あやかし薬膳カフェ「おおかみ」

森原すみれ@薬膳おおかみ①②③刊行

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1巻

1-2

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「うちは薬膳やくぜんカフェだ。客が抱える悩みに適したドリンクを提供する」
薬膳やくぜん……それって、確か中医学の?」
「ああ」

 そうだったのか。何かが胸にすとんと落ちる。
 この男が妙に女性をいたわることに慣れているのも、恐らく職業柄なのだろう。
 もしかしたら目の前のティーセットも、日鞠の体調に適したものを出してくれたのかもしれない。

「じゃああなたは、このカフェの店員さんなんですか?」
「店長だ。店は間借りだがな」

 意外だ。率直にそう思った。
 このティーセットと、カフェの内装。
 OLや女子大生が好みそうなカフェの店長にしては、外見の印象がちぐはぐな気がする。
 どちらかというと、カタギじゃない人のような空気すらただよっている気がした。

薬膳やくぜんの基本は、循環だ」

 静かに告げられた言葉に、日鞠ははっと目を見開く。

「中医学には『気』『水』『血』の三つの概念がある。三つのいずれかが停滞あるいは不足することで身体に不調が現れる。過不足なく全身を巡ることで、すこやかな自分に戻る。……考え方はそれぞれ違うだろうがな」

 それはとても自然な在り方。同時に、心身の不調で退職したばかりの日鞠にとっては、ひどく困難な在り方にも思えた。

「……いいですね。私も見習いたいです、その考え方」
「お前、なんの目的でここに来た?」

 直球すぎる問いかけだった。
 日鞠の答えを待たないまま、男は対面の席に腰を下ろす。

「えっと。どうしてそんなことを?」
「訳ありだろ。見りゃわかる」

 そんなものだろうか。
 疑問が伝わったらしく、男は面倒くさそうに頭をかいた。

「四月中旬。観光が売りの北海道は、まだまだオフシーズンだ。しかも特段イベントごともない平日。羽田から一人観光に来たって顔じゃねえだろ」
「え、どうして私が羽田から来ただなんて」

 驚く日鞠に、男は黙ってキャリーバッグについたタグを指さした。
 どうやら付いたままになっていたタグの空港コードを見たらしい。

「この街に用があったのか」
「……はい」
「お前みたいな若い女は、ひとまず札幌に向かうのが妥当じゃねえのか」
「いいえ。もしかしたらこの街が、忘れかけていた大切な場所かもしれないんです」

 思いがけず、語尾が震える。
 目の奥が熱いことに気づき、きゅっと力を込めた。
 どうしてだろう。この人には、話しても大丈夫な気がしてしまう。
 表情を変えずにこちらを見つめる男の瞳は、やはり不思議な引力をまとっていた。

「私、五歳まで北海道で暮らしていたんです。一緒に暮らしていたおばあちゃんが亡くなって、遠戚にあたる今の両親に引き取られました」

 それは、今まで誰にも話したことのない話だった。

「父も母もとてもいい両親です。血のつながらない私を愛して、時に優しく時に厳しく育ててくれました。本当に、私にはもったいないくらいの両親です」
「もったいない、ねえ」
「私を引き取って、母はほどなく妊娠したんです。生意気だけど、とっても優しい弟が生まれました」

 血のつながりこそなかったが、弟は日鞠にとてもよく懐いてくれた。
 両親も、弟が生まれてからも態度を変えることはなかった。
 それでも、日鞠は申し訳なさにも似た罪悪感から逃れられないでいた。

「就職と同時に家を出るときに決めたんです。これからは、自分一人の力だけで生きていくって。もう誰にも、迷惑をかけないように」
「……」

 沈黙が落ちる。
 はっと我に返った日鞠は、努めて明るい笑みを浮かべた。

「まあそんな私も今は、失業中の身なんですけどね。せっかくの機会だから昔住んでいた街を探してみようって、ただの思いつきでここまで来たので」
「それが、この街だと?」
「それは……まだわかりません。街の名前も覚えてないんです。何しろ幼かったですから」

