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第十八燈 熱風の標本
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この町には、熱を集める少年がいる。
噂の出どころは分からない。誰が言い始めたのか、そもそも本当なのかすら曖昧だ。けれど、今年の夏は例年よりもひどかった。朝から晩まで地面が茹だり、金属製の手すりを触れば皮膚が焦げそうになり、夜になっても部屋の温度計は微動だにしない。誰もが、暑さのせいで何かが壊れたような目をしていた。
そんなある日。図書室からの帰り道、わたしはふと、駅前の時計塔の下で足を止めた。
午後四時ちょうど。そこに、彼はいた。
灰色のシャツを着て、影にすっぽりと身を潜めていた。手には大きなガラス瓶を抱えていた。中には液体ではなく、空気のような、でも熱を持った何かが詰まっていた。
わたしは彼に見られていた。いや、視線というより、熱の触手のようなものがわたしをなぞった気がした。
「……きみ、熱が余ってるね」
開口一番、それだった。
熱が、余ってる? まるでそれが荷物かエネルギーか何かのように、彼は言った。
「捨ててもいいの?」と、冗談めかして訊くと、彼はまじめな顔でうなずいた。
「持ってると燃える。中から。ひとに伝染るし、夢も焼く。だから……少し、もらうよ」
彼はわたしに小さな瓶を差し出した。透明で、まるで空気すら入っていないように見える。でも、その口元が、わたしの肌の熱を吸い上げているのを、確かに感じた。
指先を当てた瞬間、わたしの掌からじんわりと汗が引いていった。
暑さは変わらないのに、内側の温度が、ほんのすこし下がる。
「ありがとう」
そう言って彼は、瓶の口を素早く塞ぎ、ガラス越しに中を見つめた。
瓶の底には、淡い橙色の光が、ゆらゆらと漂っていた。
その日から、わたしは毎日、放課後に彼のところへ立ち寄るようになった。
彼はいつも同じ場所にいて、瓶を並べていた。中には町の人々の熱が詰まっていたのだろう。赤や橙、焦げ茶や琥珀――熱にも色があることを、わたしはそのとき知った。
「今日は、どんな熱だったの?」と訊くと、彼は「焦り」「嫉妬」「渇き」「記憶」なんて答える。
熱は感情と似ているらしい。見えないけれど、確かに在って、時間とともに色を変える。
「あなたは、何者なの?」と訊くと、彼は「熱を風にかえる者」とだけ答えた。
その説明では、何も分からなかったけれど、不思議と怖くはなかった。
ときおり、瓶を軽く振ると、かすかに風鈴のような音がした。
中の熱がうたっている、と彼は言った。悲しい歌ではない。けれど、どこか、遠くにいってしまいそうな音だった。
ある日、わたしはこんな夢を見た。
――町じゅうの空が、真っ赤なガラスで覆われる。
あちこちに瓶が浮かんでいて、中の熱がぐるぐると渦を巻いている。
人々は皆、声を失って、ガラスの空を見上げている。
瓶のなかから、音がする。誰かの記憶の音。
そして最後に、ひときわ赤く燃える瓶が割れて、風が吹く。
目が覚めたとき、額にうっすらと汗をかいていた。
翌日、彼の元へ行くと、彼はわたしの顔を見てふっと目を細めた。
「……見たんだね」
「何を?」
「これから起きること」
わたしは夢の話をしていないのに、彼はすでに知っていた。
そして、瓶の一つを持ち上げて見せた。中には、昨日見た夢と同じ色――深紅の熱が、ぐるぐると揺れていた。
「熱が限界なんだ。この町も、人も、もうすぐ燃えてしまう」
彼の声は淡々としていた。でも、それが逆にこわかった。日常の終わりが、当たり前のことのように語られるのは、こんなに恐ろしい。
「どうすれば……」と訊くと、彼は空を見上げた。
夕焼けが、滲んでいた。空気そのものが焼けているように見えた。
