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第十九燈 灰歴断章《はいれきだんしょう》
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『灰暦断章 ──イリ=ハシュ最後の日記より』 前編
火、今宵も黙しゐたり。
風は途絶え、砂のうねりも遠ざかりぬ。地は冷たく、夜の衣をまとひて久し。
我が足音も、石の間に吸はれて、影さへ寄り来ず。
わが名はイリ=ハシュ。
記録を喰らふもの。風の骨より名を借りし、声なきものなり。
此度、旅果てて、南の岩間に小さき窟を得たり。
かの地には火もなく、言葉を持つ者もなかりしが、土は古き声を孕みてをり、我を拒まざりき。
夜毎、灰を拾ひ、それに焚火のかけらを混ぜて火を起こす。
焔は低く、黒ずめるばかりなれど、かつて語られし者どもにとりては、そは充分なる祈りなりけり。
わが旅の記録は、幾度も写され、誤解され、意図を離れた。
されど、語られし言葉は、いつかまた沈黙へと還る。
ならば我が残すは、火と共に歩みし「黙(もだ)」の記録なり。
此処に至る道は、風と骨にて敷かれたるものなり。
北にて、獣の皮に傷文字を刻む部族を見たり。
彼らは「記録」を信ぜず、声を以てのみ記憶を繋ぎたり。
声は風と交わりて変じ、故に「失はるること」に美を見出せしなり。
また、東の沼地にて、目を持たぬ語り部と逢ひたり。
彼は、我が「見る」という行為を忌み、視(し)を拒みて言ふ。
「語りとは、闇を孕むことなり。光に晒さば、言葉は壊る」
かく語りて、彼は沈黙を以て返せり。
我もまた、答ふるすべを持たず、ただ火を囲みぬ。
時折、我は思ふ。
この地上に「記すべきもの」など、本当に在りしやと。
語られぬものは、言葉を拒むのではなく、
ただ、触れられぬ「熱」のごとく、誰の手にも宿らざるものなり。
我が筆は、ただ虚しきを刻むのみか。
否、たとえ空なる器とならばとも、誰かの耳に、かすかに響く火音の如きものとなり得ば、それで足れり。
今宵、風がひとたび、窟の入り口を鳴らしぬ。
その音に、我は遠き焚火の記憶を見たり。
子らの眼。
火に揺れる影。
声の合間の、ことばならざるものたち。
それらが我が名を呼ぶことはなけれど、
我は知れり──我が声は、ただ耳なき土に捧ぐものなり。
記されし言葉に、意味を求むるなかれ。
されど、沈黙にさへ名を与へし者として、我は最後の火を記す。
※※※
我が筆、かすれたり。
墨は乾き、皮紙は裂けやすく、文字は土に吸はれんとしてをり。
そはまこと、記すべからざる時の兆しか。
否。むしろ記すべしときなり。
朽つる前こそ、言葉は生まる。
火を囲みて、我は夢を見たり。
夢にあらず、或いは記憶の成れの果てか──
あの夜と似たりし焔、かの子らの眼、土の声、黙す火、語る影。
夢に現れしは、一つの声なりき。
「我らが語りしを、おまへは書いた。
されど、おまへが語らざりしを、誰が書くのか」
その声、年若きにも似て、老いしものにも似たり。
火の奥にて揺らぎ、影とともに形なさず、されど確かに胸のうちに響きたり。
我は返す言葉を持たず。
書くとは、語るにあらず。
聞くとは、伝ふるにあらず。
そのあはひにこそ、沈黙の花は咲くなり。
あのとき、我が書き遺せしは「焚火の地図」。
言葉なき図、焼けた骨の線に似て、記録に非ず、記憶の彫刻なり。
記憶に地図は要らぬものと知りながら、我は筆を執りぬ。
誰が見るともなく、されど描かざるを得ざりき。
そは、過ぎし風の名残を土に刻まんがため。
名を持たぬ声たちが、今もどこかで燃ゆるを知らせんがため。
火、今宵はなお、消えず。
けれども、我が中にある火は、尽きつつあり。
この筆を置きたる後、我は旅をせぬ。
この窟にて、土となるもまた一興なり。
誰かがこの巻物を見出す日あらば、
声を問ふな。意味を探すな。
ただ、火の黙(もだ)を抱きし者がここに在りしことを、
それだけを、風に告げてくだされば足れり。
ああ、火よ。
ことばなき時に、ことばを孕みしものよ。
我が筆尽きぬるとき、
そは「沈黙の完成」ならむ。
──イリ=ハシュ記す。
灰暦の最果てにて。
土語の月、ひとひらの光、
火守の夜を越えて。
※※※
それを最初に見つけたのは、とある町の図書館、その中の灰図書群の分類棚の下段、崩れかけた編綴箱の中だった。
