ゆううつな海のはなし

七草すずめ

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ファインダーの中の青(四)

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   *


 カメラは置いてきたっていいはずなのに、慧くんはあのカメラを肩にさげて、車に乗り込んだ。運転は今日もわたしだ。
「写真撮りたい場所があったら言ってね、すぐ車停めるから」
「ありがとう」
 お礼の言葉も小さくて、なんだかもう、すっかり弱りきっているように見えた。
 仕事どう? うん、それなり。出かけるの久しぶりだね。うん、そうだね。コンビニ寄る? うん。お昼なに食べようか。うん。
 行き先を由比ヶ浜に決めたのは、賭けだった。あの七月の日、慧くんが怯えて帰ってきた日に、彼が行っていたのはおそらく由比ヶ浜だったと思うから。
 確信を持ったのは、首都高を降りたとき。慧くんの表情が明らかに変わった。そして鎌倉駅の手前を通過したとき、慧くんは動揺するように、わたしに言った。
「聞いてないよ」
「聞かれなかったから言ってないよ」
 車内に重い空気が流れる。だけど、いくら荒療治だとしても、このまま放っておくことはできなかった。秋を迎えてしまえば、二度と取り返しが付かないような気がしていた。
 お盆を過ぎた海水浴場は静かで、数組のサーファーとカップルがいるのが目に入った。だけど、慧くんはそんなの見ていないというのが、手に取るようにわかる。彼は今、海を、というよりも、ひっそりと海岸によせられる波を見ていた。
「どこで写真撮ってたの?」
 少しためらったようだったが、黙ったまま、慧くんは歩き出す。手にはしっかりとカメラを持って、だけどファインダーを覗こうとはしない。西へ西へと歩くと、いくつもの舟が置かれている、海岸の行き止まりまで来てしまった。背後の道路で車こそ走っているものの、サーファーもカップルも、だれもいない。
「あの日、江ノ電の写真を撮るために来たんだ。海と江ノ電。だけど途中でフィルムがなくなったから、喫茶店に入ってフィルムを替えた」
 慧くんが、海だけでなく、海と何かを併せた写真を撮りたがっていたのは知っていた。今までが海にとりつかれたようだったから、それを知って少しほっとしたのを覚えている。
「そのまま帰ろうかとも思ったけど、せっかくだから由比ヶ浜まで行こうって思い立って、ここに来た。それで」
 不意に言葉が詰まる。おそらく無意識に、二歩後ろへさがった。
「波打ち際まで行って写真を撮ろうと思った。シャッターを押そうとしたとき、ファインダー越しに、大きな波が俺を呑みこもうとしたのが見えた」
 え、と息をのむ。慧くんは青白い顔で続ける。
「驚いた拍子に、シャッターを切った。水に包まれるのを感じた。カメラをおろすと、大きな波なんてどこにもなくて、でも確かに水がかかった感触だけが残っていた。それから、耳の奥で、ずっと波の言葉が響いてた」
「どんな言葉?」
「愛してるって」
 ぶわりと鳥肌が立つ。
「何が写ってるんだろう。今目の前にあるような、普通の海だったらいいんだ。でも、そうじゃなかったら?」
 うつむいている慧くんは、震えているようにも、泣いているようにも見えた。わたしは黙ったまま、なにも言ってあげることができない。
 貸して。
 それが自分の声だと気付くのに、一瞬遅れた。キスするときと同じ距離にある慧くんの瞳、その奥に驚きと恐れと、それから少しの安堵が見えた気がした。
 わたしはそのまま口づけをし、肩にかけられたカメラを手に取る。慧くんは目を閉じた。巻き戻しクランクを指で探り、引き上げようとするが、上手くいかない。
 されるがままだった慧くんは、キスの仕方を思い出したかのように、わたしの背中に手を回し、体を引き寄せた。それから口を離し、
「ロックかかってる」
と笑うと、片手の指でなにかのレバーを引き、わたしの顔を見た。さっきと同じように引き上げると、いつも慧くんがやっていたように、クランクがあがる。もう一度上に引けば、裏蓋が開く。
 いいの、と聞こうとした口が、慧くんにふさがれた。閉じられた目に涙がにじんだのがわかった。それはあの瞬間を捨て去ることへの恐怖なのか、見えないものへ怯える必要がなくなる安心なのか、それとも愛を返すことができなかった海への罪悪感なのか。
 力を込めてクランクを引き上げたのと同時に、ぱか、と小さな音が聞こえた。ほんの少し開いた扉を、思いきりあける。唇が離れ、うるむ慧くんの瞳を見つめかえす。
「葵」
「はい」
「ありがとう」
「うん」
 慧くんはわたしの腰に巻いていた手をほどき、自らカメラを手に取る。セットされたままのフィルム。太陽に上書きされて、二度とよみがえらない写真。
「今度さ、」
 巻き上げないまま取り出されたフィルムが、長いテープのように伸びる。風を受けて、きら、と光る。
「葵の写真、撮らせてよ」
 じっとわたしを見る目が、やさしく笑う。言葉が出てこなくて、かわりに涙ばかりが出てきてしまって、ばかみたいに頭を上下に振る。抱きしめてくれた慧くんは、いつものようにわたしの髪をぽんぽんと撫でた。砂に落ちたフィルムが、静かな波にのみこまれていった。
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