「風が必要なんだ。熱は風に変えられる。だけど、まだ足りない。あと三日分、君の熱をくれる?」
わたしはうなずいた。理由は分からない。でも、彼がしていることが必要なことだと、信じたかった。
そのとき、時計塔が四時四十四分を告げた。
音が震え、町の空気が、少しだけ揺れたような気がした。
※※※
約束の三日間、わたしは、毎日彼に熱を渡した。
朝も昼も夜も関係なく、町の暑さは変わらなかった。蝉の声はむしろ増し、アスファルトの道はゆらゆらと蜃気楼のように波打ち、ガラス瓶を抱えた彼の背にさえ、じっとりと影がにじんでいた。
「熱を抜かれるって、どんな感じ?」
三日目の帰り際、彼にそう訊ねられた。
少し考えてから、わたしはこう答えた。
「……皮膚の内側が、風になる感じ」
彼は小さく笑って、瓶の中の淡い金色を見つめた。
「きみの熱は、優しい匂いがする」
「匂いなんてあるの?」
「あるよ。たとえば嫉妬は鉄みたいなにおい、執着は焦げた花火。きみのは……たぶん、雨のあとの図書室みたいな匂い」
ああ、とわたしは思った。
あの午後の、静かなページの匂い。
誰にも読まれないままの言葉たち。
誰にも触れられないままの、温度。
「……そういうの、君はずっと見てきたの?」
「うん」
「それって、つらくないの?」
彼は答えなかった。
けれど、ふと瓶のひとつを空にかざした。中の熱が光を透かして、まるで古いフィルムのように見えた。風景や人影が揺らいでいて、それが誰かの“残り火”だと、わたしは直感した。
「熱は、記録なんだ」
彼はぽつりと呟いた。
「誰かが過ごした季節の記憶。そこに込められた気持ち。焼け残った想い。そういうのが集まって、風になる」
わたしはその意味を、すぐには理解できなかった。
でも、どこか懐かしい響きがした。誰かの“さよなら”が、やがて風に変わる――そんなふうに。
そして、四日目の午後。
空が、少しだけおかしくなった。
太陽が滲み、空気がざわつき、遠くで雷のような音がしていた。
時計塔の鐘は鳴らなかった。代わりに、町の至るところから瓶の音が聞こえてきた。
――カラン。
――シャラ……ン。
あれは、誰かの記憶の音だ。
焼けた思い出、届かなかった手紙、声にできなかった言葉。
そのすべてが、風のかたちをして、揺れていた。
「今から、瓶を開けるよ」
彼が言った。
わたしの目の前には、色とりどりの瓶が並べられていた。橙、紅、紫、金、そして灰――熱の標本たち。
彼はひとつずつ、慎重にその蓋を開けていった。
中から溢れ出す風は、冷たくも熱くもない、不思議な温度だった。
髪を撫で、肌を抜け、心を揺らしていく。
熱が、風に変わる瞬間だった。
言葉にならないものが、形を変えて空を漂っていく。
そして最後に、彼は小さな瓶を取り出した。
それは、わたしの熱が詰まった瓶だった。
「君の風を、最初に飛ばすね」
「……ありがとう」
蓋が開いた。
中から立ちのぼったのは、確かに、あの図書室のような匂い。
誰にも読まれなかったページが、いま、風になって世界をなぞっていく。
空が、やわらかく揺れた。
風が、町の角をひとつずつ曲がっていった。
そして、それは次第に、熱を運び去っていった。
いつの間にか、蝉の声が止んでいた。
アスファルトは、まだ熱を残していたけれど、空気が変わっていた。
彼はすべての瓶を手放して、空に飛ばしていた。瓶たちはまるで鳥のように羽ばたき、空の彼方へ消えていった。
「これで、ひと夏ぶんの標本は終わりだ」
「また来年も、やるの?」
「ううん。たぶん、今年で終わり」
わたしは訊いた。「どうして?」
彼は、しばらく黙ってから、ぽつりと答えた。
「もう、熱を集める必要がなくなる世界になるから」
「それは、いいこと?」
「うん。たぶんね」
彼はそう言って、最後に一本の風鈴をわたしに渡した。
それは、わたしの熱でできた風鈴。瓶のかけらと、記憶の破片が繋がっていた。
音がした。風の中に、音がした。