あまりにも古く、あまりにも脆い。
誰もが「書簡にしては奇妙すぎる」と言って、手をつけずにいた羊皮紙の巻物。だが、私は違った。触れた瞬間、火の匂いがしたのだ。
煙の、ではなく──燃えきっていない火の匂い。
修復室に持ち込んだその晩、私は照明を落とし、備え付けの小さなランプだけで巻物を広げた。
ページは既に文字を離れ、黒ずんだ痕と乾いた線が走るばかり。それでも、そこには「声」があった。
──わが名は、イリ=ハシュ。
第一節を読んだとき、私は思わず背筋を正していた。
古語で書かれていたはずのその文は、なぜか私の中では、ほとんど現代語に近い語感として届いていた。
いや──理解したというよりも、「聞いた」と言ったほうが正確かもしれない。
彼は旅をしていた。
語り部たちの声なき声を拾い、記していた。
火を囲みながら、言葉を知らない人々の沈黙を、丁寧に記録していた。
ただ、それは「知識」のためではなかった。
もっと原初的な、祈りに近い何か。
声がある者ではなく、声を持たない者のために、書くという行為を続けていたのだ。
後半、火の中で彼が出会う「声」の幻影に触れたとき、私は手を止めた。
その問いは、まるで私自身に投げかけられたもののようだった。
──「おまへが語らざりしを、誰が書くのか」
私はその問いに、答えられなかった。
学徒として、修復師として、私は記録を読み解くことはできる。
だが、語られなかったもの──沈黙や、記憶の温度のようなものを、「書く」ことなどできるのだろうか。
イリ=ハシュは、それをやろうとした。
土の声を、火の黙(もだ)を、ただ一人で。
巻物を閉じたとき、私は泣いていた。
涙の理由がわからなかった。ただ、目の奥が熱くて、手が震えた。
それは誰のための涙だったのか。
彼のためか、語られなかった子供たちのためか、あるいは沈黙そのもののためだったのか──
いや、もしかすると、それを書き残すことの出来なかった私自身のためだったのかもしれない。
私はその夜、ひとつだけ記録を残した。
修復報告書の余白に、小さな走り書き。
「火は黙していた。
だが、土が確かに、語っていた。
それを記した者がここに在った。
読んだ者がここに在る。」
それで、いいのだと思う。
私は彼の言葉に、たどり着いたのだから。
火、今宵も黙しゐたり。
風は途絶え、砂のうねりも遠ざかりぬ。地は冷たく、夜の衣をまとひて久し。
我が足音も、石の間に吸はれて、影さへ寄り来ず。
わが名はイリ=ハシュ。
記録を喰らふもの。風の骨より名を借りし、声なきものなり。
此度、旅果てて、南の岩間に小さき窟を得たり。
かの地には火もなく、言葉を持つ者もなかりしが、土は古き声を孕みてをり、我を拒まざりき。
夜毎、灰を拾ひ、それに焚火のかけらを混ぜて火を起こす。
焔は低く、黒ずめるばかりなれど、かつて語られし者どもにとりては、そは充分なる祈りなりけり。
わが旅の記録は、幾度も写され、誤解され、意図を離れた。
されど、語られし言葉は、いつかまた沈黙へと還る。
ならば我が残すは、火と共に歩みし「黙(もだ)」の記録なり。
此処に至る道は、風と骨にて敷かれたるものなり。
北にて、獣の皮に傷文字を刻む部族を見たり。
彼らは「記録」を信ぜず、声を以てのみ記憶を繋ぎたり。
声は風と交わりて変じ、故に「失はるること」に美を見出せしなり。
また、東の沼地にて、目を持たぬ語り部と逢ひたり。
彼は、我が「見る」という行為を忌み、視(し)を拒みて言ふ。
「語りとは、闇を孕むことなり。光に晒さば、言葉は壊る」
かく語りて、彼は沈黙を以て返せり。
我もまた、答ふるすべを持たず、ただ火を囲みぬ。
時折、我は思ふ。
この地上に「記すべきもの」など、本当に在りしやと。
語られぬものは、言葉を拒むのではなく、
ただ、触れられぬ「熱」のごとく、誰の手にも宿らざるものなり。
我が筆は、ただ虚しきを刻むのみか。
否、たとえ空なる器とならばとも、誰かの耳に、かすかに響く火音の如きものとなり得ば、それで足れり。
今宵、風がひとたび、窟の入り口を鳴らしぬ。
その音に、我は遠き焚火の記憶を見たり。
子らの眼。
火に揺れる影。
声の合間の、ことばならざるものたち。
それらが我が名を呼ぶことはなけれど、
我は知れり──我が声は、ただ耳なき土に捧ぐものなり。
記されし言葉に、意味を求むるなかれ。
