ゆううつな海のはなし

七草すずめ

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ファインダーの中の青(一)

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「とんでもないものを撮ってしまったかもしれない」
 慧くんが怯えるようにして帰ってきたのは、七月最後の土曜日、少し冷える夜だった。今日は確か、由比ヶ浜に行っていたはずだ。
「何が写ったの?」
 海で写ってしまったとんでもないもの、なんていうホラー映画のような展開にちょっと寒気を感じ、問いかける。だけど彼は黙って首を横に振った。
「フィルムカメラだからさ、まだわからないんだ。写ってないかもしれないし」
「え? じゃあどうしてそう思ったの?」
「なんていうか……目の前でさ、海がしゃべった気がしたんだよ」
「海が?」
「うん、海、というか波。なんかさ、よく聞き取れなかったけど」
 洗い物をしていた手を止め、彼に目を向ける。そんな冗談いうタイプだったっけ、と茶化そうとして、やめる。愛用のカメラをじっと見つめるその目は、冗談なんて言っているときのものではなかった。
「とりあえずさ、現像してみたらいいよ。フィルムあと何枚?」
「替えてすぐだったから、まだたっぷり残ってる」
「うーん、使い切らないともったいないよね。明日は撮りに行かないの?」
「明日かあ……」
 彼は明らかに気がすすまなそうだったけれど、だからといってこのまま喉に小骨が引っかかったままというのも嫌なようだった。結局「葵も来てくれるなら」と子供のようにだだをこねられ、わたしも一緒に写真を撮りに行くことにした。
「俺のカメラ、好きなの貸すよ」
「やったあ。あれ貸して、縦で撮れるやつ」
「ハーフカメラ? いいよ、フィルム自分で入れる?」
「苦手だから慧くん入れて。ね、今日と同じ海に行く? それとも別のところに行く?」
 慧くんは、海を専門にするカメラマンだ。SNSで一度、いわゆる「バズ」ったことがあって、それをきっかけに一冊、海の写真集を出した。いろんな表情の青色がとてもきれいで、たしかにすてきな写真集だった。
 だけどそのせいで写真館の仕事を辞めてしまい、それ以降ずるずると貯金を切り崩しているのにはちょっと困っている。海専門のカメラマンというより、かたくなに海しか撮ろうとしないカメラマン、の方が正しいのかもしれない。
「いや、海はいいや」
 だから彼がそう言ったのには少し驚いた。あの慧くんが海を撮らないなんて、よっぽどだった。海の近くに家を建てるのが夢、なんてことまで言っていたのに。
「葵が行きたいところに行こう。この前、ひまわり見に行きたいって言ってなかった? ほら、千葉の、どこだっけ」
「佐倉ね。いいの? 佐倉にあるの、海じゃなくて沼だよ」
「いいんだって、たまには」
 一緒に暮らすようになって二年経つが、こんな慧くんを見るのは初めてだった。
「俺、花はあんまり撮ったことないから、ちょっと勉強してから寝るね。先に寝てて」
 心配だったけれど、零時をとっくにまわっていたので、おとなしく先に眠ることにする。おやすみ、と言った慧くんはわたしのことを見ているようで見ていなかった。波がしゃべった、と言っていたけれど、いったいどういうことなんだろう。
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