わたしはその音を胸にしまい、歩き出した。
空にはもう、熱の影はなかった。
噂の出どころは分からない。誰が言い始めたのか、そもそも本当なのかすら曖昧だ。けれど、今年の夏は例年よりもひどかった。朝から晩まで地面が茹だり、金属製の手すりを触れば皮膚が焦げそうになり、夜になっても部屋の温度計は微動だにしない。誰もが、暑さのせいで何かが壊れたような目をしていた。
そんなある日。図書室からの帰り道、わたしはふと、駅前の時計塔の下で足を止めた。
午後四時ちょうど。そこに、彼はいた。
灰色のシャツを着て、影にすっぽりと身を潜めていた。手には大きなガラス瓶を抱えていた。中には液体ではなく、空気のような、でも熱を持った何かが詰まっていた。
わたしは彼に見られていた。いや、視線というより、熱の触手のようなものがわたしをなぞった気がした。
「……きみ、熱が余ってるね」
開口一番、それだった。
熱が、余ってる? まるでそれが荷物かエネルギーか何かのように、彼は言った。
「捨ててもいいの?」と、冗談めかして訊くと、彼はまじめな顔でうなずいた。
「持ってると燃える。中から。ひとに伝染るし、夢も焼く。だから……少し、もらうよ」
彼はわたしに小さな瓶を差し出した。透明で、まるで空気すら入っていないように見える。でも、その口元が、わたしの肌の熱を吸い上げているのを、確かに感じた。
指先を当てた瞬間、わたしの掌からじんわりと汗が引いていった。
暑さは変わらないのに、内側の温度が、ほんのすこし下がる。
「ありがとう」
そう言って彼は、瓶の口を素早く塞ぎ、ガラス越しに中を見つめた。
瓶の底には、淡い橙色の光が、ゆらゆらと漂っていた。
その日から、わたしは毎日、放課後に彼のところへ立ち寄るようになった。
彼はいつも同じ場所にいて、瓶を並べていた。中には町の人々の熱が詰まっていたのだろう。赤や橙、焦げ茶や琥珀――熱にも色があることを、わたしはそのとき知った。
「今日は、どんな熱だったの?」と訊くと、彼は「焦り」「嫉妬」「渇き」「記憶」なんて答える。
熱は感情と似ているらしい。見えないけれど、確かに在って、時間とともに色を変える。
「あなたは、何者なの?」と訊くと、彼は「熱を風にかえる者」とだけ答えた。
その説明では、何も分からなかったけれど、不思議と怖くはなかった。
ときおり、瓶を軽く振ると、かすかに風鈴のような音がした。
中の熱がうたっている、と彼は言った。悲しい歌ではない。けれど、どこか、遠くにいってしまいそうな音だった。
ある日、わたしはこんな夢を見た。
――町じゅうの空が、真っ赤なガラスで覆われる。
あちこちに瓶が浮かんでいて、中の熱がぐるぐると渦を巻いている。
人々は皆、声を失って、ガラスの空を見上げている。
瓶のなかから、音がする。誰かの記憶の音。
そして最後に、ひときわ赤く燃える瓶が割れて、風が吹く。
目が覚めたとき、額にうっすらと汗をかいていた。
翌日、彼の元へ行くと、彼はわたしの顔を見てふっと目を細めた。
「……見たんだね」
「何を?」
「これから起きること」
わたしは夢の話をしていないのに、彼はすでに知っていた。
そして、瓶の一つを持ち上げて見せた。中には、昨日見た夢と同じ色――深紅の熱が、ぐるぐると揺れていた。
「熱が限界なんだ。この町も、人も、もうすぐ燃えてしまう」
彼の声は淡々としていた。でも、それが逆にこわかった。日常の終わりが、当たり前のことのように語られるのは、こんなに恐ろしい。
「どうすれば……」と訊くと、彼は空を見上げた。
夕焼けが、滲んでいた。空気そのものが焼けているように見えた。
「風が必要なんだ。熱は風に変えられる。だけど、まだ足りない。あと三日分、君の熱をくれる?」
わたしはうなずいた。理由は分からない。でも、彼がしていることが必要なことだと、信じたかった。
そのとき、時計塔が四時四十四分を告げた。
