例えばこんな物語──(自称)電子の妖精ツクヨミアイが贈る、ノンジャンルの短篇集──

ツクヨミアイ

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第二十三燈 彼女は刃を鞘に納めない

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 長谷部暦《はせべ こよみ》がその刀を鞄に仕舞い、左肩にかけて街を歩く光景は、どう見ても奇妙だった。

 ──ただし、それが「見えれば」の話だ。

 

 駅前のロータリーは今日も人で賑わっていた。制服姿の高校生たち、スマホ片手に突っ立つ男たち、アイスのカップを片手に連れ立つ女子中学生。
 信号が変わるたび、視線は忙しく動き、足音が塗り重ねられていく。

 そんな喧噪のなか、暦はひとり、無言で歩いていた。
 肩には見慣れたスクールバッグ。けれど、そこから覗く黒い鞘の存在に気づく者はいない。

 それは、彼女だけが「声を聴いている」からなのだ。

 

『……ずいぶんと騒がしいところだな。今日の気分はどうだ、暦』

 鞄の中から、くぐもった男の声が聞こえる。

 暦は眉ひとつ動かさず、ぼそりと返した。

「いつも通り。ナガミツこそ、湿気で刃が腐ったりしてない?」

『はは、それはなかなか的確な嫌味だ。だが生憎、わたしは語らぬ限り朽ちることはない。たとえ酸性雨の中に晒されてもな』

「でも、黙ると刃になるんでしょう?」

『……それを言うのは、あと十年後にしてくれ』

 

 暦は歩きながら、ちらりと駅前のコンビニに目を向けた。
 ビニール傘を片手に、若いサラリーマン風の男が立ち読みしている。
 スーツの袖から覗く腕時計が、彼の時間にだけ異様な速さで進んでいるように見えた。

「あれ、語霊に食われてる?」

『いや、あれは“喰われかけ”だな。まだ境界線にいる。
 ああいう連中は、いつかの拍子に踏み越えるんだ』

「止めたほうがいい?」

『どうしても手を伸ばしたいなら、止めはしない。
 だが忘れるな──お前がわたしに“斬れ”と言えば、その代償はお前自身の言葉に刻まれる』

「……なら、見なかったことにする」

 

 暦はそのまま視線を逸らし、商店街へと足を踏み入れた。
 アーケードの下、シャッターの閉まった店々と、その合間で飴細工を売る屋台がぽつんと浮かんでいる。

 屋台の脇に、ひとりの少女が座っていた。
 中学生くらいだろうか。無表情で、視線を一点に固定している。
 手には、真新しいスマートフォン。
 けれど──

「……あの子のスマホ、語ってるよね」

『ああ、あれはもう“道具”ではない。あれは“意思を持った記録”だ。語霊が巣くった、正真正銘の化け物だよ』

「何に取り憑かれてるの?」

『自己証明欲。承認の呪い──現代風には承認欲求とも呼ばれるな。自分が誰かでありたいという欲望に、終わりがないのだ』

 

 そのときだった。

 スマホを手にした少女が、ゆっくりと立ち上がった。
 目は虚ろ。だが、何かが“見えて”いる。
 彼女は屋台の前に並んでいた子どもを、突き飛ばした。

「……っ!」

 飴細工が地面に落ち、ぱきん、と乾いた音を立てて割れた。

 少年が転び、泣き出す。
 屋台の老人が駆け寄る。
 少女は、ただ笑っていた。
 ──そのスマホの中から、声がした。
 周囲には聞こえないはずの、けれど明らかに冷たく、確かな、命令のような声。

《もっと壊して。壊して。お前が正しいって、証明して》

《そら、車がくるぞ。今度はそっちに向かって、やれ》

 

 暦は静かに、鞄に手を入れた。
 刃を抜くことはない。ただ、柄に触れる。

「ナガミツ」

『ああ』

「斬って」

『命ずるままに』

 

 ──刹那。

 空気が震えた。

 何かが刃によって“切断”されたような感覚。
 だが、それは物理的なものではなかった。

 スマホの画面が、音もなくひび割れた。
 少女はそのまま、その場にしゃがみ込み、ぽつりと呟いた。

「……なんで、こんなことしたんだろう……」

 暦は、その光景をただ見ていた。
 傘を差したまま、何も言わずに立ち尽くしていた男たちの視線は、すでに他へと移っている。

 ──誰も、少女が語霊に侵されていたことも、
 ──そして、暦がその“何か”を切ったことも、気づいてはいなかった。

 

