ウオノメにキス

森原すみれ@薬膳おおかみ①②③刊行

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第五章 デート、浸食、ターゲット。

(1)

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 赤ペンで記した文字間の狭い癖字が、原稿用紙のあちこちに生意気な指摘や感想を残していく。
 そして末尾の余白に、私は短い私信を書き添えた。
 もしかしたらあなたは、作家の好みが私と同じかもしれません。
 違和感なく読み進められるこの小説の文体は、私が日頃愛読する先生のそれとよく似ていた。

「店長~。関君は今日もシフト入ってないんですか?」
 耳に届いた客の一人からの問いかけに、思わず意識を集中させる。
「申し訳ございません。あいつはしばらく暇を頂いているんですよ」
 眉を下げて受け答えをする栄二さんに、問いかけた客はもとより周囲にいる他の女性客も揃って肩を落とした。
「そっかぁ。いつくらいに戻るんですか?」
「そのうち戻りますよ。それまでは私とゴンだけでご勘弁下さい」
 もう何度目だろう。同じ内容、同じ口調、同じ表情で返される答えに、私はじりじりと苛立ちが溜まっていく。
 達観している気配が漂う栄二さんの「そのうち」は、何ヶ月後とも何年後とも何十年後とも思えた。
「そんなに気になるってことはさ、ずばり! 透馬君のことが気になってるってことじゃないの?」
 アイスココアをストローで啜りながら、奈緒は何度目かわからない指摘をした。透馬が姿を眩ませてからもうすぐ一ヶ月になる。
「雲隠れの前に杏に会いに来たんでしょ? わざわざ! それから何も連絡もないんだ? メールも、電話も?」
「ない。そもそもあいつにそんな個人情報を漏らしてないし」
 つっけんどんに答えた私は、手元のカプチーノをぐいっと呷る。
 別に何が変わったわけでもない。あいつと知り合ったのだってここ数ヶ月のことだし、以前の私の日常に戻っただけだ。早めに貸し借り精算しておいて本当に良かった。
「強がっちゃって~」
 困ったように笑う奈緒に、私は気付かない振りをした。