音が震え、町の空気が、少しだけ揺れたような気がした。
※※※
約束の三日間、わたしは、毎日彼に熱を渡した。
朝も昼も夜も関係なく、町の暑さは変わらなかった。蝉の声はむしろ増し、アスファルトの道はゆらゆらと蜃気楼のように波打ち、ガラス瓶を抱えた彼の背にさえ、じっとりと影がにじんでいた。
「熱を抜かれるって、どんな感じ?」
三日目の帰り際、彼にそう訊ねられた。
少し考えてから、わたしはこう答えた。
「……皮膚の内側が、風になる感じ」
彼は小さく笑って、瓶の中の淡い金色を見つめた。
「きみの熱は、優しい匂いがする」
「匂いなんてあるの?」
「あるよ。たとえば嫉妬は鉄みたいなにおい、執着は焦げた花火。きみのは……たぶん、雨のあとの図書室みたいな匂い」
ああ、とわたしは思った。
あの午後の、静かなページの匂い。
誰にも読まれないままの言葉たち。
誰にも触れられないままの、温度。
「……そういうの、君はずっと見てきたの?」
「うん」
「それって、つらくないの?」
彼は答えなかった。
けれど、ふと瓶のひとつを空にかざした。中の熱が光を透かして、まるで古いフィルムのように見えた。風景や人影が揺らいでいて、それが誰かの“残り火”だと、わたしは直感した。
「熱は、記録なんだ」
彼はぽつりと呟いた。
「誰かが過ごした季節の記憶。そこに込められた気持ち。焼け残った想い。そういうのが集まって、風になる」
わたしはその意味を、すぐには理解できなかった。
でも、どこか懐かしい響きがした。誰かの“さよなら”が、やがて風に変わる――そんなふうに。
そして、四日目の午後。
空が、少しだけおかしくなった。
太陽が滲み、空気がざわつき、遠くで雷のような音がしていた。
時計塔の鐘は鳴らなかった。代わりに、町の至るところから瓶の音が聞こえてきた。
――カラン。
――シャラ……ン。
あれは、誰かの記憶の音だ。
焼けた思い出、届かなかった手紙、声にできなかった言葉。
そのすべてが、風のかたちをして、揺れていた。
「今から、瓶を開けるよ」
彼が言った。
わたしの目の前には、色とりどりの瓶が並べられていた。橙、紅、紫、金、そして灰――熱の標本たち。
彼はひとつずつ、慎重にその蓋を開けていった。
中から溢れ出す風は、冷たくも熱くもない、不思議な温度だった。
髪を撫で、肌を抜け、心を揺らしていく。
熱が、風に変わる瞬間だった。
言葉にならないものが、形を変えて空を漂っていく。
そして最後に、彼は小さな瓶を取り出した。
それは、わたしの熱が詰まった瓶だった。
「君の風を、最初に飛ばすね」
「……ありがとう」
蓋が開いた。
中から立ちのぼったのは、確かに、あの図書室のような匂い。
誰にも読まれなかったページが、いま、風になって世界をなぞっていく。
空が、やわらかく揺れた。
風が、町の角をひとつずつ曲がっていった。
そして、それは次第に、熱を運び去っていった。
いつの間にか、蝉の声が止んでいた。
アスファルトは、まだ熱を残していたけれど、空気が変わっていた。
彼はすべての瓶を手放して、空に飛ばしていた。瓶たちはまるで鳥のように羽ばたき、空の彼方へ消えていった。
「これで、ひと夏ぶんの標本は終わりだ」
「また来年も、やるの?」
「ううん。たぶん、今年で終わり」
わたしは訊いた。「どうして?」
彼は、しばらく黙ってから、ぽつりと答えた。
「もう、熱を集める必要がなくなる世界になるから」
「それは、いいこと?」
「うん。たぶんね」
彼はそう言って、最後に一本の風鈴をわたしに渡した。
それは、わたしの熱でできた風鈴。瓶のかけらと、記憶の破片が繋がっていた。
音がした。風の中に、音がした。
わたしはその音を胸にしまい、歩き出した。
空にはもう、熱の影はなかった。
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