 北海道を去って以降、日鞠は祖母と過ごした日々にあえて触れてこなかった。
 この頃の写真も、北海道を去る際にわざと置いてきた。
 祖母の思い出ばかり大切にしていたら、引き取ってくれた両親に申し訳なさすぎるから。
 ショルダーバッグに手を伸ばすと、中に仕舞っていたスケッチブックを広げる。

「手がかりらしい手がかりは、小さい頃に描いたこの絵だけです。あんまり古い絵なので、あちこち色がせてしまっていますが」

 湿気にやられたのだろう。
 スケッチブックの紙面のあちこちが、雨粒を落としたように白く薄れてしまっている。
 ぱらぱらと開き、ふと手が止まるのはいつも同じページだった。
 緑の中にたたずむ神社。石畳と砂利道に囲まれた広場で、皆が楽しそうに遊んでいる。祖母といつも通っていた、思い出の場所の絵だ。
 さあ、元気を出せ。
 ずっとがれていた北の大地を、ようやく踏むことができたのだから。

「つまらない話に付き合っていただいて、本当にありがとうございました。飲み物のお支払いをします。おいくらですか?」
「――北広島市新登美しんとみ地区。今は、新登美町南になっているが」

 男の口から出た地名に、財布を取り出そうとする日鞠の動きが止まった。

「自分一人だけの力で探し出したいっていうなら、手出ししねえがな」
「え……え?」
「お前のその思い出の街探し、俺が力になる」


 大丈夫。大丈夫。この人は大丈夫。
 気づけば心の中で繰り返していた。
 フロントガラスの向こうから、夕焼けがまぶしく照りつけてくる。
 運転席の男は無言でサンバイザーを斜めに下ろし、運転を続けた。
 助手席の日鞠はなるべく隣の席を見ないように、窓に顔を向けたままでいる。
 思いがけず提案された、懐かしの故郷までの道案内。
 なぜ、赤の他人の日鞠をここまで手厚く世話してくれるのか。
 なぜ、日鞠が探している街を知っているのか。
 考えれば考えるほど、不可解なことが多すぎる。
 先ほどカフェで何気なく開いた、色せたスケッチブック。その絵の風景に見覚えがある、と男は言っていた。
 あんなつたない絵でぴんとくるものなのか疑問だったが、日鞠は男の言葉を信じた。
 この人の親切を信じることで、自分の疲弊ひへいしきった心がやされる気がしたから。

「あの」
「あ?」

「あ」に濁点が付いたような男の返しに、慌てて続く言葉を引っ張り出す。

「駅で会ったときに、すごい量の植物を持ってましたよね? 花束というよりも草束のような……」
「ありゃ野草だ。知人の森でたまに採らせてもらってる。冬も終わって今年最初の収穫だった」
「野草ですか」

 そういえば祖母と暮らしていた頃に、よく森の野草を採った気がする。
 祖母は博識で、自分の何気ない質問にいつもよどみなく答えてくれた。それこそ野草のこと以外でも、なんでも。
 この人も野草採りが趣味なのか。ますます見た目とのギャップがある。

「その野草を使って、お店のメニューにしたりはしないんですか?」
「そうするつもりで持ち帰った。が、あれを店に出すのは無理だな」
「え、どうして」
「お前があの野草に顔からダイブしてきた。他人ひと様に出すものだからな、店に出すのは無理だ。自分で調理して自分で食う」
「ごめんなさい、すみません」

 新たな失態を知った日鞠は、すっかり身を縮める。
 でも、確かにあのカフェでなら、自然豊かな野草メニューはふさわしいに違いない。
 先ほど車を出してもらう際に、ちらりと見たカフェの外観を思い返す。
 木製の扉と白塗りの壁の、シンプルな二階建ての建物だった。
 通りに面した大きなガラス窓からは、柔らかな日差しが店内に降り注ぐ。
 入り口横には小さな花壇があり、色とりどりの花が春風に心地よさそうに揺れていた。
 あのカフェの名は、なんというのだろう。

