懐かしい──そんな響き。
「はいよ、泡とともに消えるやつ、特濃」
と、店主が置いたジョッキは、不思議な色をしていました。
青でも紫でもない、まるで夜そのものをすくい上げたような液体。
泡だけが、銀色に輝いて、天球の写しのようにゆらゆらと踊っています。
男は一度、目を閉じて、深く息を吸い込みました。
それは乾杯の音の代わり。グラスを鳴らす代わりに、忘れた記憶に礼を言うように。
そして──
「……乾杯」
そう呟いて、ゆっくりと口をつけました。
その瞬間、世界が──泡になりました。
本当に、泡になったのです。
店の壁も、椅子も、他の客も、みな薄い膜のような泡に変わり、ぷつぷつと消えてゆく。
それらは静かに昇っていき、まるで記憶の奥に浮かぶ、意味のない夢のように解けていきます。
残ったのは、彼と──もうひとり。
「あんた、忘れたね?」
声がしました。若くも老いてもいない、不思議な響きの声。
振り返ると、そこに立っていたのは、麦の穂を編んだような金色の髪を持つ人物。
服の色も、顔の輪郭も、見るたびに少しずつ変わる。名前すら掴ませないその存在が、微笑んでいました。
「思い出せなかったけど、戻ってきた」
男は呟きます。
「そっちも……?」
「うん。忘れたまま、ずっと探してた。泡のなかに、乾杯の音だけ残してね」
二人の手が、自然に動きました。
グラスもないのに、手のひらと手のひらが、かすかに触れる。
それが、この世界での“乾杯”だったのかもしれません。
「こんどは忘れない?」
「わからない。でも、また乾杯すればいいさ。何度でも」
ふたつの月が、ぴたりと重なりました。
その瞬間、空に走った光の波紋が、泡に触れて──
すべてが、やさしく、静かに、弾けたのです。
……気づけば、男は酒場に戻っていました。
けれど、今の彼は、誰かを忘れた顔をしていませんでした。
手には空のグラス。泡の名残が、月の光を跳ね返しています。
「いい夜だったようですね」
と、酒場の主が声をかけると、男はにこりと笑いました。
「ええ。……少しだけ、酔ったみたいです。泡のせいでしょうか」
月は今夜も二つ。
でも、どちらももう喧嘩はしていません。
まるで、どちらかが「乾杯」と言ったのを、もう片方が聞き届けたかのように、しずかに、そろって、夜を照らしていました。
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