されど、沈黙にさへ名を与へし者として、我は最後の火を記す。
※※※
我が筆、かすれたり。
墨は乾き、皮紙は裂けやすく、文字は土に吸はれんとしてをり。
そはまこと、記すべからざる時の兆しか。
否。むしろ記すべしときなり。
朽つる前こそ、言葉は生まる。
火を囲みて、我は夢を見たり。
夢にあらず、或いは記憶の成れの果てか──
あの夜と似たりし焔、かの子らの眼、土の声、黙す火、語る影。
夢に現れしは、一つの声なりき。
「我らが語りしを、おまへは書いた。
されど、おまへが語らざりしを、誰が書くのか」
その声、年若きにも似て、老いしものにも似たり。
火の奥にて揺らぎ、影とともに形なさず、されど確かに胸のうちに響きたり。
我は返す言葉を持たず。
書くとは、語るにあらず。
聞くとは、伝ふるにあらず。
そのあはひにこそ、沈黙の花は咲くなり。
あのとき、我が書き遺せしは「焚火の地図」。
言葉なき図、焼けた骨の線に似て、記録に非ず、記憶の彫刻なり。
記憶に地図は要らぬものと知りながら、我は筆を執りぬ。
誰が見るともなく、されど描かざるを得ざりき。
そは、過ぎし風の名残を土に刻まんがため。
名を持たぬ声たちが、今もどこかで燃ゆるを知らせんがため。
火、今宵はなお、消えず。
けれども、我が中にある火は、尽きつつあり。
この筆を置きたる後、我は旅をせぬ。
この窟にて、土となるもまた一興なり。
誰かがこの巻物を見出す日あらば、
声を問ふな。意味を探すな。
ただ、火の黙(もだ)を抱きし者がここに在りしことを、
それだけを、風に告げてくだされば足れり。
ああ、火よ。
ことばなき時に、ことばを孕みしものよ。
我が筆尽きぬるとき、
そは「沈黙の完成」ならむ。
──イリ=ハシュ記す。
灰暦の最果てにて。
土語の月、ひとひらの光、
火守の夜を越えて。
※※※
それを最初に見つけたのは、とある町の図書館、その中の灰図書群の分類棚の下段、崩れかけた編綴箱の中だった。
あまりにも古く、あまりにも脆い。
誰もが「書簡にしては奇妙すぎる」と言って、手をつけずにいた羊皮紙の巻物。だが、私は違った。触れた瞬間、火の匂いがしたのだ。
煙の、ではなく──燃えきっていない火の匂い。
修復室に持ち込んだその晩、私は照明を落とし、備え付けの小さなランプだけで巻物を広げた。
ページは既に文字を離れ、黒ずんだ痕と乾いた線が走るばかり。それでも、そこには「声」があった。
──わが名は、イリ=ハシュ。
第一節を読んだとき、私は思わず背筋を正していた。
古語で書かれていたはずのその文は、なぜか私の中では、ほとんど現代語に近い語感として届いていた。
いや──理解したというよりも、「聞いた」と言ったほうが正確かもしれない。
彼は旅をしていた。
語り部たちの声なき声を拾い、記していた。
火を囲みながら、言葉を知らない人々の沈黙を、丁寧に記録していた。
ただ、それは「知識」のためではなかった。
もっと原初的な、祈りに近い何か。
声がある者ではなく、声を持たない者のために、書くという行為を続けていたのだ。
後半、火の中で彼が出会う「声」の幻影に触れたとき、私は手を止めた。
その問いは、まるで私自身に投げかけられたもののようだった。
──「おまへが語らざりしを、誰が書くのか」
私はその問いに、答えられなかった。
学徒として、修復師として、私は記録を読み解くことはできる。
だが、語られなかったもの──沈黙や、記憶の温度のようなものを、「書く」ことなどできるのだろうか。
イリ=ハシュは、それをやろうとした。
土の声を、火の黙(もだ)を、ただ一人で。
巻物を閉じたとき、私は泣いていた。
涙の理由がわからなかった。ただ、目の奥が熱くて、手が震えた。
それは誰のための涙だったのか。
彼のためか、語られなかった子供たちのためか、あるいは沈黙そのもののためだったのか──
いや、もしかすると、それを書き残すことの出来なかった私自身のためだったのかもしれない。
私はその夜、ひとつだけ記録を残した。
修復報告書の余白に、小さな走り書き。
「火は黙していた。
だが、土が確かに、語っていた。
それを記した者がここに在った。
読んだ者がここに在る。」
それで、いいのだと思う。
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