「着いたぞ」
「あ、はい!」

 車が停車したことに気づき、男にならってシートベルトを外す。
 そして広がる光景に、日鞠は目を見張った。
 辿たどり着いたそこは、どこでも目にするような閑静かんせいな住宅街だった。
 通りに面した区画には全国展開のコンビニがあり、少し離れた位置にはスーパーの看板の一部が顔を覗かせている。
 スケッチブックの中に描かれた、緑と動物たちがともにあった街。
 それが今は、人間がより住みやすい街に変わっていた。
 最寄りの駅でさえあそこまで立派になっていたのだ。昔暮らしていた街だって、時代に合わせて変貌していて当然だ。
 それなのに、自分はまだ望みをかけていたのかもしれない。
 昔幸せな時間を過ごしたあの街だけは、今も変わらず自分を待っていてくれると。

「はは……考えてみれば、そうですよね」

 口から出たのは、春風に飛ばされそうな弱々しい声だった。

「あれから、二十一年ですもんね。何も変わらずにそのままなんて、あるはずがないのに」
「……」
「どうして私、ちゃんと覚悟、してなかったのかな……?」

 一歩。また一歩。足を踏み出す。
 乗ってきた車とは逆の方向へ、気づけば日鞠は夢中で駆け出していた。
 大きな区画の先を左に曲がる。
 住宅地に面した通りだ。でも地形自体は変わっていない。
 坂道が見えてきた。ほら、この道だってちゃんと身体が覚えてる。
 昔よく通った上り坂だ。呼吸が浅く、痛く、すり切れていく。
 がむしゃらに駆けていく中で、忘れていた記憶がわずかによみがえってくる。
 そうだ。このまま道沿いに行けば、急な上り階段がある。
 その先には、唯一はっきり覚えている、思い出の場所が。

「止まれ!」

 強い力で手首を掴まれる直前、日鞠はすでに歩みを止めていた。
 日鞠の顔に浮かんだ絶望を見て、男は小さく眉を寄せる。

「この先に広がっていた森は、新たに住宅地としてひらかれた。もう随分ずいぶん前のことだ」

 低い声色が、日鞠に遠く響く。
 毎日のように通っていた美しい森は、跡形もなく消えていた。
 汗をにじませながら上り下りした石階段も、皆で遊んだ広場も、祖母が大好きだった神社も――みんなみんな。

「下手だな。泣くのが」

 驚くほど大きな手のひらに、がしっと頭をつかまれた。
 見上げた先の男もまた、住宅街に視線を向けている。
 夕焼けを反射しているからか、その瞳は美しい金色に染まって見えた。

