薫くんにささぐ

七草すずめ

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紗奈ちゃんは絵を描かないと死ぬ

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 六時、寝室から出てきた薫くんはすっかり外出モードの顔をしていて、ついでに洋服から鞄からなにから、出かける準備がすべて整った状態だった。朝ごはんをいっしょに食べるとか紗奈ちゃんが起きないようにセックスするとかしようよ、と不平を言いたくなったけど、油揚げくらいしか朝ごはんになりそうなものがないので黙っておく。
「たぶんまたしばらく帰れないから、ごめんね」
 薫くんはあくまで仕事がいそがしくて帰れないという体で話をする。わたしはそれを信じている体で話をする。本当は仕事じゃないってわかっているし、薫くんだってわたしがわかっていることをわかっている。じゃあわたしたちはいったい誰に向けて演技をしているんだろう。
 だけど今日は紗奈ちゃんがうちにいる。いつもみたいにひとりぼっちで時間をもてあましたり小説を全部削除したい衝動に駆られたり自慰行為にふけったりする必要もないのだ。金棒を手に入れたような気持ちだ。
 そう思ったのに、紗奈ちゃんは「一日に一枚絵を描かないと死んでしまう病気だから」と言って午前中のうちに帰ってしまった。せめてお昼ごはんぐらいいっしょに食べたかったけど、禁断症状みたいに震えている紗奈ちゃんを引き留めるなんて、わたしにはできなかった。
 たのしかった時間からジェットコースターみたいに急降下して空中に投げ出されて、着地したわたしはひとりぼっちだった。
 ああ、わたしも一日にひとつ小説を書かなければ死んでしまう病気だったらよかったのにな。そうじゃないわたしには、地獄の底から這い出てきた感情のかたまりを処理する方法がわからない。
 愛する人がわたしを救ってくれないのだから、もうわたしは死んだも同然なんだ。なんて思いながらカーテンの模様の数をかぞえていたら、ぴろりん、とスマホの通知音がした。
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