ゆううつな海のはなし

七草すずめ

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ファインダーの中の青(三)

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   *


 帰りの車で、慧くんはぐっすり眠ってしまった。静かなメロディを聴きながら、わたしは彼が聞いたという言葉について考える。いったい何を言われたというのか、そして、写っているとしたら何が?
 マンションの駐車場に車を停める。腕と足を組んで眠る慧くん、膝の上には例のカメラ。ついたよと肩を揺すろうとして伸ばした手を、寸前で止めた。少し考えて、膝の上のカメラに手を伸ばす。
 最初に慧くんに出会ったとき。そのときもたしか、彼は海を撮っていたんだった。腐れ縁だといういう男の子が、こいつはいつもこうなんだよって笑っていたから、きっとわたしが知るずっと前から海に惹かれつづけていたのだろう。そのとき使っていたのはこのカメラだった気がする、いや、違ったかもしれない。カメラに詳しくないわたしに、慧くんは一生懸命ちがいを説明してくれたけれど、結局よくわからないままだ。
 だけど、カメラを借りて写真を撮るようになって、フィルムの入れ方と巻き方ぐらいならなんとかわかるようになった。それから露光やピントなんていう言葉の意味や、巻かずにフィルムのふたを開けてしまったらどうなるかということも。
 カメラの左側、くるくる回すレバーみたいなものに触れてみる。これを上に引っ張れば、ふたが開く。慧くんがやるのを見ていた。感光させて、フィルムをだめにしてしまおうか。そうすれば何もなかったことにできるかもしれない。慧くんも波のことなんて忘れて、いつものように戻るかもしれない。そうだ、たしか巻き戻しクランクと言われていたレバー、それに爪をかける。
 いや、だめだ。カメラから目をそらし、自分の膝におく。眠ったままの慧くんは、無防備で、きっとわたしを信用していた。命のように大切にしているカメラを、こうやって触ってしまっただけでも裏切りだ。
「起きて、ついたよ」
 もとのところにカメラを置いてから慧くんをゆすると、彼はとても自然に、目を開けた。起きると言うよりも、目を開けた、という表現の方が正しい動作だった。
「ありがとう」
 わたしを見て言ったお礼の言葉は、起こしたことに対してだろうか、運転したことに対してだろうか、それとも。


   *


 夏は過ぎていった。海も花も撮れなくなってしまった慧くんは、コンビニでアルバイトを始めた。
「ほんとうに、コンビニ以外考えていなの?」
 面接を受けに行くと突然言い出したとき、わたしは何度もそう聞いた。以前つとめていた写真館の主人が、いつでも戻ってきてと言ってくれたことを知っていたから。だけど慧くんは、写真に関わることをかたくなに拒んだ。理由は一切言おうとしなかったが、たった一度だけ、
「ファインダーを覗き込むのが怖い」
とこぼしたのを聞き逃さなかった。
 例のカメラは、風車の写真を最後にフィルムを巻かれていない。そのくせ、リビングのカウンターテーブルに、大切そうにずっと置かれている。ほこりがかぶらないよう、丁寧に掃除しているところも見かけた。
「慧くんはさ、何が写ってるのか知っているんでしょ?」
 コンビニのバイトから帰ってきた慧くんと、オフィス街での仕事を終えてきたわたし。向かい合って夕飯を食べるときだって、嫌でもカメラが視界に入ってしまう。夏はもう、終わりに近かった。
「知らないよ」
 箸をおいて、水を飲んで、それからどこか一点を見つめたまま、動かなくなってしまった。暇さえあれば海に出向いていた慧くん。ファインダーを覗くことすらしなくなった慧くん。
「週末、海を見に行こう」
 厚焼き玉子を口に運びながら、決定事項のようにそう伝えると、不思議と彼は嫌がらず、だけど目を合わせることもなく、うん、と小さくつぶやいた。
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