「大切な街に戻ってきたんだろう。その情けねえつら、どうにかしろ」
「はは。そう、言われましても……」

 力ない苦笑を浮かべた、そのときだった。
 細かな光の粒が、どこからか勢いよく立ちのぼっていく。
 白い光がまたたく間に視界を塗りつぶし、何も見えなくなった。

「え……っ」

 急な向かい風が一気に吹きつけた。
 咄嗟とっさに腕で自分をかばい目をつぶった日鞠は、あることに気づく。
 懐かしい、深緑の香り。
 幼い頃の記憶がそっと開かれる感覚に、まぶたを薄く開ける。
 次の瞬間、日鞠ははっと息を呑んだ。
 かすかに記憶にある、白く長い石階段が延びている。
 行く手を包み込むようにしげる木々の緑が、まぶしいくらいに濃い。
 地面をまだらに照らす木漏れ日が、風に優しく揺れた。
 石階段を一歩、一歩と上っていく。
 次第に息を上げ駆けていく日鞠に、ふわりと桃色の花びらが届いた。
 懐かしさに胸が苦しくなるのを感じながら、なおも階段を上っていく。
 最上段で日鞠を出迎えたのは、石畳と砂利が敷かれた広場と古びた木造の建物。
 建物に寄り添うようにして生えた、美しい桜の木だった。
 ああ、間違いない。
 幼い頃の自分は、あの人といつもここで過ごしていた。
 さくら吹雪ふぶきがまるで夢のように美しかった、この場所で。
 ――ねえおばあちゃん。このじんじゃ、いったいだれがすんでるの?
 耳に響く幼子の声に、はっと辺りを見回す。
 ――そうさねえ。今はもう、誰も住んでいないねえ。
 ――それじゃあ、おばあちゃんはどうしていつもここをおそうじするの。
 ――ここが好きだからだよ。それ以外に理由はいらないだろう。
 ――そっかー。ひまりもね、このばしょがだいすき!
 あふれんばかりの春の陽を浴びて、その人はいた。
 忘れることのない、たおやかな薄紫色の着物と、後頭部にゆったりと結われた白髪。
 目尻に刻まれた笑いじわと、辺りを駆ける幼女に向けるいつくしむような眼差まなざし。

「……おばあちゃん!」

 直後、目の前の風景が大きく弾ける。
 あの頃のあの場所が、見覚えのない住宅地に変わった――いや、戻ったのだ。
 日鞠はその場で膝を抱えて座り込み、深くこうべを垂れる。込み上げる嗚咽おえつが、どうしようもなく止まらない。
 次から次へとあふれてくる涙が、日鞠の頬を濡らしていった。
 頭にのせられていた男の手が、そっと離れていく。
 優しい桜の残り香が、そよ風に静かに溶けていくのを感じた。


 探し求めていた街を後にし、日鞠は北広島駅へと送り届けられた。
 駅西口の降車スペースに車を停め、荷下ろしのため男も車を降りる。

「今日は、本当に本当にお世話になりました」

 何度目かわからないお礼とともに、日鞠は深々と頭を下げた。

「ずっと心の中にあった懐かしい街を、この目で見ることができました。それも全部、あなたが道案内してくれたおかげです」
「大仰な奴だな。見覚えのある街の絵を、偶然お前が持っていただけだ」

 淡々とした男の口調に、日鞠は口元をほころばせる。
 あそこまで変貌を遂げた街を、わずか一日で見つけることができた。
 この人との出逢いがなければ、きっと起こりえなかった奇跡だ。

「あの、それとすみません。ひとつ質問をいいですか」
「あ?」
「さっき案内してもらった場所で……桜の花を見ませんでしたか?」

 おかしな質問だとは承知していたが、確かめずにはいられなかった。
 先ほどまるで魔法のように垣間かいま見た、昔の大切な風景。
 あれは一体なんだったのだろう。白昼夢のようなものだったのだろうか。

「今はまだ、この辺じゃ桜はつぼみだぞ」
「……はは。そうですよね」

 奇跡でも白昼夢でも、なんでもいいや。
 たとえ一時だけでも触れることのできた、大切な祖母との記憶。
 今はそれをただ、大切に胸に仕舞っておくことにしよう。

「で? どうするんだ、これから」
「この駅周りには、ビジネスホテルのような場所もないようですしね。ひとまず予定どおり札幌で一泊して、今後のことを考えます」

 どころにしていた故郷の、大きな変貌。
 二十一年経つとはいえ、すぐに受け入れられるほど日鞠は成熟できていない。
 それでも、人と自然が穏やかにいこうこの街に、日鞠はすでに好感を持っていた。
 変わってしまった場所がある。しかし、ここに住む人たちはとても幸せそうだ。

「近日中にこの街に来ます。そのときは、またお店に寄らせてくださいね」
「無茶すんなよ。今度ぶっ倒れても、もうソファーに寝かせねえからな」
「う……はい。純粋に、飲み物をいただきにまいります」

 正直、通常営業中のあのカフェの姿が気になって仕方がない。
 小さな期待を胸ににじませていた日鞠は、唐突に「あ!」と声を上げた。
 そうだ。大切なことを忘れていた。