「尾沢教授? あのやたらボディータッチの多いハゲ親父?」
「今野さん、正解です」
 文学部棟を行動範囲に入れている女なら常識問題だ。
「オザワ教授」=「オサワリ教授」で通じるようになることが、この大学にとけ込めたある種の目安としてもいい。
「んで。オサワリ親父がどうしたの? 確か、この教授も被害者だったよね」
「はい。そしてこれは、被害者情報の一覧です」
 あの後、図書館で頻発していた中傷書き込み事件の犯人捜査は少なからず進展を見せていた。
 まずは奈緒に言われたとおり、被害者のゴシップを知る人物に心当たりがないのか、今一度聞き取りをした。どこかでそれを話さなかったか、話した相手は誰だったか。
 その結果浮かび上がった共通点は、いずれもこの大学関係者。しかしながらその範囲は学生から教授陣まで幅広く、特定の誰かが浮かび上がる、なんて都合のいい展開には当然ながらいかなかった。
 また、氏名に使われた旧字についてはどれも正確に記されていた。
 ただ一人――尾沢教授を除いては。
「へぇ。つまり、オザワ教授の『ザワ』は、さんずいに尺の『沢(ざわ)』が正解なのね?」
「そうなんです。でも中傷文にあった尾沢教授の名前には、新字の『沢(ざわ)』ではなく旧字の『澤(ざわ)』が使われていました」
 ちなみに尾沢教授についての中傷内容は、いわずもがな女性職員及び女子生徒への執拗なセクハラ行為だ。
『法学部法学科教授・小澤鉄郎教授は、女性職員及び女子学生に対し日頃執拗な事務作業を言いつけては己の研究室に誘い込みセクハラ行為に及んでいる』――こんな胸糞悪い文面に、まさかこんな風に向き合うことになるとは。
「そして問題は、何で犯人がわざわざ旧字の『澤』を使ったのか、です」
「犯人が漢字を間違えて覚えていた?」
「そこなんですが、あの教授、五年くらい前に市役所でもともと旧字だった『澤』の字を、新字の『沢』に直す手続きをしたらしいんですよ」
「え。そんなことできるの?」
「旧字から新字への変更は、意外と簡単に認められるみたいですよ。それ以来、大学の所属名簿から何から綺麗に『沢』を使っているみたいで」
 つまり、犯人がここ二、三年の間で尾沢教授を知ったのだとすれば、今回の中傷文で旧字の『澤』を使う理由はない。それらを踏まえて整理すると。
「犯人は大学関係者。加えて恐らく勤務歴が五年以上の、大学関係職員の可能性が高いと考えます」
 手元の資料を静かに閉じる。そして以前と同様、周囲を取り囲んでいた先輩司書の拍手喝采が沸き起こった。
「はぁ~。相変わらず凄いわぁ小野寺さん。これから本当に犯人特定も夢じゃないかもね!」
「でも、条件に該当する人なんてたくさんいますからね。その中の誰が、何の目的でこんなことをしてるのか」
「んー。現代の犯罪って、動機もあってないようなもんだからねぇ」
 確かに、先輩たちの言う通りだ。
 何はともあれ、その後も先輩司書から浴びせられる賞賛の言葉に居心地悪さを感じながら、この空間の物足りなさにひとり顔を上げた。
「そういえば、今日、中吉ちゃんは?」
「来てるよー。さっき返却図書を戻しに行くって言ってたけど」
 関心のなさげな先輩を尻目に、これ幸いと私は事務室を後にする。賞賛のシャワーも、あまり浴びすぎると身体に毒だ。
 その点、中吉ちゃんがいてくれるときは彼女が全員分の反応を一手に引き受けてくれる分心持ち清々しくいられる。あの子は私と違って、自分の感情に素直な子だから。
 カウンター横で広がっていた書類をまとめ、中吉ちゃんの手助けに向かおうとした時だった。
 後方で人の気配がしたのと同時に、書籍の崩れ落ちる音が聞こえたのは。
「中吉ちゃん?」
「小野寺さんっ」
 目に止まった人影に、私は反射的に声をかけた。どうやらまた本の山か何かを崩してしまったらしい。あわあわと焦りを露わにする中吉ちゃん。
 その足元にページ面を下に落とされたえんじ色の書籍の表紙を見留め、私は苦笑を漏らした。
「まーたやっちゃったの? 中吉ちゃんってば。今日は主任もいる日だから、お小言気を付けないと」
「……た、たたっ、大変です小野寺さんっ!」
 口の中で何度も言葉のお手玉をしながら、中吉ちゃんが書籍もそのままに急接近してくる。
 その対策も手慣れたもので、私は彼女の額を人差し指で押し止め笑顔を浮かべた。
「なーにが大変? っていうか、散らばった書籍を拾わないと……」
「そ、そのっ! 小野寺さんの彼氏さん? にとっても似た人が、図書館のホールにですね……!」
「――」
 透馬が?
 瞬時に浮かんだのが奴の名だという事実に、気が付く余裕もなかった。
 一ヶ月だ。
 この一ヶ月、仕事にも散々穴をあけて――これは栄二さんが納得しているようではあるが――どこにしけこんでやがったあの野郎。
 咄嗟にゲートの先に視線を向けるも、学生たちがいつものようにまばらに入り乱れていて、目当ての人影は見えなかった。
「あの……入ろうかどうか、凄く迷ってる様子でしたから。私、小野寺さんを呼んできますかって聞いたんですけど、いいって言って」
「もしかしたら、帰られたのかも……」言い終わるか分からない中吉ちゃんの言葉尻を耳に掠めながら、私は窓口の扉を押し開けた。
「いい」って、なんだ。「いい」って。こっちはちっとも良くないわ……!
 職員証をかざす動作も煩わしく思いながら、職員用ゲートをくぐり抜ける。目を見張って立ち止まる生徒もいたが、気に止めることなく私は辺りをくまなく見回した。
 見ればすぐに目につくはずの長身は、どこにもない。思わず玄関へ繋がる階段に足をかけようとしたところで、ようやく我に返った。ちょっと待て。落ち着いて考えろ。
 何をしてるんだ。私は。
「小野寺さんっ!」後ろから慌てた声が投げかけられる。ああ、自分の後輩にまで、こんなに困った顔をさせて。
「あ、の。やっぱり、帰っちゃったんですかね……?」
 静かに息を吐いた。先輩の顔つきに、静かに戻す。
「ごめん。驚かせちゃったね」
「い、いいえっ! その、私……」
「戻ろうか。そろそろ主任が来ちゃうから」
 中吉ちゃんが申し訳なさげに眉を下げているのが目に止まり、私はぽんぽんと彼女の頭を撫でた。詫びるべきは私の方なのに。
 自嘲の笑みを浮かべる。窓口を飛び出していった自分は、どんなに情けない表情だったろう。
 職員用ゲートを再び開く。前に奴を介抱してやったフリースペースに一瞬視線を向けかけ、結局やめた。
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