 暦は小さく息を吐き、鞄を持ち直す。

「ありがとう、ナガミツ」

『気にするな。……それより、そろそろ“あれ”が疼いてきたのではないか?』

「……わたしの手首の痣? うん、また濃くなってきた気がする」

『それは“言葉を刃に変えた”代償だ。お前が斬るたび、わたしの呪いは、お前の血に染み込んでいく』

 

 暦は、鞄の中の彼に微笑みかけた。
 そして、静かに言う。

「それでも、わたしは歩きたいの。“何か”と話しながらじゃなきゃ、もう前に進めないから」

 

※※※



 その夜、暦は屋上にいた。

 学校近くの、廃ビルの屋上。
 立ち入り禁止のはずだったが、フェンスの鍵はずいぶん前から壊れたままだ。
 吹き抜ける風と、遠くから聞こえる電車の音。ビルの屋上には、世界と切り離されたような静けさがあった。

 その静けさの中で、暦は鞄から〈ナガミツ〉を取り出していた。

 黒い鞘はうっすらと冷え、夜気に濡れた月明かりを弾いていた。
 鞘から少しだけ抜かれた銀の刃が、暦の瞳に映る。

 

「……私さ」

 言葉は、風に紛れるように小さかった。

「ほんとは、誰かと話すの、あんまり得意じゃないの。口にする前に、どこかで冷めちゃう。自分が何を言いたいか分からなくなるの。それで、話すのが怖くなるの。……言葉って、時々、刃より鋭いでしょ」

 

 沈黙。
 けれどその刹那、刀の中からふわりとした響きが返ってくる。

『……その通りだ、暦。言葉は切れる。時に、無意識に。だからこそ、わたしのようなものが必要なのだ』

「言葉を斬るための、言葉を」

『あるいは、“語らずにいられない者”のための、沈黙を切り開く刃だ』

 

 暦は立ち上がった。

 夜の街を見下ろす。小さな光が並ぶ住宅街、コンビニの看板、交差点に止まったタクシーの赤い尾灯。

「……今日、クラスの子が聞いてきたの。“誰と話してるの?”って」

『ふむ』

「“独り言、増えたね”って」

 

 ナガミツは黙っていた。
 その沈黙こそが、深い応答のようだった。

 

 暦は、そっと手首の包帯を解いた。

 そこには痣のような、けれど紋様にも似た印があった。
 刀の鍔に似た形をした、血の下に潜むような薄紅色。

「ねえ、ナガミツ。……わたし、もう普通の子には戻れないのかな」

『戻るとは、どこへだ?』

「誰かと普通に話して、将来のこと考えて、恋をして──そういうの」

『“普通”などという語に、具体的な形などない。だがもし、お前が望むなら、わたしは黙ることもできる』

「……本当に?」

『わたしが黙れば、お前は刃を持たぬことになる。お前の言葉も、また曖昧に濁っていくだろう。だが、誰にも見えないものを見る目も、語霊を断つ力も、そのすべてを“無かったこと”にはできない。黙った刀は、ただの重さだ。それを抱えて歩けるのか──お前が、選ぶのだよ』

 

 暦は少しだけ笑った。
 苦笑、というには優しすぎる微笑みだった。

「……バカだな、ナガミツ。“黙る”って、あなたにとっては、きっと“死ぬ”ことと同じでしょ?」

『……』

「じゃあいい。ちゃんと聞くよ、あんたの声。誰にも聞こえなくても、私にだけは、ちゃんと聞こえてるから」

 

 そのとき、風が吹いた。

 遠く、教会の鐘が鳴った。
 屋上の空気がわずかに揺れ、そして、どこか遠くから、別の“語霊”の気配が流れ込んできた。

 凍るような視線。
 言葉ではなく、意思の重さだけが──喉元に迫るような圧。

 

 ナガミツが、低く囁いた。

『来るぞ。語霊に憑かれた者だ。今度は“道具”ではない。……それ自体が、語っている。暦、お前の言葉を問う時がきた』

「うん、分かってる」

 暦はバッグから、静かにナガミツを引き抜いた。
 銀の刃が月を裂くように光る。
 誰もいない屋上に、その光と声が響いた。

 

「──ナガミツ、わたしの言葉を、形にして」

『命ずるままに。お前の声が刃ならば、わたしはその影となろう』

 

 遠くから、誰かの足音が聞こえてきた。

 階段をのぼる気配。
 爪をひっかくような、乾いた摩擦音。
 不協和音のような、何かが擦れる音。

 暦は、刀を構えた。

 その表情に、恐れはなかった。

 

 言葉は刃であり、
 刃もまた、言葉である。

 

 そして彼女は、それを──まだ鞘に納めない。

 
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