「今さらな質問なんですけど、最後にひとつだけ。さっきのカフェの店名と、あなたのお名前は――」

 続く言葉は、耳をつんざくブレーキ音にかき消された。
 音のした方向を振り返ると、遠くの歩道に初老の女性がうずくまっているのが見える。
 そしてさらに、ものすごいスピードでこちらに向かう自転車の姿が飛び込んできた。

「危ねえ!」
「きゃっ⁉」

 すんでのところで隣の男にかばわれ、日鞠は暴走自転車との衝突を免れた。
 何? 一体何があった?
 事態を呑み込むより先に、遠くで若い女の子の叫び声が響いた。

「引ったくりです! あの自転車の男、このおばあちゃんの財布をっていきました!」
「え、あれ。うそ」

 私のショルダーバッグも――ない!

「野郎」
「あ、私も」

 行きます、と続ける間もなく男は駆け出していた。日鞠も慌てて後を追う。
 周囲には意外がられるが、日鞠の身体能力は相当に高い。
 中でも短距離走は学年一、二を争うほどで、陸上部のスカウトを受けた経験もある。

「って……は、速!」

 にもかかわらず、日鞠の先を行く男の背中は急速に離れていくばかりだ。
 引ったくり犯が逃げていったのは、駅前広場から右に折れた人通りの少ない細道だった。
 写真屋、美容室、住宅街を通り過ぎ、勾配こうばいの急な階段を乱暴に駆け下りる。
 信号を渡り、ドラッグストアの脇道に自転車は姿を消した。息が上がる。それでもどうにか食らいつく。
 先ほどの老婦人の財布はもちろんだが、日鞠自身もショルダーバッグを奪われた。
 あのバッグには大切なスケッチブックが入っている。

「あっ、川……!」

 目の前を横断するのは、向こう岸に森が広がる川だった。
 川幅はさほど広くはないが、川を挟む草原から向こう岸まではゆうに五メートル以上ありそうだ。この幅なら、飛び越えるなんて不可能だろう。
 引ったくり犯も虚をつかれたのか一時停車する。
 日鞠とともに引ったくり犯を追いかけていた男もまた、その足を止めた。
 こめかみににじんだ汗を服の袖で拭い、男がふうと息を吐く。

「観念しろ。まだ無駄な追いかけっこを続けるつもりか」
「チッ! うるせえ!」

 あ。いけない。
 苦々しく舌打ちした引ったくり犯は、川に向かって何かを放り投げた。
 ひとつは、老婦人から引ったくった長財布。
 もうひとつは、日鞠のスケッチブックが入ったショルダーバッグだ。

「やめてーっ!」

 喉をこするような叫び声が、辺りに響く。
 放られたショルダーバッグは、すでに川に向かって落下しはじめている。
 まさか、こんな形で失うなんて思っていなかった。自分と幼い日々を結ぶ、唯一の思い出の品を。
 そのときだった。
 川の上を高らかに横切っていく、何者かの影があった。
 弧を描くような美しい跳躍に、日鞠は大きく目を見開く。
 つやのある漆黒の毛並み。天をくような三角耳に、黒い尾がなびく。
 人間ではない。あれは。
 ――オオ、カミ?
 引ったくり犯に投げ込まれた荷物が、川に落ちる音はしなかった。
 代わりに、向こう岸でしゃがみ込んでいた影が、ふたつの荷物を抱えながらゆっくりと立ち上がる。
 オオカミじゃない。人間だ。
 ついさっきまで、自分の隣で思い出の街まで案内してくれた、あの人。
 人には到底飛び越えられないはずの川の向こう岸で、男はゆっくりこちらを振り返った。

「大丈夫だ。どっちも濡れてねえよ」
「……」

 いや、何も大丈夫じゃない。
 情報の処理が追いつかずにその場にへたり込む。
 気づけば日鞠は、再び気を失った。


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